3週間ほど前に読了した文庫版『海辺のカフカ』ですが
なんというか、いままでの村上春樹の長編小説の集大成的なものなのかな、と。
で、相変わらずと言うか
性は重要な役割を担っている。
どの著書だったか忘れたが、文筆家(?)の勢古浩爾氏は
これを評して「まだやってんのか」と批判していたが
私としては、この村上春樹の小説に出てくる
性を媒介とした身体性の表現はとても重要で
これなしでは彼の小説は成り立たないもののように思う。
(一応瀬古さんのファンなんですがね。ここだけはちょっと)
どういうことかというと
村上春樹の小説に出てくる人は
ほとんどみな他人との関係性が切れているような印象がある。
村上春樹自身が「デタッチメント」ということばで表現しているように
それは精神的に他人や世界とのつながりを失ってしまっているような状態なわけです。
で、村上春樹の小説はこの状態が何がしかの形で緩和されるという
(彼特有の「神話的」と言ってもいいような)
一連のプロセスを主題として作られているように思うのです。
そこで求められるのは、他人、あるいは世界との結びつきであり
世界から「デタッチ」してしまった主人公達を
もう一度世界に結びつける、その役割を「性」が担っているのです。
よく出てくるのは、主人公の意志に反して「勃起する」という場面です。
ただこれだけならば、いわゆる「下半身は別人格」というような(笑)
くだらない親父の無駄話に堕してしまいそうなわけですが
村上春樹の小説の場合、それは最後に残されたたったひとつの世界への碇のようなのです。
つまり、それがなければもう主人公はこの世から浮き上がってしまい
そもそもそこに「物語」が成立しなくなるのです。
「物語」が成立しなくなるとは、つまり、「死」です。
少し(いや、かなり?)飛躍してしまいますが
私たちが「生きる」ということには
その都度の「物語」を紡いでいくという部分があります。
その意味で、村上春樹の小説世界で、主人公が生きるためには
「性」という根源的な身体性を抜きにしては成立しないのではないでしょうか?
(また、続けます)
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