浮世絵と百人一首(町田市立国際版画美術館)

2019-03-31 00:00:44 | 美術館・博物館・工芸品
町田駅から太い道や細い道、あるいは急な坂道の試練の末、国際版画美術館にたどり着く。広大な敷地(公園)の中に大きめな建物がある。といっても予想よりは小さいかな。

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版画と言っても、様々な分野があり、浮世絵は重刷りだし、リトグラフもそうだろう。また、ある意味、錦絵と版刷りとどちらが,芸術性が高いかなど比べてもしょうがないだろう。

版画は何枚か制作されるのだから、作品の貴重価値からいえば劣ることはあるだろうが、そのかわり芸術の大衆化という意味では貢献は大きい。江戸の版元も広重や写楽のような人気作者の場合何枚刷り上げればいいのか悩んだのではないだろうか。現在でも、新しく美術館を作る場合、作品数を集めないといけないので、ピカソやシャガールのような量産型の画家作品を買い込んだり、リトグラフで壁面を埋めることが多い。

今回(~4月7日)は、『浮世絵と百人一首』という企画で、三作の百人一首物を展示している。

時代の順に、北斎の師である勝川春章の『錦百人一首あつま織』(版画32作)。1775年。49才の時の作。書は書家猨山周之(さやまちかゆき・略字=猿)による美字である。

次に、葛飾北斎による『百人一首うばがゑとき』(錦絵27作揃)。1835‐1836年。北斎75才である。さらに、国芳、広重、三代豊国による『小倉擬百人一首』(錦絵100枚揃のうち42作)。1845‐1848年。国芳47才。広重48才、三代豊国59才。

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ここに画像を出したのは、『錦百人一首あつま織』から、

難波江の芦のかりねのひとよゆゑ みをつくしてや恋ひわたるべき 皇家門院別当(女性)

世の中は常にもがもな 渚こぐあまの小舟の綱手かなしも 鎌倉右大臣(源実朝)

最初の歌は、いかにも選者の定家好みで、熱い恋心を技巧的に押し隠した心象風景を描いている。立ち姿の中に、どこにいけばよいのか居ても立ってもいられない心中の大波を表している。二首目は、天下人であるべき作者がどうしようもない破滅の道を目の前にした絶望感を渚に浮かぶ小舟の一人船長の視点で表現している。描かれた右大臣は現実から目をそらすように首を回して虚空を見つめている。


ところで、競技かるた的に一首目を見ると、

上の句は「なにわえの」だが、「な」から始まるのは8首もある。さらに「なにしおわは」「なにわかた」というのがあるので、二文字目で3首、三文字目で2首、四文字目で確定ということになる。それぞれ下の句があるのだが、下の句の「みをつくしてやこひわたるへき」の正解に対して「みをつくしてもあはむとそおもふ」というのがあって、難易度が高い。

二首目は、
上の句が「よのなかは」だが「よのなかよ」がある。下の句は「あまのおふね」であるが「あまりてなとか」がある。

実際は、上→下という記憶も初心者には重要だが、上級者は下→上という記憶の方が重要になる。

『将棋ペン倶楽部19年春号』

2019-03-30 00:00:12 | しょうぎ
1988年に創刊された『将棋ペン倶楽部』は将棋ペンクラブの会員誌。通常なら、組織の方が「倶楽部」で会員誌が「クラブ」、あるいは「くらぶ」になりそうなものだ。要は、硬質な組織だったのかもしれない。

この組織の、メーンテーマは将棋を取り巻く観戦記や評論、文学など三部門を表彰しようということで、年間一回の表彰式を中心に回っている。ノーベル賞とかアカデミー賞と同じだ。

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今回のペン倶楽部誌の記事は構成上、新旧の書き手に分かれている。旧来型強豪の方の連載は、何と職域団体戦での替え玉出場のこと。本来、会社の代表が出場するはずの大会に、会社とは関係ないいわゆる「傭兵」として、何度も出場してきたと、自ら告白している。

どうも、自分以外にも色々とそういう事例があると書かれている。また、負けた後、さらに二軍に出場(つまり、替え玉の上、替え玉)したことなどが書かれている。一番弱いはずのFクラスが、対局が進むにつれ、どんどん強くなるといわれていた秘密が明らかになったようだ。たとえは悪いが、ワイドショーに元ヤク中の人物が出てきて嬉々としてと薬物に関する情報をしゃべり続けているのと同根のような違和感がある。裏声でしゃべるべき話のような気がする。

一方、将棋と文学の関係について研究されている若い先生の論文や、将棋に関する川柳の研究など、調査に時間をかけた文章は、さすがに読みごたえがある。

これから2018年度の公開された書籍や新聞、雑誌の観戦記や評論、漫画などの選考が始まるのだが、気が早いが、2019年度にノミネートしたいのは、現在、将棋世界に連載中の「将棋めし」の歴史的考察、「戦死した棋士、関口慎吾棋士」の調査。この二つは力作である。選考から外せないような気がする。


さて、3月26日出題作の解答。

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歩の連打で竜を翻弄して、取った竜をすかさず打ち捨てる。奪ったピストルでたちまち・・・ということ。

動く将棋盤は、こちら


今週の問題。

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いつもより、軽量級の問題かな。好守とも軽い手で応酬する。

わかったと思われた方は、コメント欄に最終手と総手数とご意見をいただければ、正誤判定します。

サバパスタ

2019-03-29 00:00:13 | あじ
さば料理専門店「SABAR」が自信をもって開発販売した『SABO SABA』を購入。

レトルトのパスタソース。お湯で温めて、茹でたパスタにかけるだけなので、ほぼ誰でも同じ味を食べることになる。

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予想していたのは、サバの身がゴロゴロはいっているのではないかと思っていたのだが、まったく異なっていた。色が薄い。

箱をもう一回見ると、サバとタマネギのソースとなっていた。素材には、しょうゆやオリーブ油、チキンスープと白ワイン、その他、30種類以上の食材を用いている。食べた触感はミートソースの肉がサバになったような感じだ。

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サバといえば、欧州では北欧の食材。一方、パスタは南欧の食材。新しい食感なのだろうか。

サバの味噌煮の方が好きだと思ったのは、味覚感覚が保守的だからなのだろうか。

ご存知のとおり、今、サバブームだそうだ。あまり世界中で食べ始めないでほしいなと思う。

ところで、大手水産会社の出しているサバの缶詰だが、大手コンビニの食品棚の縦の幅ギリギリの大きさ(缶の方がわずかに大きい)なので、片手では棚からピックアップできないらしい。

二人の日本人残留兵

2019-03-28 00:00:29 | 歴史
海外で生活している移住者のことを調べているうちに、インドネシアに太平洋戦争中、兵士として従軍したまま、帰国しなかった人たちが約900人いたことがわかった。独立戦争を手助けしたそうだ。もちろん戦争なので、それらの人たちも戦死したり行方不明になったりして、最初の調査では531人になっていたようだ。

その後、内戦も終わり、日本に戻るかインドネシアに定住するかを確認する段になって、日本帰国を希望する数が45人。インドネシア残留を希望する者が324人ということだったそうだ。またも合計数が減っていく。

そして、最後の二人ということで、日本語による「じゃかるた新聞」によると、2013年10月16日、宮原永治さんが91歳で亡くなられてジャカルタの英雄墓地に埋葬された。

台湾に生まれ、軍属としてジャワで終戦を迎え、その後独立戦争に参加。東京で働いている孫のジェバンさんは永治さんが亡くなる3日前に生後5か月の栄治君(ひ孫)を連れてジャカルタに戻り、永治さんに面談しているそうだ。どちらも「えいじ」だ。

そして、最後の残留日本人は小野盛さん。残念ながら、宮原さんとは知己の仲だったそうで、気落ちしたのだろうか、宮原さんの没後、約1年の2014年8月25日、94歳で他界されている。

ある作家の書斎

2019-03-27 00:00:18 | 書評
3月号の新潮社書評誌『波』の表紙は、警察小説などの作家で高名な横山秀夫氏の書斎(仕事場)の画像である。

今月号では、最新作『ノースライト』についての特集があり、インタビュー記事もある。主人公は従来作のように「新聞記者」や「警察関係者」ではなく、一級建築士。施主のたっての希望をうけて設計した豪華な家に、その家族の誰もが引っ越してこない上、家には一脚の古びた椅子があるだけ。もちろん、設計士は家の設計を行い、住宅が完成して引き渡しが行われ、設計料の支払いを受ければ、施主がその家をどのようにしたところで文句をつける権利はないのだが、いかに考えてもミステリーだ。

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ということで、「横山ミステリー史上最も美しい謎」だそうだ。その本の内容は、読んでいないので書きようもないのだが、表紙の書斎の画像から、考えてみる。

まず、雑然としている。書棚は、体系的にはなっていない。パソコンはノート型と一体型があり、原稿はワープロ機で書いているようだ。縦書きになっている。パソコンの前の資料は鉛筆で書いているようだ筆立てや鉛筆削りがある。

机の上にはハチミツと綿棒、ミネラルウォーターなど。床はカーペット状になっていて、変わったスリッパを愛用している。着ているシャツには胸にポケットがない。日本製ではないだろう。


ヤフオクに出品して、お金になりそうなものは、ほぼなさそうである。といって、おそらく本人の中では、あるルールに従って合理的な配置と思っているのだろう。

大地震があった時は、何かに埋もれたり、感電してしまいそうだ。ヘルメットと乾電池と非常用の食料が必要だろうか。というか、ハチミツはそのための用意かもしれない。

フライトプラン(2005年 映画)

2019-03-26 00:00:13 | 映画・演劇・Video
主演はジョディ・フォスター。米国の女優のトップ中のトップである。アカデミー賞の主演女優賞を2回も受賞している。「告発のとき」と「羊たちの沈黙」。この前観た『パニックルーム』とか、この『フライトプラン』とかどうして出演したのだろう。

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もっとも、ジョディが主演でなければ、この映画は成り立たないほど、ミステリの筋書きが危うい。

航空機設計士のカイル(ジョディ・フォスター)は、ベルリンで仕事中に、夫が突然の事故で亡くなってしまう。失意の彼女は夫の棺と6歳の娘とともにニューヨークに戻ろうと飛行機に乗る。機体は、彼女自身が設計に携わっていたE474(どうみてもB747=ジャンボ)。二階建てで機内は客室も、簡単には入れないものの貨物室も複雑。

そして、二人を乗せた飛行機が離陸し、カイルはしばらく仮眠して目覚めると娘の姿がない。つまり密室で失踪したわけだ。

その後、機内で大捜索が始まったものの見つからない。さらに大騒ぎするカイルは突然現れた航空保安官に逮捕されてしまう。さらに、夫が亡くなったショックで妄想と現実の区別がつかないと断定される。

その後、保安官の眼を盗んで、トイレの天井から貨物室内に侵入して貨物室の捜査をしている間に、保安官によりハイジャック犯と認定され厳重警戒の空港に緊急着陸するのだが、自分をハイジャック犯に仕立てた上、機体ごと吹き飛ばそうとしていることに気付いたカイルは大立ち回りをしたうえ、娘を見つけて助けた上、保安官を貨物室に封じ込めてから、爆発物のスイッチを押し吹き飛ばしてしまう。ただ、爆弾は柩の中に仕込んであったので、たぶんバラバラになったのは2体ではないだろうか。

よく考えると、ほとんどの時間、ジョディ・フォスターが映っていて、暴れたり、騒いだりするので、観客は細かなロジックの矛盾には気が付かないことになっている。

いずれにしても、トイレの天井から貨物室に潜り込めるような設計では問題があるに違いないだろう。

新型機のファーストフライトは、設計者や航空機製造会社社長、航空会社社長が同乗して、地球を十周してから安全宣言してもらいたいものだ。

ヴァイキング・スカイ号の事故で思い出す

2019-03-25 00:00:07 | 災害
ノルウェーの西海岸沖でエンジン故障により漂流の危機にあった『ヴァイキング・スカイ』だが、ヘリで少しずつ救助している間に4基のエンジンのうち3基が復旧し、自力航走が可能になり近くの港湾(モルデ港)に入るようだ。4基のエンジンが同時に止まったということで、通常のエンジントラブルとは異なる要因があるのだろうが、そこは明らかではない。

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十年間ほど船舶運航会社にいたので、断片的な話を聞いて、情報を調べていると、かなりまずいような展開と思っていた。クルーズ会社の発表では、本船の竣工は2017年と新しく、総トン数は47,800トン、全長227m、喫水が6.65m(浅くてバランスが悪そうだ)、乗客は930名となっていた。メディアの画像を見ると、アンカーチェーンが海面と45度近く、アンカー(いかり)が海底からはずれそうだし、日本製ではないチェーンを使っていると切れるかもしれない。手前の海面に棒のようなものが突き出しているのは、緊急用の遭難信号発信装置と思われる。

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*乗客乗員が1300名で、乗客定員930名といえば乗員が370名になる。乗客/乗員の比率は2.51となる。通常、2.0に近いと豪華客船といい、3.0に近いと並ということになるので、ちょうど中間。カジュアルな北欧旅行用なのだろう。

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しかも、会社のツアーガイドの画像では片側に3台の救命ボートが見える。ということは反対側にも同数あるとすると、6台。乗客乗員が1300名とすると、1台に217人が乗らないといけないが、そんな大きなボートを見たことはないだろう。奥にもう一台あるのだろうか。それではいざという時の役には立たないだろう。もしかしてタイタニックか?さらに、船体の図面をみると客室とラウンジは7層構造。つまり海に浮かぶ7階建てのビルがぐらぐら揺れていて、風がビュンビュン吹いているのに、屋上からヘリに脱出するような話だ。

発表の中で、エンジン作動に向け作業中とタグボートが一隻そばにいる、ということが書かれていたが、海の上の船を制御するのにタグボートが一隻では不足だ。両側や前後から引っ張らないと抑えきれない。浸水しているのでなければ、嵐が収まるまで船体維持ということが最低条件だ。また通常は船内の機関士の手に負えなくなったエンジンを修理するのは、エンジンメーカーの社員で、はるか遠い国から小型機やヘリをチャーターして船の上に到着するわけだ。時間がかかるし、それで修理できるかどうかもわからない。

船内の家具が嵐によって前後に行ったり来たりしたことで大勢のけが人が出ていたこともあり、船長は修理、タグボート、船外脱出を同時並行的に行うことでダメージを最小限に食い止めようとしたと思われる。

ともかくヘリで200名以上が脱出した後、エンジンが復旧したというので、あとは後始末ということなのだろう。事故の第一報とともに、会社は「次の航海はキャンセル」宣言していたが、いわれなくても故障船に乗るのはお断りだろう。こういうのは、しばらくすると船名が代わり、場合によっては別の国の別の船会社が格安で購入して、改造して使ったりする。


ところで、原油タンカーの運航を担当していたことがある。数十年前の6月のことなのだが、中東から東京湾に向かう25万トンのタンカーが満載状態で沖縄の近くまで来た時に、台風に直撃された。激しい雨風で、煙突の近くの鉄板が損傷して上部から浸水して機関室が漏水し、電気が全部ブラックアウトで、エンジンも止まった、というものだった。しかも、沖縄方面に向かって漂流中という話だった。夏の初めの沖縄の海岸が・・・ということだ。しかも第二報では、船が危ないので、積み荷を投棄したいが(共同海損宣言)いいだろうかと訳がわからないことを船長が言い出した。積み荷は原油だから投棄したら大変なことになる。ただし、法律上は船長に決定権がある。

結局、積荷の廃棄は思いとどまらせて、沖縄のすべてのタグボートを繰り出して台風が収まるのを待つことになる一方、長崎の造船所からエンジニアを飛行機、ヘリで船の上に連れて行き、応急処置が間に合い、難を逃れた。後日、船に行って事情調査をすると、船長も船員も全部K国人。この件の1週間前にもスリランカ沖で船員が急病になり、急遽、1日の寄り道をしたために燃料が足りなくなって継ぎ足すというアクシデントがあったのだが、普通、そういう緊急事態にそなえて最低5日分は燃料の在庫を持っているはずなのだが、会社のポリシーとして余分な燃料は1滴でも多く積まない主義と言い張るわけだ。

下船前に船内のトイレを使ったのだが、トイレ中に何枚ものK国では有名な某教会の教祖(今の大統領と同姓)の額入り肖像が掲げられていた。

横浜船渠の二つのドック

2019-03-24 00:00:32 | 美術館・博物館・工芸品
練習船日本丸は、大修理のため、いつもの場所でドライドックをしていた。具体的にはドックの中の海水を抜いて水門で仕切り、船体の外側の塗装を行う。また鋼板の交換などの溶接作業も行われる。今年の春は外部の工事で、秋には内部や甲板の張替えが行われるはず。

そして、船体の塗装が終り、ドック内に注水が行われる予定なので見に行こうかと思っていたが、当日の朝、目が覚めた時は、すでに注水時刻の9時半には間に合わないことが確定していた。

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ということで、ゆっくりと出かけると、あざやかな白と赤の船体が見えた。ここが明治時代に完成した横浜船渠の第一号ドック。そして近くにドックヤードガーデンとして残っているのが第二号ドックである。

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普通、ドックというのは造船そのものを行うものだが、その他に大規模港湾には、船舶の修理や検査を行う修理ドックがある。この横浜船渠はそういう目的で、英国のパーマー技師の計画を海軍技師恒川柳作が設計および監督し、まず第二号ドックが明治29年(1896年)、第一号ドックが遅れて明治31年(1898)に完成。後に明治43年(1910年)に第三号ドックが竣工。なぜ、先にできたのが二号で、後でできたのが一号なのかはわからない。例は悪いが、本妻と結婚する前に愛人がいたような感じだ。

そして、第二次世界大戦の敗戦と同時に横浜は米軍の街になった。これらのドックは米軍御用達となり、その後、三菱重工横浜造船所となる。実は、現在でも横浜には米軍御用達のドックがある。近くに大きな風車がある。

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その後、1982年に修繕ドックとしての役割が終り、「みなとみらい21構想」の中で、一号ドックはにっぽん丸の係留に使われ、二号ドックはドックヤードガーデンとして整備された。

ただし、日本丸もそうなのだが、一言で言って、観光施設となったことだろうか。横浜には「日本で最初の○○」というのが異常に多い。他の観光地と比べて外国人観光客が少ないわけだ。

スマホ詰パラ『フェステボ』も全解

2019-03-23 00:00:47 | しょうぎ
スマホ詰パラの表の作品群は12,000作を超えていて、既に全問を解いている。毎日5問ずつ出題され、5問中、約一題の難問を含んでいる。たまに本当に長手数の難問があり、二日がかりのこともある。解答数の方が作品数より300題近く多いが、それは出題後、同一作があったことを指摘され、削除するようだ。

一方、目立たないものの「イベント」というコーナーに『フェステボ』というボックスがあり、表の作品よりは簡単(実際には玉石混交で、1手詰もあれば、難しい問題もある)ということで、毎週土曜と日曜に10題ずつ出題されている。つまり表の作品は週35題、裏の作品が10題になる。現在520回ということで、5200題である。こちらの方は、二重投稿も多い感じだ。同じ問題を二度解いたことも何回かある。チェックがないというようより、一度解くと、もう見えなくなるからだ。ちょっとした待ち時間などに少しずつやっつけていて、ついに現在時間に追いついた。

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タイムを争うことになっているが、10題もあると疲れるし、途中で用が入ることもある。フェステボも最初の頃より難しくなっているのは確かだし。

ということで、あとは投稿を始めるだけだが、なんとなく二重投稿の防止方策が具体化できないので、もう少し余裕ができてからかな、とか思っている。(複数投稿先の序列付けとかブログアップに至るまでのプロセスとかのこと。既に数千題作っているはずなので。)


さて、3月9日出題作の解答。

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狭いところから逃がさないように籠の中に入れる。

動く将棋盤は、こちら


今週の問題。

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過去に出題していたらごめん。PCの入替中なので、あまり時間がかけられない状態なので。

わかったと思われた方は、コメント欄に最終手と総手数を記していただければ、正誤判定します。

皿からはみ出るオムライス

2019-03-22 00:00:10 | あじ
巨大なオムライスに出会った。場所はあるホームセンターコーナンのイートインコーナーにある『港北食堂』。フジオフードシステムグループの中の「まいどおおきに食堂」の中の店舗である。このグループは、「串家物語」「つるまる饂飩」「かっぽうぎ」などの他、天ぷら、レストラン、とんかつ、ホノルルコーヒー、ドーナツなど幅広いチェーンであり、「まいどおおきに食堂」は典型的な定食店で、普通のメニューはオカズ3種(メイン1+サブ2)とご飯とミソスープので600円台。

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その他、注文に応じて、ラーメンとオムライスを作ってくれるのだが、「ラーメンはまずいがオムライスは美味い」という噂を聞いた。牛肉入りオムライスを注文。500円台である。

それで、登場したオムライスだが、かなり大きい。計ってみると、長さが27センチである。

皿からはみ出す料理といえば、インド料理店のナンが有名で、都内のカレー激戦区ではナンのお替り無料が行われている。無論、オムライスのお替りは料金が二倍になる。

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それで、牛肉入りの真相だが、実際は牛脂入りといった方がいい。破片のような大きさではあるが、牛脂がたっぷり付いた牛肉の小片がいくつか入っている。牛肉の味付けをするために使われているようだ。合計4個。長さ27センチに4個では5センチごとに一個ということかな。

その効果によって、少しだけ美味しい。


ところで、このオムライスの長さだが、私の靴のサイズと同じことに気が付いた。

オアフ鉄道、そして移民の話

2019-03-21 00:00:06 | 歴史
ハワイ移住150年ということで、明治元年に日本を離れたいわゆる『元年者』の話を昨日書いたのだが(実際は数日前)、その時の事情は、米国にとって南北戦争の後で、国内需要が旺盛で特にお菓子類の大量消費が始まって、キューバとハワイ諸島が代表生産地となったことと、奴隷制度が崩壊したことにより、サトウキビの生産や砂糖工場での加工に労働力が不足していたわけだ。

しかし、実際に特に日本から大量(2万9千人)の移民が渡って行ったのは1885年の官約移民協定からである。なぜ、突然、そういう方向になったのか。元年者の記事は、公立の「海外移住資料館」の資料を基に書いたのだが、なんとなく引っ掛かるものがあった。

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1906年の「ホノルル府要図」というのがあって、日本人街の近くの地図の画像を眺めているうちに、地図の左側に鉄道の線路があって『オアフ鉄道停車場』とあり、始発駅であることがわかる。まず、この日本人街の場所を特定してみよう。もっとも鉄道は、現在、オアフ島にはない。(後述するが、ホノルル・レール・トランジットという鉄道が建設中で2020年に一部開通する。)

当時の地図を見て現在の地図にあてはめるのだが、道筋が三角形になっている場所に記憶がある。さらにアアラ公園やリヴアーと書かれた川(運河?)を手掛かりにすると、ワイキキの西側、国際空港の東側、現在のチャイナタウンの場所であることがわかった。つまり、過去の日本人街がチャイナタウンになったのも不思議だ。

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ということで、このオアフ鉄道の路線や建設した状況を調べ始めると、オアフ島の南側(ホノルル市の中央から南海岸から西海岸の海岸沿いに沿って島の半分を通っていた。

1886年にオアフ鉄道という会社が設立、1889年に一部(9マイル=15キロ)が開通した。車両の多くは貨物車で、一部客車が連結される。当初はサトウキビの輸送に使われていたが、その後、真珠湾の海軍基地が米軍によるフィリピン攻略の起点となり、多くの軍人や軍用資材が運ばれている。真珠湾の東側(ホノルル)に港湾があり、西側が農園である。

この1886年という年は、実はハワイはアメリカではなかった。ハワイ王国という独立国で国王はカラカウアといってアメリカ資本がハワイに進出してくる中、アメリカ人が増加することに不安を感じていた。歴史の事実として、この翌年の1887年に最初のクーデターがあり、さらにカラカウア没後の1893年に次のクーデターが起こり米国傀儡政権としてハワイ共和国が成立し、5年後の1898年に米国の準州に組み入れられ独立国が世界から一つ減少した。

遡ること数年、1881年にカラカウア国王は訪日して、明治天皇と重大な会合をもっている。天皇家とハワイ王室と婚姻関係を結び、さらに移民を増やして関係を強めようという提案があった。つまり米国ではなく日本と同盟国になろうとしたわけだ。それは通常の条約を超えた大規模な提案であり、王位継承権のある王女と日本の皇族の婚姻を図ると同時に、米国とではなく日本と連邦国を作ろうというものだった。

しかし、明治政府は当時の日本の国力と米国の国力との差を脅威と考え、移民増加に絞って協力したわけだ。実に1890年の段階でハワイ総人口の40%が日本移民になっていたそうだ。実際、上述の米国によって仕組まれたクーデターの際は、後の日露戦争で軍神となった東郷平八郎はまだ一介の艦長であり、邦人保護の理由で軍艦「浪速」他一隻を率いて真珠湾で米艦隊を牽制するように艦を並べていた。

歴史に「if」は禁物だが、あちこちに「if」を考えたい話だ。

そして鉄道の話に戻ると、1948年にオアフ鉄道はすべての営業を終了し、その遺構の多くは朽ちているのだが、真珠湾の北側に観光用として細々と営業が再開されている。日本のトロッコ列車というか軽便鉄道といった趣である。

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そんなホノルル市は海岸沿いに市街地が横に並ぶ街の構造上、一日中渋滞で苦労しているわけだ。そこで、今進んでいるのが、ホノルル・レール・トランジットという電車である。西側がカポレイでエリア1、エリア2は真珠湾の北側、そしてダニエル・イノウエ空港のあるエリア3、そして官公庁や企業のあるシティセンターがエリア4になる。エリア4の終点が、アラモアナセンターである。つまりワイキキにはほんの少し足りない。ワイキキのホテルからは、JCBのピンクの無料バスに頼らないといけない。一応、ワイキキの北側のハワイ大学が最終目的地という話もあるが、途中にはゴルフ場がある。

旧オアフ鉄道と比べると、エリア3とエリア4の区切りのあたりが旧オアフ鉄道始発駅だったので、そこから東側に街の中心が移動したことになる。第一期工事として、エリア1とエリア2が2020年に開通で、エリア4までは2025年となっていたのだが、ごく最近、エリア3までで、予算を使い切るのでエリア4は期日未定という報道がなされ、騒ぎになっているようだ。なにしろ、エリア4のシティセンターに通勤する車で渋滞になるのだから本末転倒ということだ。しかも、エリア3で終了!ということになれば、それでは旧オアフ鉄道と同じになるだけだ。

ハワイ「元年者」を調べてみた

2019-03-20 00:00:04 | 歴史
昨年(2018年)は、『ハワイ日本人移住150周年』だった。ということは、2018-150=1868ということで、西暦1868年。ということは、明治元年である。

本題とは異なるが、明治元年のことだが、1868年は、そもそも慶応4年だった。1月に鳥羽伏見の戦いがあり戊辰戦争が始まる。そして、あっという間に薩長軍が江戸に進撃し5月3日、江戸城が明け渡しになる。そして9月4日に「慶応」が「明治」に改元になると同時に江戸も東京に名称変更となる。

ただし、その時、正月に遡り明治とするということになったので、慶応4年は、なかったことになる。ここまでは、わかりやすいのだが、当時は太陰暦(旧歴)であり、旧暦の方が約1ヵ月先行していた。ということで、明治元年(慶応4年)1月1日というのは、西暦1868 年1月25日であるため、西暦1868年1月1日から24日までは、慶応3年ということになる。

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で、話を戻し、ハワイ移民の件だが、明治元年5月17日153人が帆船サイオト号で横浜からハワイに向かって出港している。そして6月20日に151人がハワイに上陸した。江戸城開城から僅か2週間後にあわただしく出国しているのだが、実は、新政府はもともと幕府がハワイ王国と前年に「臨時親善協定」を締結したことを認めなかった。ところが、この条件は、国内の農民には格段の好条件だった。移民は月26日労働で4ドル。食事と住居はハワイ持ちで3年契約という条件だった。サトウキビ畑の仕事が待っていたわけだ。

ということで、混乱に乗じて、当初予定の300人に満たなくても、無許可で出航したわけだ。

ところが、上手い話はなかったわけだ。炎天下でサトウキビ畑は辛いし、鞭で叩かれたり、そもそも日本語通訳もいない。そして、日本政府にSOSとなる。その結果、新政府が交渉することになり、42人の即時帰国が行われた。3年後には、さらに帰国するものが現れ、結局90人がハワイに残ることになり、正式な移民となる。

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その後、明治18年(1885年)には官約移民の労働約定書が制定される。約定書によれば、3年の契約中、一ヶ月9ドルの給料と6ドルの食費、サトウキビ畑の作業は1日10時間、砂糖工場で働く場合は1日12時間労働と定められている。

15ドルの給料を換算すると、当時の日本国内に比べ、3~7倍ということだそうだ。こうして、官約移民は10年間に29,000人以上の移民をハワイに送り出すことになる。そして47年後には、すっかり日系人のことを忘れたかの如く、日本人街に近い真珠湾を爆撃したわけだ。

四月は君の嘘(2016年 映画)

2019-03-19 00:00:40 | 映画・演劇・Video
漫画を元にした実写映画。厳しい指導者だった母の死のトラウマを抱えたままピアノが弾けなくなった早熟の天才ピアニスト有馬公生を山崎賢人、高校での同級生で奔放なバイオリニスト宮園かをりを広瀬すずが演じている。

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漫画の映画化の場合、元々の長いストーリーを約2時間に押し込むため、ストーリーが簡略化され、さらにドラマ性が強調されていく。

有馬がピアノが弾けない心因は、機械のように正確に弾くことを求め続けた母親と、宮園のバイオリンのように自由に表現したい自分との相克であったのだが、宮園や彼を取り巻く人たちの奮闘により、ついに彼は鍵盤に向かうことができるのだが、一方で宮園は重大な健康リスクを抱えていて、自分の命の長くはないことを悟っていたわけだ。

前半は、「再生物語」で、後半が「闘病物語」。一本の映画に二つのストーリーを押し込んでいる。闘病実話物語は、現在の日本で実話進行中であるが、映画の中では、常に患者は帰ってこない。さすがに本作では、具体的な病名が明かされないので、同病で治療中の患者の怒りを買うことはないようにしているが、病気から戻ってきて、その後の生活も描くような脚本があってもいいような気がする。いや、誰かが良くなると、別の誰かが病気になったりするのかもしれない。(書いているうちに、源氏物語ってそういう多様なストーリーになっていることに、気が付く)

ところで、本作に登場する高校だが、江の電が走っている。湘南だ。思えば広瀬すずの出演した『海街diary』も『ちはやふる』も湘南。湘南の海岸沿いを夕陽の中、自転車で走るって何と豪華なシーンなのだろうか。一方、山崎賢人は、少女漫画が実写映画化される時、よく主役を演じるようだ。演技もマスクも漫画的なのだ。

あおい(西加奈子著 小説)

2019-03-18 00:00:25 | 書評
『あおい』は西加奈子のデビュー作である。文芸誌の新人賞を狙うというような方法ではなく、いきなり出版社に原稿を持ち込むという押し売り商法でデヴュー。

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第2作が、『さくら』だが、第二作を先に読んだので、むしろ『あおい』の持つ、新人作家の危うさのような新鮮さが光っているというべきか。ストーリーも不安げに進んでいく。

主人公の27歳の女性は昼の仕事と夜の仕事を掛け持ちしながら、一匹の亀と、年下の男と同棲中。登場人物は、女も男も、夜と昼の様な二面性を持つ人たちばかりだ。ある男性を愛しかけたところで、彼は海外に行ってしまい、さらに同棲中の彼氏のこどもを妊娠したことに気付く。海外といってもアフリカ大陸だし、逃げていった先には女性と彼の子がいる。元の鞘に戻るしかない。亀もいるし。

思えば、「あおい」というのは主人公の名前ではなく、小説の中に登場する可愛い花の名前。生まれてくる子が女の子と確信し、こどもの名前に決めてしまう。ただし、生まれるのは男の子だったし、「あおい」と思った植物は違う名前だった。著者が書きながら間違えたことに気付いて、帳尻合わせにストーリーを捻じ曲げたのだろうか。別に生まれる子が男でも女でも構わないわけだ。出産予定日よりも何か月も前に小説は終わっているからだ。

保科晶子展

2019-03-17 00:00:12 | 美術館・博物館・工芸品
横浜市民ギャラリーあざみ野で開催中(~3/24)の保科晶子展。一階のエントランスロビーでささやかに開かれている。同時開催の他の展覧会に比べて、劣るようなことはないのだが、どうしたのだろうか。思うに、写真や、絵画といったかさばるサイズではないからだろうか。

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ジャンルからいうと工芸というか、陶芸。工芸作品というのは、どこの美術館でも、ホールとかガーデンに、「ほいっ」という感じで置かれていることが多いので、それはそれでいいのかもしれない。

作品の方向性としては、2種類で、メインテーマは衣類の陶芸。

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出品されている『みずたまのパジャマ』は保科さんの記憶の中にある衣類を陶器にしたものだそうだ。子供時代なのだろう。大人になって、パジャマをこのようにぐちゃぐちゃにしていたら、ただの「だらしない女」ということ。本物の陶器で、パジャマをコーティングしたものではない。布の触感が視覚的に伝わってくる。思い出を詰め込んだ作品だそうだ。

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もう一つの方向が、『石』。石というのは、工芸の世界ではあくまでも材料で、石を削って彫刻を彫るものと思っていたが(自分の顔を作ろうと大谷石を一本削ったことがあるが、途中でモアイ像に変更したことがある)、保科さんは、陶器で石を作った。これは削れない。

よく調べると月末に、保科さんの臨時教室に思い出の布製品を持って行くと、陶器の作品を自作するワークショップがあるそうだ。思い出の布製品とは・・(そもそも忘れてしまいたい悪い思い出ばかりなのだけど)