徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

石仏と五高

2024-04-04 15:50:51 | 文芸
 今日は子飼のガソリンスタンドに給油に行ったが、県立劇場が熊本大学の入学式だそうで大渋滞。普段は通らない抜け道を使った。帰りも子飼橋から浄行寺にかけて渋滞していたので熊大の脇から立田山を越える道を選んだ。途中、小峰墓地に立ち寄った。
 ラフカディオ・ハーンが愛した石仏(鼻欠け地蔵)は相変わらず五高(現熊大黒髪キャンパス)を見下ろしていたが、今はもう木々が繁り、民家も立ち並んでいて彼の眼には五高は見えていないだろう。ハーンの「石仏」の中に、五高の教育についてふれた一節がある。近代的な五高の学舎を見下ろしながら「最新の科学は教えても、信仰のことなど誰も教えられないだろう」とでも言いたげな石仏のシニカルな微笑を感じ取り、ハーンは、おそらく漢文の秋月悌次郎先生以外は誰も答えられないだろうと思うのである。
 そんな一節を思い出しながら、石仏や熊本の偉人たちの墓に手を合わせた。

▼「石仏」より
 石仏と私はともに、学校を見下ろしている。そして、私が見つめると、仏様の微笑みは――たぶん光線の具合だろうが――私には表情を変えられたように思われたのだが――皮肉的な微笑みとなられた。にもかかわらず、かなりの強敵のいる要塞を熟視しておられる。そこには、三十三人の教師が四百名以上の学生たちを教えているが、信仰については教えない、たんに事実のみを教える――つまり、人間の経験の体系化の明確な結論についてだけ教えるのである。私がかりにブッダについて訊ねたとしても、三十三人の教師のうち、(ただ一人の親愛なる七十歳の漢文の先生を除けば)誰一人として答えられるものはいないだろう、と間違いなく確信できる。というのは、彼らは新しい世代の人間であり、そんな質問は「蓑の合羽を着た男たち」が考える事柄であって、明治二十六年の今日、教師たるもの、人間の経験の体系化の結論のみを考えていればよいと思っているからである。しかし、人間の経験の体系化とはいうが、科学は、決して「何時」、「何処へ」そして最も悪いことには――「何故か」について、私たちに教えてはくれない。


葉桜になりつつある桜の木の下に坐す石仏