そして、その後、徐々に普通の私人の世界へ向かっている、というのが実際だろう。ということで、肖像権も本人に戻りつつあるだろうと考え、画像なし。そしてややあいまいに記述する。
最近、彼の目撃情報があった。東京南西部の多摩川河川敷にある、A自動車練習場。例の赤いBMWで高速道路での練習をするので有名な自動車学校だ。ボディガードはいなかったということ。ネット上を検索してみると、確かに、都内自動車練習場で練習中というニュースがあった。そして、クルマで釣りに行きたいとの希望を持っているそうだ(水をかける気はまったくないが、来年の夏からは駐車違反の取締りが強化されるので注意が必要)。
なぜ、免許が簡単にとれそうな佐渡ではなく、世田谷区に現れたのかはよくわからないが、英語の話せる教官が大勢いるそうだ。一つのビジネスモデルだ。では、彼は免許を持っていなかったのだろうか?と考えて、彼のキャリアを軽くのぞくと、今まで大きな勘違いをしていたことがわかった。彼自身、「運転は40年ぶり」と言っているのが一つのヒントでもある。今年は2005年。そして板門店近くの森の中で行方不明になったのは1965年1月5日。つまり、北朝鮮に行ってから車の運転をしていないということになる。
実は、朝鮮戦争中に敵前逃亡をしたのではないかと「比較的簡単に」考えていたのだが、1965年といえば朝鮮戦争の停戦後(つまり、理論的には今でも終結ではなく停戦中ということ)、10年以上経過している。つまり真相はもっと複雑だったのかもしれない。ここで彼の生年と入隊歴をみると、生年は1940年。そして15歳の時、1955年に陸軍に入隊。10年後には軍曹になっていた。軍用車の運転とかしていたのだろう。そして、1965年というのは、63年にケネディが暗殺され、東西冷戦は緊張が高まり、特に南ベトナムではクーデターによる政権交代が続く一方、歴史上、陰謀説が強いトンキン湾事件(1964年8月)以来、米軍が直接参戦直前の状況だったわけだ。
そして、実際、ジェンキンス氏が行方不明になってから2ヵ月後の1965年3月に、海兵隊がダナンに上陸をはじめる一方、ジョンソン大統領は北爆を開始する。その後、10年にわたる戦争により、米兵58,000人、南北ベトナム兵1,000,000人、外国軍(主に中国)や市民の犠牲者超多数。の結果、1975年4月30日、海上の米軍空母に向けて脱出用ヘリが米国人と南ベトナム政府幹部を乗せ、韓国人と日本人をおきざりにしてサイゴンを飛び立ち、戦争は終結した。
当時、陸軍で板門店の守備をしていたジェンキンス氏が数ヵ月後に自分の身に降りかかるベトナムでの危険を予測していたのかどうかは興味があるのだが、実は2005年10月(つまり今月)、自叙伝を出版していた。「告白(伊藤真訳・角川書店)」。問題の脱走のところは、残念ながらあっさりとしている。「数千人の脱走兵と同じような気持ちで」とか「北朝鮮の生活の方がいいと思った」ことになっている。
ただし、まだ、多くの米国人や多国籍の拉致被害者がピョンヤンにいると書かれている。彼自身、現在の自らの幸福をよろこぶと同時に、残留している被害者のことを、相当に意識してかばっているように、思えるのだがそれは仕方がないことだろう。相当に遅ればせながらではあるが、日本が一番強く拉致問題にとりくんでいるというのが、彼の見解。
ジェンキンス氏は現在のところ米国籍である。例の収監されながら、福島瑞穂さんなどの努力で米国送還をなんとか免れたチェスの元世界チャンピオンであるボビー・フィッシャーの事件は知っているだろう。何とか、2年後位には取得超難関の日本国籍を手に入れたいだろう。
しかし、それだけでは、物価の高い日本では安泰というわけにはいかない。国民年金の掛け金を払っていないのだから、受給もできない。つまり所得なしのホームレスになってしまう。彼が、最初の著書で、あちこちあいまいにしている理由も、案外、少しずつ霧に包まれた真相を出版を重ねながら明らかにしていくつもりなのではないだろうか。
下世話な話ではあるが、彼がどういう契約を出版社としたのかは不明ではあるが、私が1冊分に払った金額のうち、彼のポケットに入る金額は、ほんの小額で、釣りに行くときのガソリン代1リッターか2リッター分にしかならないだろう。さらにその半分近くが道路財源の目的税になっていることを考えると、ちょっとさびしい。