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慶長十二年 丁未(ひのとひつじ)の條

2024-04-15 18:48:07 | 歴史
 今日4月15日は出雲阿国の忌日である「阿国忌」(生没年不詳)とされている。
 慶長15年(1610)春、加藤清正は八幡の國(出雲阿国)を肥後に招き、鹽屋町三丁目(現中央区新町2丁目)の武者溜りで歌舞伎を興行したことが「續撰清正記」」に書かれている。しかしこれ以外の史料がなく詳細は分からない。何か未知のことでも書かれていないかと思い、「国立国会図書館デジタルコレクション」の中の「江戸年代記(明治42年出版)」を調べてみた。すると「慶長十二年・丁未(ひのとひつじ)」の2月に面白い記述を発見した。そこには次の2項目が並記されていたのである。
  • 二月細川幽斎室町家の儀式三巻を上る
  • 同月観世金春勧進能興行出雲阿国歌舞伎興行
 まず最初の項目は肥後細川家の礎である細川幽斎が徳川家康に重用されていたことを示すもの。この時には既に家康は将軍職を嫡男の秀忠に譲り、駿府を大御所として移っていたが、家康の要請で幽斎がまとめた「室町家式」は武家の伝統、儀式、作法を記したマニュアルで、中世の武家の儀礼を江戸幕府に継承させ、スムーズに政治を主導させる橋渡しの役割を果たした。そのマニュアル3巻を仕上げて納めたのがこの時だったのである。※上の写真は細川幽斎銅像(水前寺成趣園)
 2番目は、この年江戸城天守閣が落成、京で人気の出雲阿国を江戸へ招き、江戸城本丸・西の丸にある観世・金春の能舞台で、女歌舞伎がお披露目された。その後、亜流の芸能者が陸続と江戸へ下り、いわゆる江戸歌舞伎の歴史が始まった。

 これを読みながら細川幽斎と出雲阿国が同じ時代だったことをあらためて認識した。
 ちなみに、京都市北区にある臨済宗大徳寺の塔頭高桐院は細川忠興によって創建された細川家の菩提寺の一つであるが、ここには忠興とガラシャ夫人の墓塔などとともに出雲阿国の墓があり、すぐ傍には阿国の恋人とも夫ともいわれる名古屋山三郎の墓もある。

日本舞踊協会公演「阿国歌舞伎夢華」より