平家巡礼(上原まり著)

2020-12-31 00:00:03 | 歴史
少し前に岩波ジュニア新書『平家物語を読む』を読んで、なんとなくもう少し踏み込んでみようかと思うとともに、琵琶法師の語る平家物語を聞いてみたいと、たぶん無理だろうと勝手読みして書いたのだが、琵琶法師ではないが、琵琶奏者の語る平家物語というのは、実在していることがわかった。というか琵琶を弾く場合、平家物語は定番みたいなものらしい。



そうとは知らず、平家の滅亡に向かう歴史を歩き続けた女性の著作を手に取って読み始めたのだが、著者の上原まりさんは、琵琶奏者だった。祖母の代からの琵琶奏者であるととしかも、平家ゆかりの神戸市出身。さらに、宝塚のスターだった。神戸、琵琶、歌い手ということになれば、平家物語ということになるしかない。実際、youtubeには彼女の「祇園精舎の鐘」の演奏が並んでいて、いつでも聞きたいだけ聞ける。

本書は平家物語の種類とか、成立の秘密にも触れられているが、平家物語の登場人物、それぞれのエピソードが書かれ、それに対応する悲劇の段が挙げられている。さすがに岩波ジュニア新書には書かれていない残酷な事実も、本書では確実に記されている。人物で平家物語を見ると、後白河法皇と源頼朝という二人はとらえどころのない妖怪になっていて、平清盛は、常識の存在しない宇宙人のようになっている。

平家の巡礼というのは、京都六波羅、鹿ケ谷、神戸福原、屋島、壇ノ浦、寂光院といったところだ。個人的には鹿ケ谷と寂光院は行ったことがないが、その他の場所で感じた気持ちは著者とほぼ同じだ。

僧俊寛の悲劇の場所である鬼海島には、いつか行ってみたいような気がする。

羊をめぐる冒険(村上春樹著)

2020-12-30 00:00:21 | 書評
GoToが事実上、破綻に向かっていて、結局、個人的には内向の時代に向かっているわけだ。というわけで、再度、村上春樹を何冊か読んでみようかと思い立つ。自分の読書パターンは、特定の作家をかなり読むことが多く、古くは三島由紀夫、石川淳、そして村上春樹はほとんどの中心作を読んでいる。小川洋子は半分ぐらいかな。吉村昭もたくさん読んでいるが、その何倍もの著作があるだろう。



本作、講談社文庫で上下巻のある本格的長編である。ストーリーは現実と非現実が混じり合い、「ノルウェイの森」を除く多くの作品につながっている。名前は出さないが、村上春樹の影響を受けた作家はたくさんいるのだが、本家以外がこの非現実の世界を書き始めると、あっという間に妖怪小説になってしまう。

巧みに世界を切り替えるために、著者は、一気に世界を裏返すのではなく、裏側の世界のほころびのような事象を小出しにしていくわけだ。主人公にかかってくる電話の内容を第三者の女性が知っていたり、北海道にわたって羊のことを調べ始めると、いつの間に羊博士のところにたどりついたり。

気になっているのは、村上春樹の作品ではしょっちゅう使われる、この現実世界と非現実世界の混合だが、「羊」では、それほど多いわけではないのだが、年を重ねるにつけ非現実世界での事象を書く比率が高くなっているように感じる。

この拙文を書きながら考えてみると、現政権、前政権あたりの非現実感が漂う政治って小説に似ているような気がする。なぜ、たいして能力も人気もない現実遊離した人が政権を担うことになるのだろうか。

この本で、2020年の読破数は100となった。(といっても『羊』は再読である)

青春ピカソ(岡本太郎著)

2020-12-29 00:00:43 | 書評
世界の巨匠ピカソに日本の巨匠岡本太郎が挑むといった趣旨の本だが、どうも挑むのではなくひれ伏しているようにしか見えない。



岡本太郎だって、常識を破るために格闘を続けた巨匠であるのだが、太郎に言わせれば、ピカソにはそもそも打ち破る常識というのが存在しない。すべて自分の考えたことを実現しているということ。

岡本太郎の方の話では、ルーブル美術館で、セザンヌの絵をみて涙が止まらなくなったというから驚きだ。もっとも、私も涙は出なかったが驚愕したのはルノアール展だが、セザンヌには、そう感動しない。ただ、岡本太郎の表現をよく読むと、技法的に自分を超越していて感心した、という類の涙だったのかもしれない。裏側には、岡本太郎自身が「両親がともに有名な芸術家であった」という重い事実を背負っていた心理的プレッシャーがあったことも書かれている。

後半は、ピカソに会いに行って言葉を交わし、アトリエを見せてもらうことが中心に置かれる。岡本太郎はピカソのことを十分に研究して、対話に臨むが、若い頃のピカソの言動について質問をしようとするが、ピカソ自体が覚えていなかったり、そういうつもりじゃない、といった話になり、まとまりに欠ける。

結局、岡本太郎は「ピカソはピカソである」ということに到達する。誰もそれをさまたげることはできない。

岡本太郎もピカソほどではなくても「太郎は太郎だ」という行動様式になり、多くの作品を残した。

体は全部知っている(吉本ばなな著)

2020-12-28 00:00:03 | 書評
13編の短編集。著者以外には書けない短編。題材がいかにもユニークで、文体が軽いわりにディープなことが書かれる。



その多くが長編にした方がいいのではないだろうかという思いにさせられる。

会社の生き地蔵のようなおっちゃんのことを書いた『田所さん』。アロエを栽培しているうちに立派になりすぎて、切るに切れなくなり、何か霊的なものを感じてしまう『みどりのゆび』がいい。

何といっても『いいかげん』。喫茶店に行って預金通帳を開いて、女性店員に巨額の残高を見えるようにする、通称「通帳おじさん」のこと。深い理由があるわけでもなさそうだ。もしかした紀州のドンファン的?

著者は少しだけ風変わりな人物を造形するのが得意だが、ごく最近の日本や世界の状況は、そういう風変わりな人間が、小説の中と同じようにたくさん実在していることなのだろう。

何か小説書きにくい時代になってきたのかなと思っている。

エンゼルロードは踏み荒らされて

2020-12-27 00:00:27 | たび
小豆島に行った時に、時間があれば行きたいと思っていたのが、エンゼルロード。日本に数多くあるウユニ塩湖の一つ。干潮になると沖にある島との間が陸続きとなって、歩けることになる。もちろん、ウカウカしていると満潮になって戻れなくなる。

そして、島内観光バスが1日の旅程を終えて、岡山行きのフェリー発着港である土庄港へ戻る途中(港から1.5キロ)にエンゼルロードがあり、ちょうど島との間に道ができる干潮の始まりの時間だったのだ。幸運がいくつか重なる。



ということで、さっそく、バスを下車して歩き出す。妙なもので、エンゼルロードに行こうという物好きは、バスの中で二人だけ(性別は省略)。同じバスに乗っていた人なのだろうか。何時間も一緒だったはずだが、あまり記憶になかった。ということで、自然と一緒に歩き出したが、実は、バスを降りたところからエンゼルロードまで5分位あり、その5分間で細い回廊は渋谷駅前のような混雑になっていた。最も狭いところは幅数十センチなので、よろけると靴が海水に浸かってしまう。臨時同行者もいつの間にかいなくなってしまった。



そして小島の樹木には、絵馬ではなくホタテの貝殻がたくさん吊るされている。願い事を書いて残しておけばいいらしい。もっとも畠中恵著『しゃばけ』シリーズの中には多数の神様が登場するが、頼まれると、わざとできなくするような性悪な神様もいるらしいから気を付けた方がいい。

人々の願いというのは客観的には笑えることが多いので、いくつか読んでいるうちに、大問題のことが書かれている貝殻があった。

ちんちんの病気が
早く直りますように


ことばの通りに解釈していいのだろうか。鍵は、「ちんちん(以下、チンと略。)」の意味だろうか。

自分のチンだろうか、カレシのチンだろうか、あるいは飼い犬のことだろうか。

しかし、犬にそんな名前は付けないだろう。

将棋クロスワードの難問

2020-12-26 00:00:42 | しょうぎ
将棋ペンクラブの会員に「将棋ペン倶楽部通信」が送られてきた。クローズドの秘密結社みたいな会らしく、内容を書くわけにはいかないが、末尾に将棋クロスワードがあった。マス目は将棋らしく9×9。


そもそも将棋もクロスワードも頭脳ゲームである。二人でやるか一人でやるかの差はあるが、それぞれに達人がいるのだろう。その一つの難しいゲームの達人が集まってクロスワードを作ったそうだ。やはり、予想通り難しい。一日では終わらなかった。というか、本来はヨコのカギとタテのカギがあるから、全部のカギが解けなくても、タテとヨコを組み合わせると解けていくのだが、そういう方法は好きじゃない。完全クリアを狙うべきということで、ヨコのカギを先に全部解こうとしたわけだ。

そして、最も難しいヨコのカギは、二文字で「首相の名前」。めったに国民の前に姿を見せないので思い出せないが、「す」と「が」を入れればいいのだろうが、その前の総理も「あ」と「べ」の二文字だった。クロスワードを作るのに、どれだけ時間がかかるかわからないが、もしかしたら、前総理の方かもしれない。あきらめてタテのカギを使うと、わかってきた。「ミノガコイ」というのがタテのカギとなり、前首相の名前を入れると、「ミノベコイ」になってしまうわけだ。


さて、12月12日出題作の解答。





動く将棋盤は、こちら。(flash版、edgeは不可)

gif版はこちら。



今週の問題。

1226m


初手の発見がやっかい。

わかったと思われた方はコメント欄に最終手と総手数とご意見をいただければ正誤判定します。

とろトロトロ丼

2020-12-25 00:00:52 | あじ
最近、よく紹介されている、「道の駅・足柄 金太郎のふるさと」。魚介、牛、豚の名産地に近く、食通に人気になっているらしい。金太郎は熊に乗っていたはずで、魚介類を食べたという伝説は残っていない(が、北海道の熊は鮭を好んで食べる)。そもそも「足柄」という場所は適用区域が広い。

地図を見ると、東京の方から西に向かうと、富士山の南側に抜けるまでには、正面に塊のような山岳地帯がある。そこが足柄だ。これを超えるには北の方の山間を抜けるか、南側の熱海の方へ向かうか。北ルートは現在の東名、新東名、JR御殿場線。南ルートは新幹線、東海道線、そして中間が箱根路だ。



そしてこの「道の駅・足柄」は北側の大井松田ICで降りて、真っすぐに正面の大雄山への道を5分進み、スターバックスの角を左に曲がったところにある。道は大雄山で行き止まりだ。道の駅にはふさわしくない場所に思える。箱根の入り口と書かれているが、ある意味、正面の山の向こうに行くには、北に回って御殿場に行くか南に下って小田原に行くかして、それから箱根だ。

つまり、箱根の入り口とは言えなくても、相州牛、相模豚、小田原の海鮮品と食材には良い場所であるわけだ。

というわけで、東名高速大井松田ICからハンドルを切ることなく、一般道を直進し、スタバの交差点で左に曲がって10秒で到着する。さらにいうと、自宅から4回ハンドルを切ると高速道路に入るので、計5回曲がれば着くことになる。



そして、お目当ての食堂。大奮発して3000円以上払えば、ウニとローストビーフの丼が頂けるが、その半分以下の価格で「トロとろとろ丼」をいただく。マグロ丼にトロが使われているという意味だ。さらに伊豆特産のワサビ付。

ひつまぶしのように3種類の味が楽しめることになっていて、醤油、ごまだれで味をつけて食べた後、魚介出汁をかけて締める。

食事が終わったら、地元名産品や野菜を買って、来た道を戻る。ハンドルを5回切って家に着くが、車庫入れ時にうまくいかず。右左に二回ずつ余計にハンドルを回した。

赤ひげ(1965年 映画)

2020-12-24 00:00:20 | 映画・演劇・Video
黒澤映画の最高峰について、あれこれ書く技術は持ち合わせていないので、あっさり書くしかない。主役の赤ひげ医師を演じるのが三船敏郎。長崎帰りの生意気な若い医師を演じるのが、売り出し中だった加山雄三。三船の総合的医術を見下していた蘭学かぶれの若手医師が心を入れ替えて心酔していくと書くと、ああ、ベテラン刑事と大卒生意気刑事の署内バトルものドラマだろうと思われるかもしれないし、そういう観かたもあるだろうか。



時代と場所は幕末に江戸に作られた小石川養生所。今の東大病院の元の元の元だろうか。金もなく薬もなく身寄りもない町人たちが次々に運び込まれ、地獄のような治療が行われていた。これも世界の歴史では、そういうものだった。平清盛だって武田信玄だって治療の甲斐なくなくなった。本映画の最後でも、服毒による一家心中から少年を助けるのに看護師たちが最後に行ったのは、井戸の底にいる地獄の主に対する助命の合唱だった。

この映画、長いので、途中でトイレットタイムが設定されている。前半は新旧二人の医師の物語だが、後半の事実上の主役は、吉原から赤ひげが力づくで救出した12歳のおとよ(演:二木てるみ)。彼女の心は救出時は温度0度みたいなもの。それが時間とともに溶けてゆくのだが、怪演だ。前半でも香川京子が演じる狂女が怪演をしていて、映画の骨格を作っている。

そして、海外、国内で本映画は多数の映画賞を受賞したのだが、なぜか加山雄三にはトロフィーがなかったようだ。

加山雄三と言えば『若大将シリーズ』となるが、『赤ひげ』出演時にはすでに若大将を演じ始めていた。

なぜ、若大将とは正反対の泥まみれになる映画に出たのかを考えてみた。勝手な推測なのだが、当時、映画は二本立て興行だった。しかし、赤ひげはどうだったのだろうか。なにしろ3時間超だ。一本仕立てではなかっただろうか、あるいは短い軽作とパックとか。

そうなると、東宝の売り出している加山雄三を見ることができないわけだ。というようなことを有機的にあれこれ考えた上の共演だったのではないだろうか。

ガンバレ、マッキー

2020-12-23 00:00:06 | 市民A
今年は、庭に様々な小動物を見つけたのだが、年末おそらく最後になると思うのが、カマキリ。実は、ほとんど同じ場所に2週間前からとどまっている。敷地の中の通路と庭の境に鉄柵があるのだが、その柵の足を立てるため、地上から20センチほど煉瓦を積んでいる。その地上から20センチの煉瓦は非常に居心地がいいのだろう。陽当たりは良く、煉瓦は暖かく、また地上から高さがあって夜も余熱があるのだろう。煉瓦の片側は芝なので、捕食できる昆虫がいるのかもしれない。アリの巣もあるはず。



最初は気にしなかったのだが、なんとなく家族風に思えてきて、「マッキー」と名前をつけてみた。雌雄不明なので、「カマちゃん」でもいいかと思ったが、たぶんメスだろう。というのも、軽く調べると、寿命は数ヶ月で、日本ではオスは10月末頃まで、雌は11月末までらしい。既に12月下旬だ。まあ、なんでも長寿はいい。見ている限りでは一日10センチほどしか動かなくなって、人間をみても威嚇しなくなった。

通路側に降りてくると、踏みつぶし事故になるので、暗くなると要注意だ。宅配便も危ない。最近は配達が夜にまで及んでいる。

カマキリは、メスが交尾の時にオスを食べてしまうと言われ、メスとオスが同数ならいいが、そううまくいかないはずだから、どちらか余るのだろうとも思える。もしかしたら、そういうパートナーに恵まれなかった個体で、いまでも相手を待っているのかもしれない。

もうすぐクリスマスなのに。

雪が降らないことを天に祈る。

12月27日に力尽きました。ごくろうさまでした。

二文字宰相

2020-12-22 00:00:15 | 市民A
あるクロスワードパズルを解いていたら、ヨコのカギということで、2マスに首相の名前を書くことになっていた。少し考えることになった。そういえば、今は「すが」だが、前は「あべ」だった。クロスワードが完成するまでの日数を知らないのだが、問題を作る時には「あべ」だったかもしれない、と思ったりしたのだ。

ところで、「あべ」の前は「のだ」。その前は「かん」であることに気付く。何と4連続2文字だ。

ということで調べてみると、二文字宰相は非常に少ないがいる。二文字の最初は、原敬。平民宰相として有名人だ。そのあと昭和14年後半に阿部信行氏が140日務めているが戦前は2人だけ。戦後も岸、三木、宇野、羽田、森と散発的に発生し、突如として菅、野田、安部、菅と4連続になった。やはり4連続は規則性なき特異現象なのだろうか。

現内閣は、早くも窮地に追い詰められているようだが、ポスト菅として二文字候補を探すと、野田聖子氏以外いないような気もする。日本共産党のトップも二文字だが、キャスティングボードを得た場合はチャンスがあるかもしれない。そういえば前のトップも二文字だった。

注1:茂木氏は「もぎ」ではなく「もてぎ」と読む。
注2:蓮舫氏は「れん-ほう」ではなく、「さいとう-れんほう」。

調査漏れは多いと思うので、自薦他薦があればご紹介のほど。

平家物語を読む

2020-12-21 00:00:49 | 歴史
高校生の頃、好きな古典文学は「大鏡」と「平家物語」だった。『大鏡』は、平安時代の最終盤に180歳と190歳の男性(貴族)が過去を語り合うというスタイルで書かれた歴史書で、中心人物は藤原道長。




一方、平家物語の主人公は平清盛。彼の前の時代から平家が亡びるまでの歴史を平家側の従軍記者みたいな感じで書かれている。実際は琵琶法師が全国行脚して、この悲しい物語を各地で語っている。平家が滅亡してそれほど経たないうちに、この悲劇が全国に流布したのだが、中には平家滅亡の全貌を知らないまま落武者となり、琵琶法師の語りを聞いて現実を知った者もいただろう。ある意味、戦争文学の傑作だろうか。

滅亡を受け入れるという日本的精神の起源は、平家物語ではないかとも思える。

本書は、その平家物語の中から代表的人物を選び、それぞれのパーソナリティをまとめている言わばダイジェスト版になっていて、まったくのお手軽本である。

平忠盛、俊寛、義仲、義経・・ 性格の悪いところを強調して書かれている。そういえば壇ノ浦(下関)にある平家一門の墓に行ったが、あまりにかわいそうなほど空しい。

ところで、平家物語を本ではなく『語り』で聞きたいなあ、と無理な願望を抱きつつある。DVD全集とかあったとして、聞き続けたら、暗い性格になるだろうか、あるいは生者必滅のような醒めた気分になるのだろうか。

愛のボラード

2020-12-20 00:00:08 | 美術館・博物館・工芸品
小豆島の『二十四の瞳映画村』の道を挟んだ反対側の海に面した駐車場の一部に、純白の巨大な構造物がある。曲線が美しいが、なんだろうと思わせる物体だ。



題して、『愛のボラード』。清水久和氏の作だそうだ。瀬戸内芸術祭の作品。島内にはいくつかの瀬戸内芸術祭関連の作品があるが、その中で、最も『愛』ということばにふさわしいかもしれない。なにしろ、抽象的で、あいまいで、見る人によって感じ方が違うが、万人的な形態だ。

ボラードというのは船が岸壁(桟橋)に着岸(着桟)したときに、暴れないように、ロープで陸地側に固定するのだが、ロープのループ状になった先端を引っ掛けるかぎ型の柱のこと。この白い芸術作品と形は同じだ。だいたい船舶の前中後に2~3本程度のロープを取るので岸壁に何ヶ所か打ち込まれている。もちろん本物は鉄製だ。

『愛のボラード』クラスの大きさの物も、超巨大船を止める時には使われるが、最近の日本では、着岸中に大地震、大津波が来る時に、すぐさまロープをはずして津波に直角に全速で進むことが必要なので、ボラードの先が電動になっていて、人手をかけずに鍵型の先が開いて船を自由にするようになっていて、それでは機械的過ぎて芸術にはならない。

後で調べると、このボラードは素材はFRP(硬質プラスティック)ということ。小型のレジャーボートなどの素材で、地元の小型船の造船所で作られたそうだ。つまり、本物のボラードは中の詰まった鉄製なのだが、こちらは中空のプラスティック。『愛』の本質をついている。

FRPで作る船の寿命だが、大事に大事に使っても30年くらいだろう。これも『愛』の有効期間並だ。もちろん途中で大トラブルに遭うと、そこで航海終了となる。

また、しばしば愛は燃え上がることがあるが、このボラードは可燃物なのだ。後始末のことを考えなければ『燃え上がる愛のボラード』というのも見てみたい。もちろん夜間にライトアップしてデジタル表現で炎を表現すれば、後始末の心配はないが、事前に消防署には連絡しておいた方がいいだろう。

あと1枚

2020-12-19 00:00:09 | しょうぎ
今期の竜王戦では羽生九段のタイトル戦100期制覇へのチャレンジが失敗した。一期の重みがこれほどとは、当人も思っていなかったかもしれない。

では、具体的にタイトル戦で勝つとどういうことになるか。思い出した画像がある。王座戦の授与式のパーティで、表彰式が終わった後のちょっとした歓談タイムに、会場の傍らに無造作に置かれていた允許状と賞金(たぶん目録)のし袋を見つけて写しておいたのだ。羽生王座にとって何十枚目の物かは知らないが、あまり大切そうにはされていない。



ほとんどの棋士にとっては、この紙一枚を得ることなく棋士生活を終わりにしていくのだろう。文面さえ知らないかもしれない。また、一枚だけ持っている棋士もいるだろう。ゼロの方には関係ない話で恐縮だが、一枚の方は桐箱に入れて金庫に保管した上、コピーを額に入れて、応接間(があれば)に飾っているだろうか(想像)。

一方、99枚も持っている場合、桐箱は嵩張るから、紙だけを即位順とか棋戦ごととか分類して、整理箱に詰めて押し入れの隅に積んでいるのではないだろうか。応接間に飾るのは『国民栄誉賞』の方だろう(想像)。

ところで、允許状の文面で、気になることがある、

貴殿ハ今期王座決定戦ニ優勝サレマシタ依テ茲ニ第五十六期王座ヲ允許シマス

となり、将棋連盟の会長の署名押印となっている。

もし将棋連盟の会長が優勝した場合は、文中の『貴殿』のままなのだろうか。『拙者』が正しいはずだ。


さて、12月5日出題作の解答。





動く将棋盤は、こちら。(flash版、edgeは不可)

gif版はこちら。



今週の問題。



自動ドア式

わかったと思われた方はコメント欄に最終手と総手数とご意見をいただければ正誤判定します。

小豆島佃煮の意外なルーツ

2020-12-18 00:00:33 | あじ
小豆島は醤油の大産地である。したがって佃煮で有名なのは驚かないが、小豆島佃煮の父ともいうべき人物「武部吉次」氏。島内に石碑があり、記念館(実は土産屋)がある。佃煮の父の胸像が置かれている。



しかし、佃煮の父がなぜ着物ではなくスーツを着ているか、大いに疑問が湧いてくる。



解説を読んでいくと、思いがけないことが書かれている。小豆島佃煮は第二次大戦後の終わった年、つまり昭和20年(1945年)に始まったそうだ。



日本中が飢餓に苦しむことになり、結局はサツマイモの蔓(つる)まで食べることになる。といっても硬くて旨くない。そのため、蔓を溜り醤油でぐつぐつと煮込んでから食べるようになったのだが、それが小豆島佃煮の始めだそうだ。


ところで、日本全国ベースの佃煮物語は1582年の「本能寺の変」に関係があるそうだ。

本能寺の変は明智光秀が、動機不明ではあるが、主君の織田信長を宿泊していた寺ごと焼き討ちにした事件だ。

それから先の一週間が、各武将にとっては大混乱となる。誰の味方に回ればいいのだろう、ということなのだが、徳川家康だけが特殊事情だった。本拠としていた岡崎城から花見気分で大坂堺にいた。手勢は僅かだ。

岡崎に戻ろうとしても紀伊半島横断は危険だ。ということで海路ルートを考えた。大坂にあった佃村の住人が漁船と保存食の小魚の佃煮を分け与えたことから岡崎に生還できた(紀伊半島の間道を抜けたという説もある。海陸合わせ技だったのだろうか。)。江戸時代になり、家康は佃村の住人34名を江戸に招待して永住権と漁業権を与えた。土地は佃村になり、小魚の醤油煮は佃煮になったと言われる。

さすらいのカウボーイ(1971年 映画)

2020-12-17 00:00:34 | 映画・演劇・Video
アメリカン・ニューシネマの代表作の一つである「イージー・ライダー」の脚本を書き主演でもあったピーター・フォンダが監督兼主演で臨んだのが2年後の『さすらいのカウボーイ』。ニューシネマを西部劇に持ち込んだ。



ピーター・フォンダは父親のヘンリー・フォンダとは折り合いが悪かったと言われるが、ヘンリーは西部劇の大御所だ。何か関係があるのだろう。よくわからないが。

日本で言えば、西部劇は大岡越前とか水戸黄門、暴れん坊将軍みたいなもので、ある程度型にはまっていた、藤沢周平作の映画化などは、江戸時代そのものは否定しないが封建制度の矛盾をテーマにしている。ある意味ニューシネマともいえる。

舞台は西部開拓時代の米国。妻子を置き去りにして放浪している主人公(ハリー)は、アーチ、ダンと三人で組んで牧場の使用人として流れ者になっていたが、ダンは三人でカリフォルニアに行こうと言い出す。そして、ある町で、ダンは自分の名馬に目がくらんだならず者に殺されて馬を奪われる。ハリーとアーチはその馬を奪い返し、西部行きはとりあえず断念してハリーが置き去りにした妻の元にダンの馬を連れて戻ることにする。

そして、ハリーはあれこれあった後で妻とよりを戻し、アーチは単身で西部に戻ることにするが、ここで致命的なミスを冒す。ダンの馬に乗っていったわけだ。鼻筋の白い目立つ顔の馬だった。途中で馬に乗るアーチは再びならずものたちに捕まり、ハリーは彼を助けに向かう。激しい銃撃戦で敵は全滅するがハリーも被弾して亡くなってしまう。

最後は活躍した主人公が撃たれて亡くなるのがニューシネマにはよくあるパターンだ。日本にはカウボーイもいないし、有史以来、警察的な組織は存在していたので、「銃を撃ちまくった方が正義だ」という考えには、なんとなく同調しにくい。

一方、現在の米国の白人の先祖の多くが、こういう西部劇的乱暴さのある社会を生き抜いてきたわけで、時代錯誤的な復古主義にこだわる人が多いのもわからないわけではない。