徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

「東海風流プロジェクト」と「おてもやん」

2024-09-07 21:03:06 | 音楽芸能
 昨日の記事、「﨑秀五郎さんの端唄」では、今年7月他界された秀五郎さんの相方、水野詩都子さんについてはあえて触れなかった。しかし、ブログ友のKさんから「水野詩都子さんがおられないのが悲しい・・・」というコメントをいただき、この記事を追加することにした。
 お二人が9年前に「東海風流プロジェクト」を結成し、「民謡は地域のコマーシャルソング」を合言葉に中部地方民謡を発信し始められた原点は、お二人のふるさとの歌「名古屋甚句」だろうと思う。中でも「名古屋甚句」の一部である「名古屋名物」はわが熊本の「おてもやん」のもととなった。祇園橋際ポケットパーク(熊本市中央区細工町五丁目)に設置されている「おてもやんと永田いね」像の銘板にはこう書かれている。

--民謡「おてもやん」は、いねが春日の五反で師匠をしていた頃作られたもので、この節が名古屋さんざい(名古屋甚句)によく似ておるのは、名古屋巡業の際に影響を受けたのであろう。--

 この「名古屋さんざい」というのが「名古屋名物」のことで、明治20年頃、流行った「そうじゃおまへんか節(きんらい節)」を源流として各地に広まった。永田いねが女歌舞伎一座を率いて大阪や名古屋方面を巡業した時、出会ったのがこの「名古屋名物」。一座を解散し、春日で伎芸の師匠をしていた明治30年代前半に「おてもやん」が完成したといわれる。

 そんなことを考えながら、秀五郎さんの三味線で在りし日の水野詩都子さんが唄う「名古屋名物」と、熊本の邦楽家たちが演奏する「おてもやん」を聞き比べると、また味わい深いものがある。




﨑秀五郎さんの端唄

2024-09-06 22:34:57 | 音楽芸能
 9月4日、熊本市の福田病院内・寿心亭で行われた「肥後端唄祭」に端唄三味線の名手・﨑秀五郎さんが特別出演としてやって来られた。久しぶりに秀五郎さんのナマの演奏を聴きたいと思い、事前に秀五郎さんに当日の視聴をお願いし、ご承諾いただいていた。しかし、会場のキャパが限られることや、お弟子さんたちが大勢来られて講習会的な催しであることを考えて今回は参加を遠慮した。
 翌日の熊日朝刊に「肥後端唄祭」の様子がレポートされていたが、特別出演として東京からやって来られた秀五郎さんのことはひと言も触れてなく違和感を感じた。欠席のお詫びメッセージとともに記事の切り抜きも秀五郎さんに送信した。秀五郎さんからお礼のメッセージが届いたが、その中に「先日の本番は、本條秀美さんからいただいたお三味線で演奏していたんです。感謝の気持ちを込めて演奏させていただきました。」という一文が入っていた。
 来年は「くまもと全国邦楽コンクール」が第30回目となり、5年毎に同コンクールの最優秀賞受賞者が集う「邦楽新鋭展」が行われる年になる。まだ時期や会場など詳細は未定だが、2019年の最優秀賞受賞者である秀五郎さんの端唄を再び舞台で聴けることを期待している。
      オンライン指導もされている秀五郎さんのレッスン動画

      「いかとり唄」では三味線を胡弓に変えて

玉虫姫の故郷をたずねて

2024-09-05 20:24:10 | 歴史
 今日は所用で旧浜線を通ったので足を伸ばして御船町まで行ってみた。この町は若い頃、営業でよく訪れた懐かしい町。今回の目的は、平安時代末期、源平の屋島の戦いで源氏方の那須与一が射落とした扇を掲げた平家の官女・玉虫御前の故郷をたずねること。随分前から話には聞いていたが、現地を訪れたことは一度もない。
 地図で確認はしていたが若い頃に行っていた御船町とはすっかり様子が変わっていて位置関係がよくわからない。何しろ50年以上も前のことだから無理もない。やむなくまず御船郵便局を訪れた。窓口の若い局員が「私も地元じゃないのでわからない」というのですぐにあきらめ、御船警察署へ。窓口の署員が「玉虫寺ですかぁ?」と言って地図を引っ張り出した。地図を見てもよくわからないようで他の署員に声をかけて聞いている。すると外回りから帰ってきた(?)巡査さんがよく知っていて地図で教えてくれた。ただ「道が細いので途中から歩くことになるかもしれませんよ」と言う。3人がかりで対応してくれた署員の皆さんにお礼を言って現地に向かった。現地近くの集落まで行って、はたして車で入れるか確認したかったので誰かいないかなとゆっくり車を走らせていると、70代前後と思しき貫禄のある男性が自宅の庭で煙草をふかしているのが目に入った。すぐに車を停め門の前まで行って声をかけた。するとなんと元区長さんだそうでとにかく詳しい。こちらとしては車で入れるかどうかだけ確認できればと思っていたのだが、玉虫姫に関する話が止まらない。予想外の長話となった。とにかく道は狭いが車で入れることがわかり現地へ向かう。
 何度も写真で見たことのある風景が見えて来た。近くに車を停めるスペースもあり、じっくり見て回ることができた。玉虫御前が平家の菩提を弔うため建てたという玉虫寺は今はないが、そこに地区の公民館が建っている。周辺にはそこがかつて寺であったことを示す六地蔵や五輪塔、石の祠などが散在しており、裏には小さな御堂もある。
 そんな風景を眺めながら、僕がかつて在勤時に度々参拝した栃木県那須の那須温泉神社、那須与一ゆかりの神社のことを思い出し、千数百キロ離れたこの玉虫寺跡と物語が繋がっているという不思議な感動が湧いて来た。


屋島の戦い 扇の的の段


国道445号線を滝尾地区で右折し、御船川を渡る。


橋の名は「たまむしはし」


付近の地図


細い山道を登って行くと玉虫寺の跡「玉虫公民館」が見えてくる。


公民館の周辺には多くの遺物が散在

初萩とさおしか

2024-09-03 21:45:09 | 文芸
 先月中旬、味噌天神の福栄堂さんがかつて製造販売されていた銘菓「さおしか」の復刻版を作られたというので訪問して試食させていただいた。しかし、「さおしか」という商品名が他店で商標登録されているため、福栄堂さんは再販売に当たって「初萩」という商品名にしたいとおっしゃっていた。
 これは、万葉集の
  「わが岡にさをしか(小牡鹿)来鳴く初萩の花妻どひに来鳴くさをしか」
という「大伴旅人」が詠んだ歌にあるように「さおしか」と「萩の花」がまるで夫婦のように寄り添う様子から発想されたもの。

 万葉集の成立から約200年後に完成した清少納言の「枕草子」第六十七段「草の花は」の條に次のような一節がある。

   萩、いと色深う、枝たをやかに咲きたるが、朝露に濡れて、
   なよなよとひろごり伏したる。
   さを鹿のわきて立ち馴らすらむも、心ことなり。八重山吹。

 ここでも萩の花のそばに立つ「さおしか」が描かれている。清少納言はもちろん万葉集は読んでいたと思われるし、上記の「大伴旅人」の歌も知っていたであろう。というより萩の花と「さおしか」を対で詠むのは常套句のようなものだったのかもしれない。


藤田嗣治画伯旧居跡に咲く萩の花

令和の米騒動

2024-09-02 19:09:29 | ニュース
 二百十日も過ぎ、季節はこれから実りの秋に入って行くのだが、メディアでは「令和の米騒動」なる文字が踊っている。大都市圏を中心に「スーパーから米が消える」事態となり、全国的な米不足になっている。理由は昨年の猛暑や、地震の影響を受けての買いだめなどが原因だという。これはスーパーの種類によって状況は異なっているらしい。年間で定期的に数量を決めているスーパーでは比較的余裕があるようだが、その都度仕入れているスーパーでは米がなくなっているようだ。問題は品薄だけではない。米価が高騰しているのだ。今年に入って、米の価格は5キロ2,000円から3,000円に上がっているという。大阪府知事が備蓄米の放出を政府に要求したようだが、坂本農林大臣はこれに否定的。その理由として、市場価格に人為的な影響を与えること避けたいらしい。そんなことを言ったって既に米価は高騰しているわけでなんらかの手を打つのが当たり前と思うのだが。いったいいつまでこんな事態が続くのだろう。
 近くの田んぼを見に行った。昨年とほぼ変わらない生育状況だ。頭を垂れるまではもう少しだが、新米が市場に投入されるのが待ち遠しい。


成道寺川流域の田んぼ

米という字を 分析すればョ 八十八度の 手がかかる
 お米一粒 粗末にならぬ 米は我等の 親じゃもの

漱石の句いろいろ

2024-09-01 20:25:09 | 文芸
 京陵中学校前の漱石記念緑道を散歩していると漱石句碑がコスモスに覆われ、上の句しか読めない。毎年秋のお馴染みの風景だ。
 「すみれ程の小さき人に生れたし」
 

 この句はいろんな解釈がされているが、熊本に来て初めての正月を迎えた合羽町の家にいた頃詠んだといわれているので、正月の来訪者の煩わしさに懲りた漱石の心境が反映しているのかもしれない。「道端に人知れず咲くすみれのようにひっそりと生きたい」とでも思ったのだろうか。

 一方、熊本大学黒髪キャンパス(旧五高跡)に建立されている漱石句碑は対照的だ。
 「秋はふみ吾に天下の志」


 五高教授時代に詠んだ句で、「勉学に励み、志を高く持って、いずれは天下に名を成す気概を」という漱石先生から五高生へのエールなのだろう。

玉名女子高校吹奏楽部コンサート

2024-08-31 21:04:56 | 音楽芸能
 今日は午後から熊本県立劇場へ「玉名女子高校吹奏楽部コンサート」を見に行った。彼らの演奏をホールで聞くのは随分久しぶりのような気がする。思えば彼らの先輩の演奏を初めて見た時からちょうど50年経ち、今や全国的にトップレベルの吹奏楽部となった。演奏を聞きながら、その圧倒的な音楽性にひたっていた。
 今年も座奏、マーチングともに金賞を目指す季節がやって来た。今日のコンサートで演奏した「勇気の旗を掲げて」が全日本吹奏楽コンクールの課題曲、「カタリナの神秘の結婚」が自由曲になる予定らしい。結果はともあれ玉女らしい演奏をやってほしい。 

【第1部】
 ♪ コンサートの幕開けを演出で飾るPrologue Circus
 ♪ 行進曲「勇気の旗を掲げて」
 ♪ カタリナの神秘の結婚 2023年版
 ♪ UTA-HIME~美空ひばりメドレー~2021年版

【第2部】
 ♪ コンサートの幕開けを演出で飾るPrologue One
 ♪ ALADDIN
 ♪ America the Beautiful(マーチングメドレー)
 ♪ ふるさと
 ♪ かモン!くまモン!
 ♪ カーペンターズ・フォーエバー


   ▼2024年度熊本県高校総文祭パレードより

瀬戸坂とその周辺のはなし。

2024-08-30 17:51:38 | 熊本
 先日放送されたRKK熊本放送「水曜だけど土曜の番組」で「第1回KING OF ドウロ」というちょっとワケのわからない企画をやっていた。熊本県内の個性的な道路をピックアップして№1を決めようというものだが、6つ選ばれたうちの一つになぜか「瀬戸坂」が選ばれていた。坂の街である京町の中でもわが家から最も近く幼い頃から慣れ親しんだ坂である。僕も高校時代はこの坂を通学路としていたが、自転車通学の友人には難所だったという。番組ではこの約300㍍、傾斜角度9.6度の坂をノーギア自転車で一気に登り切れるか番組MCのローカルタレントまさやんがチャレンジし、なんとか成功した。


瀬戸坂

 その話はさておき、「瀬戸坂」、古い文書では「迫門坂」とも書かれているが、その名の由来は、坂を下りきったところに坪井川が流れており、川幅が狭まっていた、つまり「瀬戸(迫門)」があったのでその名が付いたという。昭和初期頃まで坪井川の舟運が盛んで、瀬戸は船着場として物流の要衝だったらしい。
 今日、地域住民の間では常識となっているが、この一帯(旧称 寺原田畑)はかつて海だったという。その証拠に周辺一帯には海に関係する地名がズラリと並ぶ。すなわち、「舟場」「津の浦」「打越」「永浦」等々。また、かつて打越では貝塚が発掘されたこともある。ところが、いったいいつ頃まで海だったのかというと、これがよくわからないのだ。有明海が内陸部まで入り込んだ時期というのは6千年も前の「縄文海進」や千年ほど前の「平安海進」などがあるが、6千年も前に、まるで和歌にでも出てきそうな美しい地名がつくとは到底思えない。ということは「平安海進」の時ということになるかというと、この一帯が海ということは今の熊本市は大部分が海に浸かっていたことになる。平安時代の熊本の歴史を調べてもそんな史料は見出せない。推測だが、おそらく、海が退いた後、低地が沼沢として残り、かつて海だった記憶が子々孫々まで伝わり、沼沢を海に見立てて地名をつけたのかもしれない。ちなみに寺原(てらばる)とはこの地に浄国寺(静国寺)があったことからこの名がついた。現在の浄国寺は北区高平2丁目にあるが、元は瀬戸坂から家鴨丁(あひるちょう)と呼ばれた小路に入ったところにあった。平清盛ゆかりの寺といわれ、寺号は清盛の法名である静海(浄海)に由来するという。浄国寺は近年、松本喜三郎作の生人形「谷汲観音」があることで有名になり、県内外からファンが訪れている。


秋の色種(あきのいろくさ)に言寄せて

2024-08-29 20:23:47 | 季節
 史上最強といわれ、各地で猛威をふるっている台風10号ですが、直撃を覚悟していたわが町では一時激しい雨は降ったものの暴風らしいものもなく、やや拍子抜けの感がありました。
 まずは被災された皆様へお見舞い申し上げるとともに、これからの台風進路にお住いの皆様のご安全を心よりお祈りいたします。

 まだ台風もいくつか来襲するとは思いますが、8月も終わりに近づき、いよいよ秋色濃い時季になっていくものと思われます。猛暑続きだった今年の夏。「夏バテ」の症状が出てくる頃かもしれません。皆さまどうかご自愛くださいますようお祈り申し上げます。



ここ見て! ~新町シャッターアート~

2024-08-28 11:11:12 | 熊本
 熊本中央郵便局(熊本市中央区新町2丁目)の前を通られる方はご覧になったことがあるかもしれない。道路を挟んで向かい側の博栄堂印房さんのシャッターには舞台の上の女性らしき絵と「清正舞わせり 出雲阿国」という文字が書かれている。しかし、シャッターが降りているのは営業終了後か休業日なので意外と見たことがないという方が多いようだ。これは新町のシャッターアート・プロジェクトの一つとして描かれたもので、江戸時代前期に書かれた加藤清正の伝記である「続撰清正記」の中に記された「塩屋町三丁目の武者溜りで八幡の国という女歌舞伎が興行をした」という故事に基づいたものである。この「八幡の国」なる女歌舞伎は後世の人々に「出雲阿国」と呼ばれたその人なのである。そして「続撰清正記」に書かれた「塩屋町三丁目の武者溜り」があった場所がまさにこの辺りなのである。


博栄堂印房さんとシャッターアート


シャッターの左側に描かれた「出雲阿国」


シャッターアートのもとになったと思われる「阿国歌舞伎図(一部)」


「続撰清正記」にはこう書かれている。
--八幡の國と云歌舞妓女肥後國へ下たる事
其頃八幡の國と云ややこを下し熊本の鹽屋町三町めの武者溜りにて勧進能をいたし其能の跡に歌舞妓をして家来の諸侍は銀子一枚宛出し桟敷を打て見物し地下町人は八木(米)を持来て鼠戸の前に市をなし押合々々見物したり・・・--

 この辺りは「船場柳御門」があった場所で、熊本城下の南東、船場橋から山崎町方面を監視する関所門で番所が置かれ、門の前には勢屯(せいだまり)があった。この勢屯に小屋掛けしてまず勧進能が行われ、その後に阿国歌舞伎が行われたという。