1963年に出版された岩波新書で『日本人の骨』を読む。57年前。前の五輪の頃だ。
鈴木先生の興味の中心は、人骨。日本の歴史を振り返ると、実は顔の形などの骨格は時代によって変わっている。それらの研究により、日本人のルーツを調べようということになる。
本書のあと、現代までの間に大きな科学的進歩というのは、炭素測定法による年代の特定ができるようになったことと、日本人のルーツ(世界中)のDNA分析などが進んでいるわけだ。
とはいえ、本書の主たるテーマである顔の形の変化については、まだ原因はわかっていない。本書にあるように、日本人の顔の形が変わったのは縄文時代の終わりから古墳時代までの時期と、明治維新後の二つの期間である。明治維新は国内戦争であるので、他国からの遺伝子の流入ではない。つまり縄文人から弥生時代に変わった時に顔の形が変わったと言っても異民族がきて縄文人を根絶やしにしたとはいえない。事実、現代人のルーツは6割が縄文、4割が弥生と言われていて、それもなかなかイメージがつかめない。
本書に戻ると、鎌倉時代とか江戸時代の人間の骨のサイズといっても、多数の骨を集めて平均化しなければ、全体像はつかめない。といって、人間がたくさん埋まった場所を探し出すのは大変で、何らかの工事で地面を掘り返したら、骨が出てきたというところから始まる。学問的には江戸時代→室町時代→鎌倉時代→平安時代というように順番に骨が出土されればいいが、全く無秩序に骨が出てくる。
むしろ、鈴木先生の筆は、出てきた大量の骨の時代を決めるところからはじまる。
まず、東京駅周辺の鍛冶橋。東京の下町は海で家康の指図で埋め立てられたといわれるが、地層をしらべると東京駅のあたりは海ではなかったそうだ。ミニ半島。調査の結果、墓地だったそうだ。
次に、鎌倉の材木座から出てきた大量の人骨。こちらは、新田義貞による鎌倉総攻撃の時の戦死者であることがわかる。稲村ケ崎から海岸沿いを移動して、材木座海岸から一路、鎌倉市街地に攻め上ろうとした時のファイナルウォーだ。再現すると、新田義貞に従う兵は約6万人。これが陸路鎌倉を攻撃する部隊と、海岸から攻める部隊と二分されたとしても相当な戦力だ。歴史によれば、平塚の方から海岸に沿って進軍し稲村ケ崎で立ち往生。
北関東出身の新田義貞は海に干満があることを知らなかったようだ。今でも湘南海岸で、何かハズレた感じの水着で歩いているのはそちら方面からの珍客だ。神話時代なら、ここで義貞が愛妾を海に投じて神々にこれからさきの暴挙に対して許しを乞うのだが、あいにく海は遠浅だ。海に投じても腰の高さだ。代わりに刀を一本海に投じて待つことしばしだ。
そして潮が引き、大戦争が始まる。遺体はしばらくは放置され、野犬に食い散らさられている。
明治初期の人骨は、海軍墓地移転に伴う戦死者の調査資料による。
無常観があちこちに漂うが、著者は嬉々として、人骨を語り続ける。奇怪な新書だ。
本題の顔の変化については、現象としては理解できたのだが、原因については決め手に欠けるようだ。
ついでに書くと、鈴木先生が見て、その量に驚いたという東京大学の頭蓋骨コレクションだが、私もみたことがある。さらに日米和親条約締結を米国人が描いた写実的な絵を見たこともあるが、日本人はほとんどが丸顔に描かれている。
鈴木先生の興味の中心は、人骨。日本の歴史を振り返ると、実は顔の形などの骨格は時代によって変わっている。それらの研究により、日本人のルーツを調べようということになる。
本書のあと、現代までの間に大きな科学的進歩というのは、炭素測定法による年代の特定ができるようになったことと、日本人のルーツ(世界中)のDNA分析などが進んでいるわけだ。
とはいえ、本書の主たるテーマである顔の形の変化については、まだ原因はわかっていない。本書にあるように、日本人の顔の形が変わったのは縄文時代の終わりから古墳時代までの時期と、明治維新後の二つの期間である。明治維新は国内戦争であるので、他国からの遺伝子の流入ではない。つまり縄文人から弥生時代に変わった時に顔の形が変わったと言っても異民族がきて縄文人を根絶やしにしたとはいえない。事実、現代人のルーツは6割が縄文、4割が弥生と言われていて、それもなかなかイメージがつかめない。
本書に戻ると、鎌倉時代とか江戸時代の人間の骨のサイズといっても、多数の骨を集めて平均化しなければ、全体像はつかめない。といって、人間がたくさん埋まった場所を探し出すのは大変で、何らかの工事で地面を掘り返したら、骨が出てきたというところから始まる。学問的には江戸時代→室町時代→鎌倉時代→平安時代というように順番に骨が出土されればいいが、全く無秩序に骨が出てくる。
むしろ、鈴木先生の筆は、出てきた大量の骨の時代を決めるところからはじまる。
まず、東京駅周辺の鍛冶橋。東京の下町は海で家康の指図で埋め立てられたといわれるが、地層をしらべると東京駅のあたりは海ではなかったそうだ。ミニ半島。調査の結果、墓地だったそうだ。
次に、鎌倉の材木座から出てきた大量の人骨。こちらは、新田義貞による鎌倉総攻撃の時の戦死者であることがわかる。稲村ケ崎から海岸沿いを移動して、材木座海岸から一路、鎌倉市街地に攻め上ろうとした時のファイナルウォーだ。再現すると、新田義貞に従う兵は約6万人。これが陸路鎌倉を攻撃する部隊と、海岸から攻める部隊と二分されたとしても相当な戦力だ。歴史によれば、平塚の方から海岸に沿って進軍し稲村ケ崎で立ち往生。
北関東出身の新田義貞は海に干満があることを知らなかったようだ。今でも湘南海岸で、何かハズレた感じの水着で歩いているのはそちら方面からの珍客だ。神話時代なら、ここで義貞が愛妾を海に投じて神々にこれからさきの暴挙に対して許しを乞うのだが、あいにく海は遠浅だ。海に投じても腰の高さだ。代わりに刀を一本海に投じて待つことしばしだ。
そして潮が引き、大戦争が始まる。遺体はしばらくは放置され、野犬に食い散らさられている。
明治初期の人骨は、海軍墓地移転に伴う戦死者の調査資料による。
無常観があちこちに漂うが、著者は嬉々として、人骨を語り続ける。奇怪な新書だ。
本題の顔の変化については、現象としては理解できたのだが、原因については決め手に欠けるようだ。
ついでに書くと、鈴木先生が見て、その量に驚いたという東京大学の頭蓋骨コレクションだが、私もみたことがある。さらに日米和親条約締結を米国人が描いた写実的な絵を見たこともあるが、日本人はほとんどが丸顔に描かれている。