水原氏事件のこと

2024-03-31 00:00:50 | スポーツ
真相がわからないことを書くのもどうかと思うが、他人の口座の金を第三者に送金できるわけはないというように評論家たちは言っていたが、簡単にできるという話があちらでもこちらでも沸き上がっている。まったく不思議だ。

1. 口座管理の一部か全部かを任されていた。
2. 大谷が送金するところを脇で見ていて、パスコードなどの情報を覚えていた。
3. 最初に銀行口座を作ったところから通訳に任せていた。

というところだろうか。

彼がそこまで追い詰められたのは、加州では違法とされるスポーツくじと高利貸しがタイアップしていたから。日米の法律は異なるので詳しくはいえないが、日本では不法行為による債務は無効とされるので、そうなると6億の債務は有効なのだろうか、あるいは無効なのだろうか。

そういえば、以前勤務していた会社にもギャンブルで追い詰められた男が何人かいた。一人は競輪にはまり数千万円を抱えていたが、早期退職で割増金を手にして、その時は完済。もう一人はパチンコにはまって、サラ金に返すため会社の帳簿を操作。なにしろ経理課長だった。

さらに、下請け会社に業務委託していた時に、下請けのように見えないように名刺には委託側の社名を入れていたことを利用して、委託側の社員を騙って借金を積み上げた者もいた。裁判所から給与の一部差し押さえ命令がきたが、社員じゃないわけだ。要するにサラ金は名刺で金を貸し、裁判所も全く調べもしない適当な仕事をしているということだ

競馬にしてもパチンコにしても、負けないようにするには、かなり苦労するわけだ。緊張を続けなければならない。気が抜けると勝てない。疲れるだけと思い、数十年前に撤退した。思うに、頑張って勝ち負けトントンの人は行為が無意味と知って、いずれ場から立ち去るので、残るのは、非常に強い少数者と敗者の大群ということになるのだろう。

藤井城の番人に?

2024-03-30 00:00:12 | しょうぎ
叡王戦の挑戦者が伊藤匠七段に決まった。どうも棋界No2争いは、伊藤匠七段が抜けだしそうな予感がある。

ところが、今のところ彼は藤井城郭の攻略に成功していない。石垣どころか門を破ることすらできない。後手持将棋定跡で臨んだものの、そもそも先手なら必ず勝てるわけでもなく、後手だと必ず負けるわけでもないので、勝ちを狙わず引き分けを狙った作戦で番勝負では勝ち目がない。おそらく、まずは持将棋、次の機会に1勝、その次の機会に2勝と長期計画の第一歩だったのだろう(と信じたい)。

大山康晴時代に二上達也という後に将棋連盟の会長を務めた大棋士がいて、大山氏がいなければ永世名人になったと思われるほど、多くのタイトル戦を大名人と争ったが、タイトルを獲得したのは数回。実力差以上に苦手としていた。

No2がNo1を苦手とすると業界全体が沈滞するわけだ。

話は大きくかわるが、琵琶湖湖畔に安土城址がある。織田信長が築城した南蛮デザインの高層天守閣があった。岩がちの山道を平地から登っていかなければならないが、山道の入口に二つの館跡がある。最初にあるのが前田利家の館。そして次にあるのが羽柴(豊臣)秀吉の館だ。つまり信長は、一の子分が秀吉、二の子分は利家と表現していた。門番1、門番2。明智光秀の猜疑心は燃え上がっただろうと思われる。

棋界にも光秀は現れるのだろうか。三日天下と言われるが、生涯1期だけでもタイトル授与式に出たいと思う棋士は大勢いるだろう。


さて、3月16日出題作の解答。







今週の問題。


解ったと思われた方は、コメント欄に最終手と総手数とご意見をいただければ正誤判定します。

胡蝶蘭3回目のお勤め

2024-03-29 00:00:06 | 市民A
やっと桜の開花宣言が出立と同時に関東は気温が急上昇。この分だと10日後には散ってしまいそうな状況だろうか。

ところで、昨年に続き、再生胡蝶蘭が開花した。2年前に新聞配達店のおこなっている「胡蝶蘭再生事業」でいただいた鉢の植え替えをして白い花が咲く。もちろん売り物で、自然体。ネットで調べると、自宅で観賞するだけなので、特に手入れをしなくてもいいということのようだ。形が崩れたり、茎が二つに分かれたりとか。



二度の植え替え、といっても土はつかっていないので鉢一杯に拡がった根の古くて弱っている部分を剪定して水苔にくるみ、鉢に戻すというだけで、肥料は太陽光のみ。水分も多すぎると根腐れして枯れてしまう。

こういう植物の寿命というのはどうなっているのだろうと、少し思う。ペット動物の場合、概ね寿命は解っているので飼うかどうかの判断ができるがどうなのだろう。もしかしたら、外来植物ということで野に放したらいけないのかもしれないが、自然界で増殖するものなのかも見当がつかない。

伏見城址にあったのは

2024-03-28 00:00:00 | 歴史
豊臣秀吉によって建てられた伏見城は江戸時代の初期に廃城となり、現在は立派ではあるが主がいなくなった模擬天守として中途半端なことになっている。しかし、伏見城の中枢というか本丸や天守閣は近隣の別の場所にあったとされる。

急に行くことになったので、スマホで来歴を調べても土地勘もないし、頭に入らない。そのうちJRの桃山駅についたので、歩き始めることにした。



が、どうも道が立派過ぎる。廃城に続く道とは思えない。地図を見ると伏見桃山陵となっている。伏見桃山城と見間違えたようだが、とりあえず、この立派な道を歩いてみることにする。ただ、アスファルトではなく細石舗装。そして、思いもかけないことに道は遠くまで続く。少し怖くなる。

そして、ついに目的物があらわれる。明治天皇陵だった。



特に解説が書かれているわけではなく、大きな柵の先に鳥居があって、さらに先に柵があり、その先に古墳状の墓が見える。

さらに奥に皇后陵もあるようだが、残念ながら体力の限界に近付いている。万歩計はまもなく2万歩。

今来た道を90%戻ってから伏見城を目指したのだが、途中で道が分かれていて、桓武天皇柏原陵があると書かれている。



明治天皇は生涯の大部分は東京にいたので、京都に陵があるのは意外だが、桓武天皇は、平安京=京都を首都に決めたいわばキング・オブ・キョウト。それにしては明治天皇陵よりもかなり小さい感じだ。違和感は後の調べに任せることとし、関東に戻ることとした。

そして、今、この文を書きながら調べていると、今回の天皇陵には曰くがあることがわかった。まず、桓武天皇陵だが陵地全体の面積は65,154㎡。明治天皇陵は皇后陵と合わせて804,920㎡ということで12倍。

しかし、平安時代の記録によれば桓武天皇陵は伏見の山に縦横11町(1200m)あったとされ、面積は1,440,000㎡と明治天皇陵の1.8倍。その中のどこに埋葬されたかは、現代では特定されない。というのもその場所に秀吉が城を築いたからだ。

つまり桓武天皇陵の上に秀吉が城を建て、その場所に明治天皇陵ができ、桓武天皇の陵は隣接地に移され、その隣に鉄筋コンクリートの模擬城が建った。

その広大な桓武天皇陵だが遺言により伏見と決められたのだが、子の平城天皇は京都の北にしようとしたが、上賀茂神社の猛反対にあって遺言通りの場所になったそうだ。


ついでに調べたのだが大正天皇、昭和天皇の眠る武蔵野御陵だが、460,000㎡。その中に大正天皇、皇后、昭和天皇、皇后が眠っている。墓地そのものは天皇が2,500㎡、皇后が1,800㎡で独立している。現在の上皇は、縮小化ということで皇后との間に森を置いたりせず、隣接して並べることを決めている。また土葬ではなく火葬ということも決められているそうだ。火葬にするのは別の意味もあるのかなと思っていたが、御陵が手狭にならないようにということのようだ。

伏見(桃山)城は微妙

2024-03-27 00:00:00 | The 城
関西旅行の最終日に何時間か余裕ができたので、伏見城を見に行くことにした。桃山にあるので伏見桃山城と呼ばれるが、もともとの豊臣秀吉による城は伏見城とよばれていた。

そして、現在の伏見城だが、竣工は1964年。城郭の位置も秀吉の伏見城とは違う。



本物の伏見城は豊臣秀吉が自分の隠居用として築城し、1594年から亡くなる1598年まで日本の政治の中心地だった。とはいえ、1596年に慶長伏見地震で破壊され、作り直されている。当時秀吉は伏見城にいたはずで、無事だったのは悪運が強いということだろう。



そして新たに作られた伏見城で秀吉に晩年が訪れ、五大老への遺言もここで行われている。もちろん筆頭大老の家康が掌を返すということになるわけで、関ケ原の戦いの前哨戦である伏見城の戦いでは鳥居元忠が1800人で守るも石田三成が40000人で襲い掛かる。鳥居方は討死するか切腹するかということで全滅。伏見城内は遺体が転がったままの状態で関ケ原の戦いに突入することになった。後に家康は伏見城の血塗りの廊下の板をはがし、家康系の寺院の天井板にしてしまう。いわゆる血塗りの天井。



1964年には近鉄グループがレジャースポットとして地域を開発した際に天守閣を造る。現在ではレジャー施設は廃止になり、天守閣は耐震性が弱く、立ち入り禁止になっている。

京都の城といえば二条城だが、現在は天守閣がない。城の本質は本丸であり天守閣ではないのは江戸城の例を見ても明らかなのだが、城=天守閣と思っている人は圧倒的に多いだろう。伏見桃山城にしても外国人観光客が圧倒的に多いわけだが。

紫式部追跡(8)

2024-03-26 00:00:44 | 歴史
滋賀県にある三井寺でも「紫式部」関連行事が進んでいるようだ。実は、紫式部と三井寺の直接的関連を示すものはないのだが、しかし関連があるようにも感じている。

実は、紫式部の母親の兄弟(つまり母方のおじ)、藤原康延は三井寺の僧侶でそれなりの住職だった。さらにNHKドラマ『光る君へ』では登場していないが、父為時の妾の子(つまり異母兄弟)定暹も三井寺の僧侶なのだ。

一説では、紫式部は1014年に40代の初めに亡くなり、当時越後守だった為時が世をはかなんで2年後に任期一年を残して三井寺で出家したともいわれる。

しかし、それでは納得できないことも多い。まず、1014年には手塩にかけていた一人娘の大弐三位はまだ15歳。彼女はその後も順調に藤原一門の中で活躍し、百人一首の中でも紫式部の次(58番目)に登場している。紫式部が早世して為時も出家していたら、そういうプッシュができないはず。また、紫式部の墓が、為時の家とかなり異なる場所(雲林院付近)にあり、その近くに住んでいたという説もある。為時が出家したため、紫式部が家を売却し雲林院方面に新たに自宅を構えたのではないだろうか。

そして紫式部ではなく彼女の弟は父と同行して越後にいたのだが、その期間中に亡くなっている。為時がむなしい気持ちになり出家したのは、そのせいではないだろうか。

また、紫式部があまり三井寺のことを書かなかったのは、おじや異母兄弟が所属していたからなのだろう。筆は災いの元ということを彼女は知っていたと思う。



京都に住んでいた紫式部は石山寺に行く時は逢坂の関を通り琵琶湖に到達したあとは舟を使って石山寺に行っていたはず。その行き帰りには三井寺の親戚に会っていたのではないだろうか。さらに父と一緒に越前に赴任した時は三井寺付近を通るため、その時も逗留したのではないかと想像する。

ところで、三井寺の歴史も相当古く、用明天皇(585年~587年)の頃というので紫式部の頃には既に400年以上経っていた。同じ天台宗でも延暦寺とは犬猿の仲で大規模な抗争を続けていて、紫式部の時代でも993年には焼き討ちにあっていた。おちおちと観光気分で出かけて、焼き討ちにあったりしたら目も当てられない。


ということで、国宝だらけの三井寺だが仁王門。山門というのは延暦寺で三井寺は寺門と言われていた。


釈迦堂は現在は弥勒菩薩が祀られているが、もともとは僧侶たちの食堂だった。いわゆる社員食堂。研究者にはうれしい建物だそうだ。


三井の晩鐘という鐘がある。由緒はそれほどではないが、日本三大釣鐘といわれ、声の鐘といわれている。実は寄進をすると鐘を撞くことができる。


そして、金堂。


弁慶の釣鐘。紫式部の時代から150年ほど後でも延暦寺と争っていて、当時延暦寺の暴力僧が怪力僧の弁慶で、三井寺の釣鐘を戦利品で持ち帰ったが、鐘から怒られてしまい、谷に捨てたと言われる。


紫式部の話はこれでおしまい。本来は、特急サンダーバードで福井県にある紫式部公園に向かうべきだったが、思いつかず、京都の別の場所をめざす。

紫式部追跡(7)

2024-03-25 00:00:15 | 歴史
今回は、紫式部のパワースポットの話。紫式部の時代、多くの女流作家が物語や日記を書いている。その頃、彼らの日常の中に、観光というか息抜きというか寺社巡りがあった。



考えてみれば、江戸時代に下っても江戸っ子たちは、近くは伊勢原の大山詣とか、お伊勢参りとか旅行に出ていった。平安時代でも同じだし、その足跡を追随しようと1000年も経ってから京都の寺社をウロウロする私とて同じようなものだ。



そこで登場するのが、下賀茂神社と上鴨神社。



創建の年もわからないほど古い神社だが。上賀茂神社(賀茂別雷神社)は雷大神を祀っていることからいって、「天」を祀り、下鴨神社は「神」を祀っているということからして、京都市内からより遠い上賀茂神社の方が霊感度が高いということだと思う。



紫式部は石山神社に7日留まって源氏物語の中段部分の構想を書いたと伝わっていることから、54帖もの長編「源氏物語」を書くにあたっては、何度もパワーチャージするために上賀茂神社に行ったとされている。距離からして、上賀茂神社参拝は1日仕事で下鴨神社は半日仕事といったところだろうか。彼女たちの残した日記にも葵祭が登場するが、両社共同の祭りである。



源氏物語の中で、感じているのだが、夜の描写がすばらしいと思っている。平安時代なら昼と夜とは全く違う世界だっただろうし、陽の下の世界と月光の中の秘め事。現世と妖怪。そして男と女。



紫式部追跡(6)

2024-03-24 00:00:19 | 歴史
今回は、紫式部とは強い関連性がない貴船神社のこと。鞍馬寺よりも奥にある。賀茂川の源流である貴船川の水神を祀っている。神話時代から続いているかもしれない神社である。実質的には水という人や神を超える自然物に対する人間の存在が霊感を生み出していると考えられる。弥生時代の信仰と通じるものが感じられるというか、源流なのかもしれない。



現在の貴船神社は、本宮、結社、奥宮と続いている。平安時代には奥宮が信仰の中心だったが、大洪水の後、下流に本宮が移された。



京都北山の奥にあり、公共交通機関もここまでというのに多くの参拝者が訪れていた。確かにパワースポットのように自然の力に包まれている。



平安時代の女流作家と言えば和泉式部が夫の愛を取り戻すために貴船神社に祈願をし、思い通りになったとも言われる(ただし、夫は短命に終わることになる)。おそらくは魅力的な女性であって多くの皇族や上級貴族と濃厚な恋愛を重ね、紫式部からは「品がない」とあきれられていたようだ。今回のNHK大河に登場するのか、その場合、誰が演じるのか。今回のキャストはすべて個性的俳優ばかりなので、あまりに品のない光源氏の女性バージョンのような女優が登場すると一気に喜劇化してしまうかもしれない。

平安時代に戻ると、多くの貴族の娘たちは人生に思うところがあると、それぞれお気に入りのパワースポットへ行っていたようで和泉式部にとっては貴船神社、だったのだろう。

赤染衛門はあちこちにお得意の寺社があったらしく、清少納言はもっと現実的に近場の下賀茂神社を愛用していたような気がする。では紫式部のパワースポットはどこだったのだろう。

鞍馬寺で祈っても・・

2024-03-23 00:00:00 | しょうぎ
先日、鞍馬山の鞍馬寺に参詣した折、うっかりして奉納された絵馬を見てしまった。(他の寺社でも、うっかり見てしまうのだが)

そこでみかけた二枚だが、



一枚目:一ばんつよくなりますように。しょうぎで1-300までめだるをとれますように

二枚目:ひっと(ヒット)うてますように
    おともだちできますように

一枚目:1-300のメダルというのは調べると、金沢将棋2というソフトかアプリかのことのようだ。昇級レベルが300段もあるわけで、300というのは三段位らしい。もっとわかりやすく書くべきだろう。

二枚目:野球のことだろうか。ヒットを打つというのは最低レベルの願掛けだろう。書くなら「ホームラン」だろう。それと、「野球」と「友だち」と一枚に二つ書いてある。二願併記ということで、どちらも半分しか叶えられないはずだ。ヒットを打っても二塁でアウトになるとか、友だちができかけて喧嘩をしてわかれるとか。

そもそも鞍馬寺は神社でなく寺だ。武士は戦の前に神社で勝運を祈り、勝った場合は寺院に行って敵味方の犠牲者の魂を弔うことになっている。300レベルに達したらその間の敗者の気持ちを弔いに来ないといけない。

おそらく、戦場では常勝だった義経や無敵の長刀剣士だった弁慶をイメージしているのだろうが、義経は6年間の僧侶としての修行を放り出し、寺から脱走。弁慶は延暦寺を脱走したあと、京都で日常的に暴力事件を起こしていたわけだ。


さて、2月9日出題作の解答。








今週の出題。



解ったと思われた方は、コメント欄に最終手と総手数とご意見をいただければ正誤判定します。

紫式部追跡(5)

2024-03-22 00:00:00 | 市民A
今回からは、紫式部ゆかりの場所の散策。

まず、平安時代の前半の貴族の娘たちは、無暗に外出は行わなかった。もちろん従者付きなのだが、大手を振って行けるところは寺院や神社。いわゆる参詣。娘と書いたが、実際男でもさして変わらないだろう。



そして、人気があったのが北山方面や琵琶湖方面(石山寺や三井寺など)。北山という言い方がいつ頃なのかはわからないが、「北の方の山がちな場所」という意味で、広くは西は高尾、東は比叡山までの区域のようだ。距離的には日帰りが基本。(琵琶湖方面では、石山寺へは朝出て琵琶湖で舟に乗って夕方到着するということで宿泊することになる)



ということで、まず鞍馬山へ行く。鞍馬山と言えば牛若丸(義経)ということだが、紫式部の時代から150年ほど後の話。数え11歳から6年ほど修行をしていた。



もう一つは天狗。鞍馬山と言えば天狗ということだが、どちらかというと、人間を守る役目だった。関東の箱根の天狗はいばりくさっているように思う。



平安時代の女流作家の中でも、鞍馬と言えば清少納言というように、「近うて遠きは鞍馬寺の九十九折の山道」というように山門を入って、寺が見えてから何回も坂を上らないといけない、と、枕草子に不満を書いている。実に実感が書かれている。なにしろ日帰り旅行。上るだけで力尽きると帰れなくなる。

源氏物語では光源氏が病気快癒を祈るために北山の寺に行った道中に紫の上を見初めたことになっていて、これは鞍馬山がモデルとされる。

紫式部追跡(4)

2024-03-21 00:00:00 | 歴史
紫式部はどこで源氏物語を書いたのだろうと思う方が多いだろう。通説では1002年からと考えられている。この時期、父為時は無官状態を乗り越え、越前守(福井県知事)という要職を得て、下級貴族から中流貴族に格上げになっていた。紫式部は父の赴任先から戻って結婚し、女児(後の大弐三位)を出産したが、夫が疫病で急死してしまう。1002年という年は娘が3歳になり、育児に余裕が出てきた頃なのだろう。(もっとも相当な教育ママで、娘も一流の文化人となっている。百人一首の57番が紫式部、58番が大弐三位。)



今回、紫式部関連を回ったのは、もとより「光の君へ」をNHK大河ドラマとしては初めて見ているからで、事前に調べると、石山寺に「ドラマ館」ができたということだった。なぜ、そこにドラマ館があるのかと石山寺のHPで調べると、「源氏物語は石山寺で書き始められた」かのような記載があったから。書き始めの七日間を、ここで過ごしたというようにも読めるわけだ。それならもっともなことだろうと思っていた。誤解だったのだが。



それはともかく、石山寺は由緒ある寺で石山寺縁起が有名だ。天平年代747年に創建されたが1078年(つまり紫式部の産廃より後に)に落雷で半焼し1096年に再建されている。



まず、参拝者が目にするのが東大門。頼朝の寄贈とも言われる。そして寺院自体が文字通り岩山の上に建てられている。岩の間を登っていくわけだ。小雨交じりの日で注意深く歩かないといけない。滑ると入院7日間になりかねない。



そして本堂の一角にあるのが「源氏の間」。ここで紫式部が7日間逗留したということ。琵琶湖と月という情景の中で「須磨」や「明石」の構想を得たとされ、その時に使われた二池式の硯が残されている。濃い墨と薄い墨が共用できるすぐれものということで、両端使用の筆ペンみたいな効用だろうか。



ただ、大きな疑問が芽生えたのは、「須磨」や「明石」は物語の冒頭ではないわけだ。最初は「桐壺」。原文でも54帖のうち頭の5帖は注釈を見ながら読む進み、その先は与謝野晶子訳で読んだのだが、果たして第12帖、第13帖だ。まさか書き始める前にそこまで構想を練っていたとは思えない。

後で調べると、紫式部が石山寺に行ったのは2004年8月15日。書き始めてから2年後の満月の日である。主人公の光源氏が神戸の先の方に左遷され、月を眺めるシーンがある。石山寺で書いたのは、そのあたりの物語の素材を箇条書きしたりしていたのではないだろうか。創作ノートということだろう。

石山寺側の書き方では、時の中宮から「読みたいから早く書いてほしい」と言われたことになっている。すでに書き始めていなければ、そんなこと言われるわけはないだろう。中宮は藤原道長の娘の彰子。夫は一条天皇である。つまり一条天皇も、彰子も道長も源氏物語を読みたかったわけだ。そして、紫式部は翌年、宮中に上がっていくわけだ。



境内の紫式部像。ずいぶん細面である。平安時代の美人は吉高由里子のような焼き立てのパンのようなふっくら顔。石山寺には江戸時代に土佐光起が書いた画が伝わっているのでそれがモデルなのだろう。江戸時代は日本人のほとんどが丸顔であり、瓜実顔は美人とされていた。

紫式部追跡(3)

2024-03-20 00:00:57 | 歴史
前回書いたように紫式部の生家とも言われる藤原為時邸。人生のほとんどをこの家で過ごしている。では、彼女の人生を時系列で並べてみようと思うのだが、生年も没年も諸説ある。

特に生年については彼女の明確なライフイベントの時の年齢がわからないことになり、想像するのが難しいので、本稿では生年についての諸説(970年~978年)の中をとって974年とし、年齢については(±4年)をつけることにする。

986年:父親の藤原為時(949年-1029年)は中流以下の貴族で、花山天皇の教育係としての職を持っていたが、藤原北家の陰謀により986年に花山天皇が強制退位となった後に解職される。紫式部12歳(±4歳)。

10年間の記録はなく、紀貫之の子と結婚していたとする学者もいる。

また、宮中でなんらかの仕事をしていたという有力な説もある。宮中経験がないと源氏物語を書くのは難しいと思えることもある。

996年に為時は越前守(今でいう福井県知事)に任命され、紫式部は同行する。為時が一条天皇に窮状を訴えたので官位を得たとも言われる。また、当初は淡路守を拝命していたが、藤原道長が辞令を曲げ、大国だった越前守に差し替えたと言われる。紫式部への配慮とも言えるし、当時の中国(宋)からの貿易アプローチが越前にあったため漢語の特異な為時と入れ替えたともいわれる。

998年、24歳(±4歳)。赴任地に父を残し、紫式部は京の為時の家に戻り、藤原宣孝と結婚。宣孝は為時と同クラスで同年代の貴族で山城守(つまり京都府知事)。妻は四人と言われる。自宅は変わらず宣孝の通い婚。

999年。大弐三位を出産(紫式部生涯一人の子)

1001年。夫、宣孝が疫病で急死する。

1002年。28歳(±4歳)「源氏物語」を書きはじめる。



1005年。31歳(±4年)一条天皇の中宮である彰子(道長の娘)付の女官となる。もちろん道長の口添えだ。本来なら天皇の妻である中宮は平安宮の中にあるはずだが、この時は内裏での火事のあと、平安宮に隣接した場所に一条院という屋敷を構え、天皇も中宮(皇后)もそこを住居としていた。現在、西陣会館になっている場所と考えられる。その南側、現在は晴明神社になっている場所に安倍晴明(あべのはるあきら)の住居がある。大河ドラマ「光る君へ」では、藤原北家側について悪の限りを尽くして、何人も呪い殺したり、花山天皇追い落としの秘策を伝授しているが、その結果誕生した一条天皇の熱い信頼を受けていた。

地図を見れば、一条院と為時邸は近い。勤務形態はよくわからないが、行き来していたと思われる。執筆をどこで行ったかはわからないが、一条天皇が愛読していたとされ、道長が原稿用紙(紙)を提供していたということから多くは一条院で書いたのではないだろうか。あるいは一条院で下書き、為時邸で清書とか。

1009年。為時は帰京し任官。

1011年。為時(62歳)は越後守として赴任。紫式部の弟が同行するが、越後で病没してしまう。

1014年。紫式部40歳(±4歳)。為時は自ら越後守を辞職する。原因は不明だが1016年に三井寺で出家する。二人の子に先立たれ悲しみによるとして、紫式部の没年とするのが最も早い没年の説だが最長1031年没説もある。つまり978-1014年(36歳)から(970-1031年(61歳)までの幅があることになる。



そして、紫式部の墓というのがあるのが京都市北部にある雲林院の近く。現在は島津製作所の所有地の中だが、見学は可能だ。雲林院は、現在は臨済宗だが平安時代には天台宗の大寺院で源氏物語にも度々登場する。そもそも当時の貴族の息抜きといえば寺社を詣でることで、雲林院はその通り道にあった。



一説だが、冒頭に書いた紫式部の生家問題だが、雲林院の近く(紫野)で生まれたのではないかとも言われる。その後、母の急死により父親の家に引き取られたが、父親の出家により主のなくなった為時邸を手放して、生地である雲林院の近くに引っ越していたのではないだろうか。亡くなった時は父の方が後だったので、天台宗の三井寺のつてで雲林院に葬ったのではないだろうか。その後、雲林院は一時没落して、その後に小規模で復活したため、彼女の墓地が寺の中にはないのではないだろうか。

紫式部と言われるが宮中では藤式部といわれていた。藤の色は紫、雲林院のあたりの地名は紫野。源氏物語に登場するのが紫の上。「紫」の因果関係はよくわからない。

紫式部追跡(2)

2024-03-19 00:00:00 | 歴史
NHK大河「光る君へ」でも紹介されているように紫式部の父親は藤原為時。中流貴族だ。母親は藤原為信の女(娘)。女子二人、男子一人をもうけたといわれる。ドラマでは現代の普通の家庭の様に父と母がいて男子と女子の二人の子がいて、ある日上流階級の藤原道兼(道長の兄)に母が不条理に殺され、それがドラマ前半の底流に流れていくのだが、ちょっとおかしいと思うわけだ。



その前に、紫式部が為時の家で育ち、その後も生涯の多くの時間を過ごしたのは事実。家は、現在の京都御苑の東側、鴨川に近い場所にある。河原町通りを挟んで京都府立病院の反対側。今は蘆山寺(廬山天台講寺)という寺院になっている。





現在、冬の京都ということで特別拝観中。もちろんドラマ便乗だろう。堂の入口では紫式部がお出迎えである。顔の表情はまさに吉高由里子そのもの。巻物に何かを書こうとしているが、巻物は机がないと書けないはずだ。硯もない。



この父の藤原為時だが曾祖父が藤原兼輔という一流歌人で、彼はこの地に居を定めた。現在でこそ京都御所の隣だが平安時代には御所は異なる場所にあった。鴨川の堤がそばなので堤中納言とよばれていた(堤中納言物語とは関係ない)。それから四代目の為時まで約百年経った家なので、見栄えは悪かったのではないだろうか。

紫式部の幼少期だが、母親は紫式部の弟(あるいは妹)を出産のときに亡くなっているという通説もある。為時には妾がいて数人のこども(紫式部からみれば異母兄弟、異母姉妹)もいる。



そうであれば、ドラマにでていた母親は一体誰なのか。母親が殺された時、弟は既に少年になっている。何回目かで頭の悪い弟が姉(紫式部)に「父親が違うかもしれない」と冗談をいうシーンがあったが、もしや重大な伏線なのかとも思う。何しろずっと後には紫式部の娘はドラマの上では母の仇の道兼の息子と結婚するわけだ。つまり矛盾が生じる前、源氏物語完成あたりでドラマが完結するのだろうか。

紫式部追跡(1)

2024-03-18 00:00:00 | 歴史
NHK大河ドラマ『光る君へ』。主人公の紫式部について、その名前と「源氏物語」は知らない人はいないだろうが、読んだ方は少ないかもしれない。全54帖と長い。さらに紫式部について本名は不明だし、生年も没年もはっきりしない。藤原道長の同時代人で極めて親しかっただろうということはわかっているが、源氏物語の主人公の光源氏と道長とは立場は重ならない。

ということで、諸説色々の紫式部の人生を実際の土地を歩いて感じてみようと思ったわけだ。

最初に、人生の節目ごとの彼女の所在地といわれる場所を尋ねた。

生家とされる場所(父の藤原為時邸跡)
晩年に住んでいた場所と墓所(近く)
執筆に関係したされる場所 石山寺 一条院
お気に入りの場所 上賀茂神社
その他の関係場所 下賀茂神社、鞍馬寺、貴船神社

最初に、現在の地図に平安京の地図を書き込み、その上に訪問地をドットしてみた。

まず平安時代の平安京は中央の朱雀通りが現在の千本通りということになる。山陰線の南北が中央にあり、奥の一条より南に平安宮があり、その中心に内裏といわれる天皇の場所があった。現在の京都では平安京の右側半分(左京)が賑やかになっている。

現在の京都御苑(御所)は平安京の右の端で、かつ北側は平安京を突き抜けている。何度も内裏での火事があって再建を重ねている。

紫式部の時代も内裏が燃えた後、平安宮の北東に密接した場所に「一条院」という屋敷を建て、天皇以下そこに住んでいた。つまり平安宮の外側にいたわけで、紫式部もそこで働いていたわけだ。そして道長もその建物にいたわけだ。

京都市街地


京都周辺



太陽がいっぱい(1960年 映画)

2024-03-17 00:00:22 | 映画・演劇・Video
アラン・ドロンの初期の出演作。助演女優のマリー・ラフォレにとってもデビュー作。ルネ・クレマン監督もずいぶん大胆だ。

アメリカの大富豪の息子が欧州で遊びまわっているのを連れ戻そうと、両親に雇われた男の役をアラン・ドロンが演じる。ところが、富豪の息子には、既にガールフレンドがいて、ヨットで遊びまわり、いっこうにアメリカに戻るつもりはない。

そして、彼の中には、女と金を同時に手に入れるプランが沸き上がってくる。

ヨットの上で彼を始末して、袋につめて筏に乗せおもりをつけて海に流す。もちろん初仕事なので苦戦する。

そして、彼を訪ねてきたガールフレンドには、行き先を知らないとごまかし、一方でパスポートには自分の写真を貼り、偽サインの練習をして、大金を銀行で引き出すことに成功。

そして、金も女も手に入れることに99%成功したのだが、・・・

以前、見た映画だが、都合のいいことに、まったく覚えてなかった。さらに8か月前に「リプリー」というこの映画の復刻版(1999年)を見ているのだが、似たような筋書きの映画だと思いながら観ていた。原作が同じなのだが、やはりアラン・ドロンの方がいい。リプリーはマット・デイモンとグイネス・パルトローの組み合わせで、大物過ぎる。

ところで、アラン・ドロン氏だが88歳。もうラストランの状態らしいが、近況としては警察が自宅に72丁の拳銃と3000発の銃弾、そして射撃場を発見したそうだ。拳銃と銃弾は押収されたそうだが、射撃場はどうなったのだろう。取り急ぎ、何作か観ようかな。