人生、消去法
世捨て人のつぶやき




私が師と仰ぐネット賢人、finalvent氏が超久しぶりにブログを更新された。


なんとその前の記事は1年以上前の2021/9/18である。



最新記事は献本された本を読んだことに始まる。



著者は高村友也さんという方で、東大の理系から哲学科(理科二類から文学部)に移り、慶応の大学院に進み、哲学を学んだ人のようである(Amazonの著者紹介による)。



その本は、「死の恐怖をめぐる哲学エッセイ」という副題が付けられていることからもわかるように、「死」についての哲学的思考をまとめたもののようだ。



おそらくこの著者は、finalvent氏なら「わかってくれる」と思ったのだろう。



そこはfinalvent氏も察して、「死の恐怖」についてこれまでブログに書いてきたことを思い返しておられる。



しかし、finalvent氏の反応は少しばかり芳しくない。



60歳を過ぎ、まだまだとはいえ老境の初めに足を踏み込んだfinalvent氏からすると、「若いなぁ」というのが率直な感想なのだろう。



この本では、「性」のことが避けられているらしく、そこにfinalvent氏は一段の深みからの考察を加える。



ここからは、私の話になる。



このブログの過去のエントリでも書いたが、私には「死の恐怖」というものがない。



全く「理解」できない。



それは、死の恐怖から哲学的問いに追い詰められる高村さんや、夢で死の恐怖を感じて絶叫して目覚めるというfinalvent氏に比べれば、幸運なことなのかもしれない。



しかし、である。



私の到達した答えは、むしろ、絶望的なものだった。



かんたんである。



「私は生きていない」ということなのだ。



生物学的には確かに生きてはいる。



しかし、「魂」の次元で「死んでいる」のである。



おそらく、この感覚を共有できる人は多くはない(が、少ないとも思わないが)。



私には、高村さんやfinalvent氏がその意味で少し羨ましい。



こんな言い方をしたら、お二人からは嫌われてしまうだろうが。



「確かに生きている」という実感があるからこそ、「死ぬ」ことが恐ろしく感じられるのである。



ここはもう理屈ではない。



確かに生きている人間には、死は生の対極として現れる。



逆に言えば、生きていない人間にとっては、死はどこまでも「手に入らないもの」なのだ。



私ももう四十八だ。



四十歳で初老と言われるのだから、私も立派に老境に差し掛かっていることになる。



しかし、未だにわからない。



「死」というものが。



私の死によって失われるものなど何もないようにしか感じられないからだ。



finalvent氏のブログ内容に戻ろう。



氏はそこで哲学者の中島義道について言及する。



中島が、師となる大森荘蔵の門を叩いたときのエピソードだ。



これは、私も中島の著書のどこかで読んだ記憶がある。



ここで、やはり私はスタート地点に立てていないのだなという絶望にとらわれる。



仕方がないといえば仕方がないのではあるが。



はてさて、私はいつになれば「生き始める」ことができるのだろうか。


 


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多くの人と自分が恋愛感情の「質」という点で、同じ経験を共有していないのではないかという疑念が昔からある。

恋愛感情の「質」とはなにか?

話は私の小学生時代に遡る。


たしか小学3年くらいのときだったと思う。
はじめて同級生の女の子にほのかな好意を抱いたのは。

ただ、それはとても不安定なもので、数ヶ月で別の子に気移りしてしまうようなものだった。

それが、しばらくして一人の女の子に落ち着く。
そこで私は、「好き」というのは「こういうものなのだ」と自覚した。

この時点で、私の初恋が定まったように見える。
しかし、そうはならなかった。
これは私の「初恋」ではない。



多くの人は、どうやらこの幼少期の「好意」というものから、スムーズに思春期以降の「恋愛」に移っていっているように私には見える。
それゆえ、幼少期の「好意」を「初恋」と把握している人が多そうなのだ。

しかし、私の場合、中学のときに激動が襲うことになる。


先日のエントリで触れた、亡くなった女性の登場である。


この女性、部活の後輩でひとつ年下である。
はじめはいきなり馴れ馴れしく話しかけてくるので、「なんだこいつ・・・」という感じであった。

この子はとにかく明るく人懐っこい子で、誰に対しても非常にフレンドリーだった。

私が登校してくると、校舎の窓から大きな声で私の名を呼んで手を振ってくれる(ま、私だけでなく他の人間についても同じように名前を呼び手をふるのだが)。
最初はどうということもなかったのだが、いつしかそれがめちゃくちゃ嬉しく感じるようになった。
もう、脳内麻薬がドバドバ出るのだ。
天にも昇る気持ちというのはこういうものなのだと生まれて初めて知った。
パァーッと頭の中がスパークするような鮮烈な体験である。

なんだ、これは。



で、これは恋愛感情だろうか、と自問する。
否。
なぜなら、小学生の時に好きだった「あの子」に対する気持ちとは「まったく違う」から。
気持ちの「強弱」の問題ではなく、「質的に」違うから。


このへんで普通の人には理解してもらえなくなるのではないか。


じっさい私は、中学在学中にこの子のことを恋愛対象として見ているとは自認できなかった。
こんな妹がいれば楽しいだろうな、くらいのものだと勘違いしていた。


私にとって「好き」というのは、小学生の時のアレであり、中学になってはじめて経験した強い衝撃的感情は名付けようのない不定形の「なにか」だった。
とはいえ、自問自答は続いた。
「好きなんじゃないか?」「いや、ちがう!」
その繰り返しだった。


おわかりいただけるだろうか?



その後、どうやって中学の時のほうが「本物」の恋愛感情だと気づくようになったか。

それは高校に行ってからのことである。
高2のとき、同じクラスに後ろ姿が中学の時のその子にそっくりな女の子がいたのだ。

似ている。
似ている。
似ているぞーーーーー!!!

そう思うと、なんとかしてその子に近づきたいという衝動に駆られるようになった。

で、ちょっとだけ話してみて気がついてしまったのだ。
「この子じゃない」(バーーーーーン!!!)

この時点で、ようやく私は中学時代のあの子の面影を追い求めていたことに気づいたのだった。


じゃあ、改めて、中学の時のその子(違う高校に行っていた)に連絡を取りたいかというと、そんな気持ちは湧いてこない。
不思議なもので、「あぁ、おれはあの子のことが好きだったんだ」という納得感とともに、なんとも名状しがたい、諦めとも絶望とも違う、何かしら近づいてはいけないような、妙な感情を持ったのだった。

じっさい、時の流れとともにその子は私の中で「聖化」され、価値のない自分のような人間が近づくことが許されない存在へとなっていた。



さらに時は流れて、大学入学後、電話でその子には連絡を取り、告白はした。
フラれた。
当然だ。
そして、わたしはなぜか「ごめん」と言って電話を切った。

フラれたのだから悲しくなってもいいものだが、なぜか清々しい気持ちになった。
終わったのだ、と。



惚れにくい質(たち)のわたしはその後長らく誰にも惚れなかった。
2つ目の恋がやってきたのは、大学院生になったときのことである。
ぜんぜん違うタイプの女の子だった。
いや、髪型は似ていたか。
ショートカット。



というわけで、私の初恋は小学生の時ではなく、中学の時である。

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一つ前のエントリで、初恋の女性の死について書いた。
なんとそれが、今年の初エントリである。縁起でもない。



で、ふと考えてみると、同年代の地元の人間で死人が出るのはこれで二人目だ。
一人目は、中学の同級生で生徒会長まで務めたやつが、リストラに会い、自ら命を絶ったというもの。
二人目が、前エントリの女性。ひとつ下。

ふたりとも充実した人生を送るだろうなというオーラのある人だった。
わからないものである。



今年で私は45になるのだが、情けないことに死というものがいまだに実感としてわからない。
いなくなる、ということはわかるのだが、「死」そのものを対象として捉えられないというかなんというか。

著名な哲学者などは、幼少時に、自分が死ぬ運命にあることに気づいて衝撃を受けていたりする。
翻って、私は何度も言うが今年で45だ。
わからんのだ。わからんのだよ。死というものが。い・ま・だ・に。



人の死、そして自らの死。



これだけ死というものについて鈍感なのだから、私には宗教というものも、いつまでたっても理解できないのだろうな。

やれやれ。

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私は今年44歳になった。
父は81歳になった。

ありがたいことに父は元気だ。

父は月に2,3回ゴルフに行く。
寒くなってきているというのに、今日も次のゴルフの打ち合わせを友人としている。



私の方はといえば、毎日代わり映えのしない毎日だ。
最近、ビタミンDのサプリを飲みだしてから、やや調子が良くなってきているのが救いだ。
2年以上に渡って苦しめられてきた慢性の下痢が治ってきた。
まぁ、プラセボ効果かもしれんが。



さて、父のゴルフに対しては、正直なところ複雑なものがある。
ほぼ一日、顔を合わさずに済むのでいい面もあるのだが、やはり、いい気なものだな、という感は拭えない。



父がゴルフを始めたのは比較的遅く、40歳を過ぎてからだったと思う。
まぁ、いまの私くらいのときにはゴルフをしていたわけだ。

翻って、いまの私にゴルフをする経済的、身体的、精神的余裕はない。
父と自分とのこの違いは何だ、という思いが首をもたげる。

もちろん、鬱を患っている無職の身なのだから仕方ないとはいえ、たとえ、鬱でなく、仕事を続けていたとしても、ゴルフになど縁はなかったであろう。



こんな私を見ていても、父は、自分がゴルフを楽しんでいるのに対して、息子が過去も現在も、そしてこの先の将来に渡っても、ゴルフになど縁がなさそうであることに対して、疑問を感じている様子はない。



私が中学・高校の頃、父に連れられてゴルフの打ちっぱなしに行くことが時々あった。
子供心に、いつかはコースに一緒に行こうと言われるのではないかという思いがあった。

しかし、現実には、私が鬱になる前の元気なときにすら、父は私をゴルフに誘うことはなかった。
自分のお古のゴルフ用品を譲ろうとすることもなかった。
そして、まず間違いなく、このまま私と一度もゴルフをプレーすることなく父は死ぬのだろう。



私には不思議でならない。
もし私が父の立場にあれば、自分がゴルフをするなら、一度くらいは息子とプレーしたいと思うのではないか?



私は2000年に就職した、いわゆるロスジェネ世代だ。
就職氷河期の一番のどん底のときである。

そのロスジェネ世代は、いまや40代になり、その多くが不安定な雇用に置かれたまま、貧困のうちに老年を迎えようとしている。
その親の世代の多くは60代から70代であり、恵まれた雇用環境のもと、家庭を持ち、年金も減ってきているとはいえ、健康で文化的な生活を送るには十分な額をもらいながら、豊かに暮らしている。
その豊かな親世代のおかげで、ロスジェネ世代はなんとか食いつなぎ、生き延びているとも言えるだろう。

私の父は、その世代の中では晩婚で、なおかつ結婚してから子供ができるまでに7年を要したことから、すでに80代なわけだが、状況としては何ら変わるところはない。
事実上、私は父の年金によって養われている。
44歳にもなって父の扶養家族に入れられている。
なんてこった。



さて、このような親子間の世代間格差について敏感なのは親世代だろうか、それとも、子供世代だろうか?



どうも世間的に見ても、親世代は子供たちの不遇をあまりにも低く見積もっているのではなかろうか。

努力すれば、我慢すれば、贅沢さえ言わなければ・・・。
それなりに生きてこれたのが親世代である。

それに比して、子供世代は、努力しても、我慢しても、贅沢も言っていないのに、ろくな目にあっていない。



特にひどいのが全共闘世代の団塊の人々である。
「もう経済成長はいらない」などと嘯いている連中が、くだらないデモに押しかけている。



斜陽であり、どん詰まりである。



もういい。
早く終わりにしてくれ。

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「母に感謝する」ということは、ふつうの人にとっては当然のことなのだろう。
しかし、私のようにかつて愛されなかった人間にとっては、それは虫酸が走る言葉なのである。

ところが、である。
今月に入ったあたりからだろうか、あれほど憎んできた母に対して、そして、母以外の祖父母やさらにその先祖について、漠然とだが、感謝の念のようなものを感じるようになってきた。
自分でも驚いている。

ついこの間までは、母はすでに亡くなっているにもかかわらず、「死ね!地獄に落ちろ!」と思っていたのに、いまは「仕方なかったんだね」「それなりに頑張ってくれたんだね」と思えるようになってきた。

両親を憎み始めて20数年。
あまりに長い道のりではあったが、憎しみと呪いの人生に終止符が打たれようとしているのかもしれない。

これには、父が高齢になって衰えてきたことも関係しているだろう。
父は元気にしてくれているが、最近少し食が細くなってきているような気がして心配だ。
なにせ、78歳である。
最近、私は不安発作のようなものを起こすようになってきた。
それは、父が遠からぬ将来、いなくなってしまうということに対する不安のような気がする。

亡くなった母も、あるいは心の底では私に対する愛情があったのかもしれない。
そんなかつては考えもできなかったことについて、最近はしみじみとした感慨を持つようになった。
時間の経過にともない自分自身がすでに、かつての私を愛していなかった親の年齢を超えたというのも大きいかもしれない。

なんにせよ、私は生まれて初めて「母に感謝する」ようになった。
それは寿ぐべきことである。

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先日、41歳になった。やれやれ。

しかし、今年はひとついつもの年と大きな違いがあった。
父が外食に連れ出してくれたのである。
私の誕生日に外食するなんて、生まれて初めてのことだ。
しかも、焼き肉。

子供の頃の誕生日の記憶といえば、気まずい、嫌な感じのものばかりだ。
祝ってもらったという記憶がない。

この歳になって、いまさら誕生日を祝って欲しいとは思ってなかったが、やはり実際には祝われると嬉しいものである。
できれば、これを私が子供のうちにしてほしかった。
そうすれば、今の私もまた違った状態になっていたであろうに…。
ま、そんなこと言っても詮ないのだが。

父も先日、78歳の誕生日を迎えた。
高齢の父に、車を運転してもらって、焼肉屋に行く41歳のうつ病で無職の息子…。
情けなさすぎる…。

早く元気になりたいなぁ。

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私には死の恐怖がない。
いや、正確にはあるのだろうが、意識できない。

実際、死に直面するような危機に陥れば、生物的な危機感は持つと思うのだが、特段死に直面していない日常の中で、叫びだしたくなるような恐怖というのは感じられない(そんな私に対して、私淑するfinalvent氏はひじょうに大きな死の恐怖を抱えている)。
一種の防衛反応だとも解釈できるのだが、他の人々をみるにつけ、なにやら自分が不完全な不具者のようにも思える。

死の恐怖などないに越したことはないではないかと、まぁ、幸運なことと捉えることもできるのだが、哲学・思想系をかじるとなかなかそうとも言っていられなくなるから困ったものだ。

死が怖いという人はかなり早い時期にその恐怖を覚えるらしい。
だいたい物心がつく頃に、自分が死ぬということに気づいて、得も言われぬ恐怖を感じるようだ。
直接話を聞いた人も数人いる。

自分を振り返ると、そんなことはこれっぽっちも考えないアホな子どもだったようにも思うが、いくらなんでもこの年になっても良くわからんままとは正直、別の意味で恐怖を感じる。
私はやはり生きていないのではないか?
いや、生物学的には現に生きているのだが、人間としてというか、魂がというか、とにかく根源的な死の恐怖を感じる心の部分が「壊死」してしまっているのではないかという、(ある意味メタ的な)絶望をあらためて感じないわけにはいかない。

だいたい、中高生くらいの時に、それまでの子どもだった私は「死んだ」という感覚が確かにあった。
これ自体は、おそらく他の人もそうなのではないかと当時から思っているのだが、しかしそのあと新しい自分が生まれたという感じは、ついに訪れないままに終わった。

古い私は死んで、新しい私は生まれなかった。

では、今ここにいる私は一体何者なのだろうか?
生ける屍。たしかにそうだ。
しかし、生ける屍とすら呼べないレベルなのではないかという危惧は拭えない。

無。虚無だ。

私には死よりもむしろ、この無への恐怖のほうがリアルな気がする。
無は死によっても断ち切れない。
むしろ無と死は親和性がある。
死んでもこの虚無が終わらないのではないかという危惧のほうが絶対的ではないか?

いや、こんな考えは観念的な、たわいもないお遊びなのかもしれない。
近代化の途上にある社会に生まれた、日本でいえば明治期にあったような、自我の怯えのようなものかもしれない。
なんでそれがいまさら、とは思うが。

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もうこの20年くらいにわたって不況が続いている。
それと並行するかのように、ニートとかの問題が大きくなってきている。

自分はいま無職で、年もとっているのでニートにすらなれない身分なのだが
そもそも、「働く」ということがどれほどのものか、という点で
仕方がない面もあるのではないか、と思うようになった。

それはつまりこういうことである。

子どもが親の姿を見て育つというのはある程度真実だろう。
もちろん、子どもが起きている時間以外で(水商売とか)働いているがゆえに
子供にその姿が見えにくいということはあるだろうけれども。

しかし、大枠として、親の生きる姿は子どもの手本になる。
というか、子どもはそれを手本にせざるを得ない。

翻って、自分の人生を省みてみる。
正直に言って、自らの親の姿を見て、この程度働いておけばなんとか生きて行くことだけは出来るのだろう、そう私は考えていた。

そして、できるだけ欲を持たず、倹約しさえすれば、最低限の生活(つまり食)はまかなえるだろうと考えていた。

大学を出るときも、プライドも何もかも捨てて、「最低限」生きていけるだけの状態になろうと心に誓っていた。
そのためには、背に腹は代えられぬとばかり、どんなに意地汚いことでも、それが世の中というものだと考えようとしてきた。

しかし、その結末がこの有様である。

そして、今になって思うのだ。
父も母もあれでどうやって暮らしていられたのであろうか?と。

もちろん、特別両親ともに箍が外れたようなところはないし、真面目に生活を営んでいたことは確かだ。
しかし、同じようにしている(もちろんそれは、私がそう思っているに過ぎないのだが)にもかかわらず、いっこうに、というか、むしろ状況は悪化の一途をたどっているのである。

今日は通院の日で、いつものように受診したのだが、このまま働けないのであれば、障害者年金という手もある医師に言われた。
実際には、現在、失業手当を受給しており、求職活動もしているのでそうはいかない。
そもそも、そこまでして生きていたいとは思われない。

わたしの感情の基本には、「できるだけ他人の世話にはなりたくない」というものがある。
もちろん、じゃあ、自殺できるかと言われれば、そこまでのエネルギーはないとも言える。
そして困ったことに、それは死ぬことが怖いことなのだからではない。
生きていたいとも思わない。むしろ、生まれなかったことにしてほしい、それが本音ということになる。
取り消して欲しいのだ。私という存在を。
これまでに生きてしまったその歴史も全て含めた形で。

なかなかこの感覚は常人には理解出来ないことであろう。

そして、ここから望める方向性としては、そう「生きてしまった」生を引き受けるということであろう。
ここからして困難を極めるのだが・・・。
そしてさらには、それを引き受けた上で、さらに生きるという選択を出来るかどうかというところが問題になる。

非常にメタ的な苦悩であると思う。
つくづく情けないことだと思わざるをえない。
かつての聖人たちの苦悩もこのようなメタ的なものだったのであろうか?

近頃、法然・親鸞といった鎌倉仏教の入門書をつらつらと眺めているのだが、どうも感触が違う。
生きるということへの違和感がそこにはあまり感じられないのだ。

同じことはキリスト教にも言える。
数年前から聖書や解説書の類をいろいろと閲しているのだが
どうもどれも腑に落ちない。

根本には、「生きたい」という情熱のようなものが存在しているように思えるのだ。
しかし、わたしには、その情熱がそもそも「わからない」。

これは一体どうしたことか。

仏教側に即して言えば、おそらくはこういうことになろう。
基本的に日本の仏教の系統においては、生きていけるという最低限のラインが保たれて初めて、「生きる意味」というある種の宗教的であり、メタ的な次元が現れるのではなかろうか。

さらにさかのぼって考えるならば、その「生きたい」という情熱と、「生きたくない」(もしくは「生まれたくなかった」)という否定的感情との間には、越えがたい間隙があるのではないだろうか。

これまでの救済を旨とする宗教各派において、基本的な「生」を肯定する要素というのは避けがたいもののように思われる。もちろん、それはそれで悪いことなのではないだろう。
しかし、対して、いわゆる仏教における「悟り」を旨とするような場合には、こういった「生」に対する執着をこそ根絶しようとしたのではなかろうか?

やや長くなってので今回はこのへんで終わりにする。

すっきりしない・・・

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学生時代に読んだが、やっぱいいわ。

人間嫌いについて。
人間嫌いとは、次のような人種である。すなわち、彼には自分と異質なものを受容する適性が病的に欠如しており、したがって他人の存在それ自体によって傷つきやすく、日々自分が傷つかないように全精力を傾けるのであるが、結局自分が傷つかずに生きていくためには他人を傷つけるほかはないという残酷な構造を洞察した人である。(中略)彼には自分が傷つかないために他人を傷つけることもまた耐え難い。なぜなら、それは結局そうしている自分に対する自己嫌悪感を通じて自分を傷つけ続けることになるから。そこで、彼は他人一般から手を引くのである。他人から手を引けば、同時に他人との関わりにおける自分からも離脱できる。
 すなわち、人間嫌いとは自覚的には他人が嫌いであるように自分が嫌いな人である。しかし、無自覚のその底では、自分が嫌いであるように他人が嫌いな人なのである。われわれは、人間嫌いに対しては余裕をもって対することができる。憐れみと同情をもって眺めることができる。なぜなら、彼はマイナスのナルシスだからであり、自分という全速力で回転する輪の中で眩暈を起こしているにすぎないからである。(P.18-19)

ま、いくぶん人間嫌いを美化し過ぎの感はあるが、つらい毎日のなかではこのくらい言ってもらって慰めてもらってもバチは当たらんだろう(笑)


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遅読の私が、これだけ早く読めるのは、やはり私のなかにこういうポジティブさを求める気持ちがたまっていたせいもあるだろう。
いろいろくさしてくる人もいるみたいだが(池田信夫氏とか。基本的のこの人の書くものも好きなんですがね)、私の世代にとってはほとんど唯一といっていいくらいのポジティブな気持ちを喚起してくれる人である。

「私たちはたしかにさまざまな厳しい現実に直面しているけれど、聞けば読めば心が萎える言葉ばかりをシャワーのように浴びれば、せっかく生まれかけた意欲もすぐにしぼみ、未来を創造するエネルギーは生まれず、結果として厳しい現実は改善されない。」(P.242)

いや、まったく。
「結果として厳しい現実は改善されない」
ここ重要。

そして必要なことは、
「自発的で能動的な「新しい強さ」を身にまとわなければならない。」(P.243)
ということ。

なかなか私のような社会不適応かつ何事につけて悲観的な人間には難しいことだが、なんとか取り組んでみたいと思う。
(ていうか、そうしないと生きていけないんだが)

梅田さん、自覚されているでしょうが、まさにわれわれ世代にとってはあなたが「ロールモデル」となっています。
まったくITとは関係なく、プログラミングもできず、ブログの更新頻度も低く、書く内容と言えば、後ろ向きなことばかり、というこの私のような人間でさえ、あなたの著書を読んでいます。
それは、悪く言えば、「すがっている」のかもしれませんが。

これからも明るいビジョンと刺激を与えてください。名もなき一読者としてのお願いです。

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人間というものの性質、いや本質は
様々な形で表現されてきている。

曰く、
言葉を話す
火を使う
道具を作る
理性を持つ
...etc.

さて、今日ふと思いついたことで
おそらく、とっくの昔に言われていることであろうが
上記のリストにもうひとつ付け加えようと思う。

それは、
誇りのために生きる(逆に言えば、誇りのために死ねる)存在だということ

それが吉と出るか凶と出るか、それは神のみぞ知る、か。

それにしても、生きにくいものだ。今という時代は。

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前々回の内容(参照)について、ちょっとまたいろいろ考えてたら、やっぱり違うか、とか思い始めたのでとりあえずメモ代わりに。

で、何が違うかというと、先天的な盲目と自閉的な精神構造を類比的に見ていたわけだが、これ、やっぱ別物じゃん、というだけのことで、ま、だからそのエントリを読んだ人は「こいつバカだね」なんて思われてたやもしれんが、ま、そういうこと。

先天的な盲目は、ひとつの「感覚」の不全であるのに対して、「他者認識の不全=自閉的傾向」はひとつの感覚の不全をさすのではない。であるからして、ある感覚がその感覚器官の不全や、もしくはその感覚器官からの刺激を受け取る脳領域の不全というものに起因するものなのであれば、当然ながらそれは認識を構成する要素としての基本的な感覚の不全、と呼ぶことができようが、「他者認識」というものの不全は、ひとつの感覚に還元できるものではないので、そもそもまったくの別物であると言えよう。

じゃあ、「他者認識」ってなんなのさ、となるわけだが、考えてみるに目が見える人も見えない人も「他者」というものを認識している(少なくとも外から見る限りは両者に差が認められない程度において)。耳が聞こえなければ、しゃべれなければ、さらに寝たきりならどうだろうか?おそらく個々の感覚については、それだけで他者認識を不可能にするようなものはないのだろう。

その一方で、自閉症をその極とする一連の「他者認識不全」というものが厳然として存在する。明らかな自閉症はもとより、アスペルガー症候群やいわゆる自閉症スペクトラムに属するタイプ、そして人格障害概念に措ける「シゾイド型」。これらの症状には、特定の感覚不全というものは指摘されておらず、むしろ脳の気質的な失調、あるいは後天的な原因(生育段階における適切な刺激の不在等)がおそらくその原因ではないかといわれている。

日本における自閉症発生率はおよそ1000人に1、2人といわれているが(参照(Wiki))・・・

とWikiの解説を読んでいくと、なんか自閉症と統合失調症(シゾイド型がその特徴を持つというその親元みたいな病気)はまったくの別物だと・・・。ありゃ、ここでもまたアッシの勘違いですかい・・・

だめだな、思いつきだけじゃ。

もう少し頭を冷やして、じっくり考え直したほうが良さそうだ。

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引き続き『火星の人類学者』(オリヴァー・サックス)を読んでいる。
同時になぜか今頃、世界の名著の『ロック、ヒューム』を引っ張り出してきて
(買っただけで読んでなかったのだが)
少しずつ『人間知性論』(ロック)を読み始めた。
で、モリヌークス問題というのが出てきた。
懐かしい。
大学の頃にちょっと授業で出てきてたよな、これ、と。

そうこうするうちに『火星の人類学者』の自閉症者の話や
脳に障害を負ってしまった人の話に戻って
わたしはそもそも「不可能なこと」をずっとやろうとしてきたのかもしれないとふと思った。

わたしは「他者」とは何か、ということが分からなかった。
学生時代にはメルロ=ポンティの『知覚の現象学』の他者論の部分にまったく歯が立たず、
自らの頭の悪さがイヤになったものだが
何のことはない、結局わたしは文字で書かれた他者というものについての記述を何度読んだところで
それが説明しているところのものが、ほんとうにそうかどうかを確かめるための「参照」するものを持っていなかったから、理解することができなかっただけなのではないか。
つまり、先天的に盲目の人がいくら点字で書かれた「視覚についての(すぐれた)記述」を読み込んだところで、「見える」ということの本質は理解できないであろうというのと同じなのではないか。

この考え方は、わたしの頭の悪さを指摘せずに済むのでその点はありがたいのだが(笑)、同時にわたしの中で最大の問題である「他者」というのもが、詰まるところわたしには決して理解できない類のものであり、わたしが「他者」について語るということは、まさにわたしの中での「欠如」を語るという仕方でしかなされ得ず、「他者そのもの」には辿り着けないということになり、これは私にとってひとつの絶望である。
ヴィトゲンシュタインに倣えば、わたしは沈黙しなければならないのだろう。いや、違うかな・・・。語り得ぬものではなくて、「知り得ぬもの」だから。

私は孤独だ。
それは、現実的に親しい友人がいないとか、家族がいないとか、そういう問題ではない。
そうではなくて、周りにこれだけの人が溢れていても、わたしはその「他者」にはまったく「出会えない」という意味で、である。
もし、それが自閉症や脳の障害に類する、「個人ではどうしようもない」ものであれば、わたしは潔く諦めるしかない。
いくら本を読んだところで、わたしは「他者」に出会えはしないのだから。

「個人ではどうしようもないもの」を「引き受ける」ということ。
これは生易しいことじゃない。
たぶん人間にはできっこない種類の事柄なのだろう。
それをなんとかするために人間が案出したフィクションが宗教というものなのだろう。
その意味でいえば、「死」という誰もが避けることのできないものを宗教が何よりも中心的に扱うのは当然のことなのかもしれない。
「死」という誰もが避けることのできない「個人ではどうしようもないもの」を「引き受ける」ということ。

その意味で、わたしの絶望に普遍性はない。
当たり前だ。「他者認識の欠如」と「死」、これではレベルが違いすぎる。
しかし、失うべきものがそもそも与えられていないということは何を意味するのか?
いや、何も意味しはしない。ただ、そうだ、というだけのことだ。
しかし、わたしは無意識のうちにそこに意味を探してしまう。
その無意味さを意識が分かっているからこそ、わたしは自らが「生きる」ということに深い絶望を感じる。
メタな絶望だが。

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このところ自分が死ぬということについて生理的な、恐怖とまでは行かないのだがある種の悲哀のようなものを意識するようになった。こんなことを言うと、おそらくは大部分の人たちが「そりゃあ死ぬのは怖いに決まってるじゃないですか」と言ってきそうだが、私にとっては「死ぬのは怖い」というのは全く自明なことではなかった。

どういうことか?

私はこれまで自分の死というものを明確に想像することがどうしてもできなかった。できないのだから仕方がない。大学時代の先輩で「小学校の頃に自分が死ぬということを考えて、こわくてこわくて不安になって、そこから哲学に興味を持った」という人がいた。当時、私も哲学に興味を持っていたのだが、どうも興味の持ち方が違うな、と感じたのを覚えている。しかもその人は小学生で死を意識している。私は(当時)20年ほども生きていて、死ぬということが全くと言っていいほどわからなかった。なんだか、負けてるような気がしたものだ(そして実際、人生の進み行きにおいて今頃死を意識して悲哀を感じるようになっているわけであるから、負けは確定しているのかもしれんが)。

他にも年配の方で「死について」考えている人はいたし、(やめときゃいいのに)ちょっと手を出してみた哲学の世界でも、ハイデガーなんかは死の恐怖から逃れるために人は気晴らしを求め、頽落した生活をおくるとか言っていて、正直「なんか俺にはよーわからん」と思っていた(なので『存在と時間』は読めなかった)。
(他にも今生きてる日本人でいえば、中島義道とか永井均も子どもの頃に自分が死ぬことが納得できなかったとか言っていて、あぁこの人たちもそうなんだ、俺とは違うんだなぁ・・・と思った)

では、私は死ぬのが怖くなかったのか?もちろん、死ぬ際に苦しむのはイヤである。しかし、「死そのものが怖いか?」と言われるとうまくその事態(死)を想像できないので、怖いとも怖くないとも言えなくなる。めちゃくちゃ痛いとか、めちゃくちゃ苦しいというのは怖いような気がするが、その先については・・・。

そこで私は自分の実感しているものについてできるだけうまく言い表す方法はないものかと探してみた。大学2、3年の頃だったと思う。

私が到達したひとつの答えは簡単なものだった。
要するに、私は「生きていない」のである。生きていないから、死ぬことはありえない。確かに、私は物理的にというか生物的にというか、とりあえず一般的な意味においては「生きて」いる。しかし、その内実は「生きていない」のだ。これが私の当時の結論だった。

ありきたりな言い方を使えば「生ける屍」状態、なのである。しかし、厳密に言うと、このフレーズ(「生ける屍」)はしっくり来ない。というのも、「生きながら死んでいる」という二重の意味を表しているように見えるからだ(実際そうなのだから文句を言っても仕方ないのだが・・・)。より厳密には、私は「まだ生きていない」のである。「まだ生き始めていない」と言ってもよい。死ぬためにはまず生きていなくてはならない。しかし、私は「まだ生きていない」状態だったのだ。生きていないのに「死」についてなぞ何程のことがわかるものか。

いわゆる精神的なダイナミクスというものが私のなかには欠けていた。いや、欠けていたというよりは、私にも当然「生き生き」としたエネルギーはあったのだが、それが主体としての<私>に統合できていなかったのではないか、というのが無理矢理付けたその説明である。<私>から分離してしまった「生き生き」とした力は、特に思春期以降の「自分のなかのわけのわからないもの」の正体だったのだろうと思う。その分離してしまった「生き生き」とした力は、その後も長きにわたり私(<私>ではないので注意)のなかに居座り続けた。この事態が、私が哲学や心理学に興味を持つことを持続してきた原因であろう。

そして今や私は31歳である。来年は32だ。当たり前だが。30を超えてからは急に体力の衰えを感じるようになったし(明らかに身体の代謝が落ちたと感じるし、太るし、いろんなところに白髪が生えて、あぁもういやだ・・・とか)、特にここ2年くらいでいろいろと身辺に変化があったこともあり、精神的にも影響があったのだろう。なんか漠然とではあるがようやく自分を受け入れるようになってきたような気がしていて、それがつまり「生き始めた」ことになるのではないか、と考えている。

「自分を受け入れるようになった」と書いたが、これも一筋縄ではなく、簡単に説明できないが、ぶっちゃけてしまえば親から与えられた否定的自己イメージのせいでずっと苦しんできたということについての怒り・恨みを、想像的に親に対して復讐することによってそのエネルギーを発散し、その結果として自己の統合性が少しマシになったということではないかと考えている。ま、年とってそれまでの「生き生き」とした力が衰えたってのも多分にあるだろうとは思うが。

そんなこんなで(なんだかな)、齢31にしてようやく「生き始めた」ということなんだろう。それと同時に「死」が私のものとなった。そして私は「死」を少しずつ、恐れるようになってきている。

漠然と、親ももうじき死んでいき、私もまた死んでいくのだな、と思う。そのとき、これまた漠然とした寂寥感にとらわれる。親が死ぬのが悲しいのではない。同様に私が死ぬのが悲しいのではない。無常感というやつであろうか。しかし、ただむなしい、というのではない。そこには幾ばくかの「手応え」がある。それは、これまでに私が持っていなかったものが、いまや「失われ行くもの」として実感されている、ということ、今までは手にしていなかったがゆえに「失う」こともできなかったものがようやく「失い得るもの」となったということ。逆説的ではあるが、「失うことができる」ということはなんとかかけがえのないものか。

そこには悲哀がある。手に入れた瞬間から、それは失われることを運命づけられているがゆえに。生きるということはすなわち死ぬことを運命づけられているのだということ。なんだかこんな、もう世間で何度も言われ続けていたことをこの年になってようやく理解し始めたというのは、何というか滑稽でもあるわけだが、ま、そういうことなんだろうと思う。

この悲哀には、何かしらプラスの要素があるように感じる。それが「悲哀と生きる意思」と表題につけた理由である。今までの私は「生きて」いなかったがゆえにこういった悲哀を感じることもなかった。そして今や私はこうやって悲哀を感じるようになった。この悲哀は「生きているが故」のものである。その悲哀の陰には「生きる意思」のようなものが潜んでいる。それは私の意思ではない。しかし、確かに<私>を生かしているものだ(ここに私は宗教性というものを理解する糸口があるように感じる)。そして同時にそれは<私>をいつか死なせるものでもある。それなくしては<私>は生きることができず、それがあるが故に<私>は死に至らしめられる、その「何か」。

私はようやく生き始めたと同時に死に向かって歩き始めた。そこには悲哀があり、私を深いところから死の恐怖が浸食し始めている。しかし、私には来るべき場所にようやく辿り着いたという感慨がある。見晴らしのよい高台に立った気分である。道は見えた。その道は死に向かって一直線に伸びている。他に道はない。しかし、この道は他の誰でもないこの<私>にしか歩くことのできない道でもある。私に「この道を歩いていこう」という意思が静かに芽生え始めている。そして、「この道」が私の目の前にあることについて、「有り難い」と思う。この「有り難い」は、ある種の畏怖と畏敬の念を伴った感謝のような気持ちと、文字通りの「有り-難い」である。有り得ないものが今私の目の前にあるという驚き、そしてそのことの希少さ(ただひとつしかない!)を実感している、そんな気持ち。

世界でただひとつの私の「死への道」。この<私>だけが歩くことのできる道。誰がこんなものを用意してくれたのか知らないが、慎んで歩かせていただこうと思う。

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数日前、火葬場で心中したと見られる老夫婦の遺体が発見された。(東京新聞)
このニュースはご覧になった方も多いかと思う。
どちらも80代、妻は糖尿病かつ認知症(痴呆症)であった。詳しくはリンク先をご覧頂きたいが、お勧めはしない。何とも言えない読後感を残すからだ。

こんなニュースに対してふざけたタイトルだと思われるかもしれない。不愉快に感じられて当然だとも思う。しかし、なんということか私にはこの夫婦、より厳密には夫に対して、何か憧憬の念のようなものが沸き上がってくるのだ。もちろん、単純に憧れるなどというものではない。無理心中であり、妻を殺したわけであり、自らをもまた殺したのだ(しかも、こんなやり方で・・・)。そんなところに狂った「美学」を感じているわけではない。

彼らは子どももなく、ふたりともあまり近所付き合いを好まなかったようだ。若い頃から一緒に買い物に出掛ける姿が見かけられ、老いてからも病身の妻を介護する夫の姿を周辺住民が目にしている。これだけ見れば、理想の夫婦と言えなくもない。

詳しいことはわからない。しかし、
「食事の支度や洗濯はご主人が一人でやっていた。見かねた周囲の人が『食事の配達など、ほかのサービスも受けたら楽になりますよ』と何度も勧めたが、『妻の面倒は自分で見る。これ以上は必要ない』と頑(かたく)なに拒んだ」
とあるように、何か夫婦ふたりだけで閉じてしまっている印象を受ける。そして実際、最期までふたりは他者の介在を拒否し続けた。あまりにも強すぎる愛情のためだったか、それとも何か他の事情があったのか、たかだかネットのニュース記事からだけでは確かなことなど言えるわけがない。ということを承知で、まぁ、トンデモなわけだが、勝手に想像してしまったということで、以下の文章は適当に各自の偏光グラスを掛けて見てくださいな。

このふたりはともに「シゾイド型」だった可能性が高いのではないか。お互いに唯一と言ってもいいほど、互いの距離の取り方や接する時のイロハに共通点を見いだし、いわゆる「愛する」というのとは若干ずれるかもだが、強くお互いを信頼し合っていたのではないか。互いの距離を大切に、そして世間との距離もふたりで協力して(記事だけからなら夫が妻を守っているような印象だが)ある種の「壁」を作り、自分たちの「それぞれの世界」(「ふたりの世界」ではない)を守りながらここまで生きてきたのではないか。子どもも意図的に作らなかった可能性もある。子どもという存在が入ってくることを恐れたという可能性もあるし、さらにトンデモだと思われるだろうが肉体関係を持っていなかった可能性もあると思う。持ったとしても数回だけとか、周囲から子どものことをうるさく言われ仕方なしに数回だけ、みたいな。ま、いい。

で、この話のどこに私は魅かれているのか。おそらく夫は妻を愛していたのだろうという気がしている。それもかなり強く。しかし、妻はどうだったかはわからない。上にも書いたようにふたりの<間>にあったのは「愛情」ではなくて「信頼」だったような気がする。その上で、”夫には”妻への愛情があったのではないか、と思う。「自分が守る、自分がなんとかする」そんな類の自分勝手なものかもしれないが、ひとが一生に一度くらいしか思い込めない(であろう)そんな思いを最後まで生き切ったということにある種の感動を覚えるのがまずひとつ。そして、この世代であれば比較的早くに恋愛云々抜きで結婚している可能性が高いわけだが、それにもかかわらず、まさにふたりがきっちりと互いに結びついて、この年になるまでまさにふたりのそれぞれの世界を守りながら生き切ったということに、驚きと、複雑だが哀しみと憧憬の念のようなものが入り混じった、えも言われぬ気持ちになる、というのがもう一方にある。それは一つの奇蹟ではなかったか?

ここまで書いて、タイトルは「夫の方だけ幸せだった」の間違いなのではないか、という意見もあろう。もちろんその可能性も十分ある。何しろ妻は、夫に生きたまま一緒にとはいえ焼き殺されたわけだから。しかし、究極的には世間にかかわりたくないという欲求は妻の方が強かったのではないか。夫にしか何かしてもらおうとは思わないし、かかわってくる時の「作法」をわきまえている人間はいない。その夫も体調がすぐれずいつなんどきという状態になった時、妻は見も知らぬ他人の手に世話されることを望むだろうか。ずかずかと他人が自分の領域に侵入してくるくらいなら死んでしまった方がマシだというのではないか。というのも、妻が何も抵抗しなかったというのが引っかかるのだ。認知症が重度であったから、抵抗しなかったのだろうか?普通、いわゆる痴ほう状態になるときひとはその人の素の状態、いわば子ども返りしたような反応を示すものだが、それがかの妻にも当てはまるとしたら・・・?
これはシゾイドでないひとには理解不能かもしれない。彼らがシゾイドでなければ当然今の私の推論はすってんころりとこけまくりな話ということになる。ま、そんなものだ。

シゾイド型の人間にとってパートナーは非常に得難いものである。近づくと傷つき、離れても傷つく。本人にとってさえ他人との距離の取り方というのは鬼門と言っていい。そこで、ちょうど互いをシゾイド的にいたわり合い、且つそこに片方にだけと言えども愛情が存在したのだとしたら、これは一つの奇蹟だと思う。「お前だけだよ。んなこと言ってんのは」とか言われそうだが、それは普通のシゾイドではない人のいい分であろうと思う。私は私の経験からだけしか言えないのでひょっとするとそこらじゅうにそんな「奇蹟」は溢れているかも、というのはあるが・・・。

あとは記事にちょっと茶々を入れとく。
発見当時、車は大音量でクラシック音楽を流したままだった。「だれかに発見してもらえるよう配慮したのではないか」と、捜査関係者は受け止めている。

それはないべ?誰にも世話にならず最後の演出まで自分たち(ま、ここでは夫だが)でやり遂げたのだ。ただ、それがセレモニーのあともずっと鳴り続けたに過ぎない・・・。だいたい車がガス欠になれば自然に停止する。「見つけてほしい」などとはおそらくこれっぽっちも思っていなかっただろう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

なんかうまくまとまらないのでこの辺にする。

書き始める前に感じていたのは、この夫には愛するひと(妻)がいた(そのひとからも少なくとも信頼は勝ち得て適切な距離をとって生活してきた)ということ。
それに比して、私は愛してくれようとしたひとびと((問題が多々あったにせよ)両親、数人の(奇特なと言っては失礼か・・・)こころ優しい女性たち)がいたにもかかわらず、その手をはねのけて傷つけ、いまはほんとうに「ひとり」である、ということ。

彼は愛した。
私は誰も愛さなかった。
人生におけるこの差はあまりにも重い。

久しぶりに感傷的になった。
仕事の帰り、駅から自宅までの道を歩きながら
この事件のことをふと考え、上記のようなことを思った。

もう暗くなったなか
空を仰いで思った。

私は、寂しい。
寂しくて、そしてとても悲しいと。



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