社民党 京都府連合 野崎靖仁 副主席語録
社会民主党 中央規律委員 野崎靖仁、55歳。
日々の思いを綴ります。
 



今日11月7日は、ロシア革命、
それも十月社会主義大革命の記念日です。

グレゴリオ暦では11月7日ですが、
当時ロシアで使われていたユリウス暦では10月25日なので、
「十月革命」と呼んでいます。

1917: The Russian October Revolution - 20th Century Almanac


第一次世界大戦中、ロシアで二月革命がおこり、
制限選挙による国会(ドゥーマ)を基礎とする臨時政府が発足し、
ロシアは帝国から共和国となりました。

ロシアの各都市で労働者と兵士によるソヴィエト(労兵協議会)が結成され、
臨時政府との「二重権力」状態になっていました。

ソヴィエトに影響力のあった社会革命党(エスエル)とメンシェヴィキが
戦争継続を支持していたため、ロシアは共和国になっても戦争を続けていました。

亡命先から帰国したボリシェヴィキのリーダー・レーニンは「四月テーゼ」を発表。

1)戦争の即時停止
2)臨時政府打倒
3)すべての権力をソヴィエトへ!

などを呼びかけ、党の方針として採用されました。

臨時政府はボリシェヴィキへの弾圧を強めるとともに、
社会革命党のケレンスキーを首相にして戦争を継続します。

臨時政府へのコルニーロフ将軍の反乱に対し、
ケレンスキー首相はボリシェヴィキの協力を要請。

ボリシェヴィキによってコルニーロフ将軍の反乱は鎮圧され、
ソヴィエトにおけるボリシェヴィキへの支持が広がりました。

首都ペトログラードのソヴィエトで多数派となったボリシェヴィキは
トロツキーを議長に選出。

トロツキーは反革命からの首都防衛を任務とする軍事革命委員会の議長として
武装蜂起の準備を進めます。

軍の部隊が次々とペトログラード・ソヴィエト支持を表明し、
軍の支持を失いつつあった臨時政府は
最後のあがきとしてボリシェヴィキの機関紙印刷所を占拠。

臨時政府の攻撃を「反革命」と断じた軍事革命員会は
ペトログラードの要所を制圧して臨時政府を倒し、
同時に開かれた第2回労働者・兵士代表ソビエト全国大会で
レーニンを議長とする人民委員会議が発足しました。

レーニンはドイツとの単独講和を締結して第一次世界大戦から離脱。
公約であった即時停戦を実行しました。

十月革命は共和国ロシアの主導権を争うものであり、
首都ペトログラードの軍事力で優勢にあったボリシェヴィキが
臨時政府の攻撃を契機に起こしたクーデターであると言っていいでしょう。

この辺はマラパルテの『クーデターの技術』で書かれていますね。

十月社会主義大革命の歴史的意義については、稿を改めて。

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