人生、消去法
世捨て人のつぶやき




わたくしは仕事です。
いえ、別に僻んで無理矢理出社してんじゃないですよ・・・
そういう会社なんです。
もう祝日なんてみんな分からなくなってて
おたがい苦笑い・・・

そうは言っても周りはまともな人ばかりですから(笑)
万博行ったり、海外行ったり、そういう計画の話がちらほら。

わたくしはって?
そりゃあ、あんさん、訊くのも無粋ってもんだよ。
やりたいこともなければ、いきたいとこもない。

静かに、そっとしておいてもらえれば
それだけで、ぼくは幸せだよ・・・(遠い眼)

って、なにやってんだか・・・

やれやれ。

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いい天気ですが、花粉症なので出歩く気分にはなれません・・・
ようやく峠を越したかな、と思っていたのに
またぶり返し中・・・

いつまで続くのやら。

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花粉症のせいなのか
全体的に調子が悪い。

なんかこう、体が重くって、もっと身軽になりたい。
気候はいたって過ごしやすいんだけどねー。

一日どこにも行かずに部屋にこもるのはやはりあまりいいことではないな。
日の光を浴びるのは重要だ。
だけどそうするとまた花粉が・・・

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土曜日の朝日新聞の「Be on saturday」を一日遅れで読んでたら
もう、正直に言います。うらやましい・・・

会社勤めのストレスもなく
自分のペースで好きなことして暮らせるなんて。

う~ん、やっぱり「好きなこと」があんま思いつかん・・・
だめだな、こりゃ。

でも、まぁ、日々を淡々と過ごせればそれが一番なんだけど。

株をやろうにも元手がないし
プチリタイアしたいんでがんばるぞ!とも思えんし・・・
ネットで副業ったってねぇ・・・営業でしょ、やっぱりそれは。

ま、いいや。
気にしない(笑)
なるようにしかならんさ。人生は。

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最近、ちょっと気分的に元気がないプチ鬱なんですが
どうもそういうときに、なぜか体に静電気がたまりやすいような気がするんです。

今年の初め(1月か2月くらい)にも思ったのですが
最近またそれがやってきたなっていう。

台所の流しとかスチールラック(エレクターのバッタもん)に触れそうになると
「バシッ!!」と静電気が飛ぶんですよ。
なんなんですかね?

体が静電気をためやすくなるというのと
精神的な調子が関係あるのかよくわかりませんが
状況的には、なんかありそうな感じなんですよね・・・

ま、マジに語っちゃうと「トンデモ」ですけど。

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3週間ほど前に読了した文庫版『海辺のカフカ』ですが
なんというか、いままでの村上春樹の長編小説の集大成的なものなのかな、と。
で、相変わらずと言うか
性は重要な役割を担っている。
どの著書だったか忘れたが、文筆家(?)の勢古浩爾氏は
これを評して「まだやってんのか」と批判していたが
私としては、この村上春樹の小説に出てくる
性を媒介とした身体性の表現はとても重要で
これなしでは彼の小説は成り立たないもののように思う。
(一応瀬古さんのファンなんですがね。ここだけはちょっと)

どういうことかというと
村上春樹の小説に出てくる人は
ほとんどみな他人との関係性が切れているような印象がある。
村上春樹自身が「デタッチメント」ということばで表現しているように
それは精神的に他人や世界とのつながりを失ってしまっているような状態なわけです。
で、村上春樹の小説はこの状態が何がしかの形で緩和されるという
(彼特有の「神話的」と言ってもいいような)
一連のプロセスを主題として作られているように思うのです。
そこで求められるのは、他人、あるいは世界との結びつきであり
世界から「デタッチ」してしまった主人公達を
もう一度世界に結びつける、その役割を「性」が担っているのです。

よく出てくるのは、主人公の意志に反して「勃起する」という場面です。
ただこれだけならば、いわゆる「下半身は別人格」というような(笑)
くだらない親父の無駄話に堕してしまいそうなわけですが
村上春樹の小説の場合、それは最後に残されたたったひとつの世界への碇のようなのです。
つまり、それがなければもう主人公はこの世から浮き上がってしまい
そもそもそこに「物語」が成立しなくなるのです。
「物語」が成立しなくなるとは、つまり、「死」です。
少し(いや、かなり?)飛躍してしまいますが
私たちが「生きる」ということには
その都度の「物語」を紡いでいくという部分があります。
その意味で、村上春樹の小説世界で、主人公が生きるためには
「性」という根源的な身体性を抜きにしては成立しないのではないでしょうか?

(また、続けます)

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多分、自殺を考える人っていうのは
それまでずっと自己肯定してきているんじゃないかな・・・

私の場合は、正直言って、死ぬということのリアリティーがよくわからない。
「死んでいる」=「生きていない」ということは、わたしだって分かるが
じゃあ、それで一件落着かというと、そうも思えない。

私は、魂や霊の存在は一切信じていないが
「私がいない状態」というのが一体どういうものなのか、本当に分からない。

大学に入った頃に思ったことは
「死にたいとは思わない。
かといって、生きていたくもない。
そう、望みをかなえてもらえるのならーーー
ーーー『生まれなかったことにしてほしい・・・』」
ということ。

それは、つまり、どうしても満たすことのできない
ある種の「隙間」があるということを認めること。
この世に引き出されて来てしまったという
その、いわば悲劇であると同時に喜劇でもあるような
そんな「舞台」にのせられてしまったということ、
それを認識しなくちゃいけないのではないだろうか・・・と思ってみたり。

「亡き者にしたい」という欲求は
それが「確かに存在した」場合だけである。

であれば、このわたしはやはり「存在」していなくてはならないのだろうか?

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いや、べつに、みんながそうだなんていってるわけじゃないですよ。
ただ、いくばくかの人たちというのは
「これもダメ、アレもダメ」というか
なんかこう、消極的な方法でしか
自分の進むべき方向というのを
決められない人たちというのが存在するんじゃなかろうか?ということ。

で、わたくしが、その典型例であると・・・

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3月くらいから新聞を読まずに5日から1週間くらいためてしまい
かといって、元来の貧乏性からそのまま捨てるにしのびず
休みの日に無理矢理1日かけて読むというようなことがたびたびある。

ま、読まなくても困らないのだけれども
今まで習慣だったものがこれだけできなくなるというのは
何かしら怖い感じがする。

どこかで新聞が読めなくなるのは鬱病の兆候だ、みたいなことが書いてあったが
ひょっとするとそうかも知れない。
しかし、昔っから後ろ向きで鬱的な性格だったから
今更ねぇ・・・って感じでもあるんだが。

どうなることやら。はぁ・・・

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この1・2週間の通勤時間で読んだのですが
正直、物足りないかな、と。
初めてこの人の著書を読むのと
ここ最近結構注目されている人だということで
ちょっと期待が大きすぎたかな(笑)
『負けた教の信者たち』Amazon.com.jp

斉藤さん、いわゆる、ニューアカかぶれだった過去があり
いまだにその手の動きはヲチされてる。
まぁ、わたしもそのくちなのだが(苦笑)(もっと若いけどね)

で、東浩紀さんのこととかも出てくるのだが
私が初めて買った「論座』(4月号)
そこに載ってた、このひとの文章、ひどかったもんなー。
いや、そんなことちょっとC netでも見てりゃわかるっしょ・・・
まぁ、「郵便的・・・」はすごかったらしいが(読んでない)
はたしてこの人の発言はそんなに意味あるのかねー?と思ってみたり。

最近のニートとか引きこもりの議論を見るにつけ疑問に思うのは、
本当にニートとか引きこもりって増えてるの?っていうこと。
確かに経済状況とかで増えるというのは分かるんだけれども
昔っからある割合でそういう人たちってのはいたんじゃないの?

むかしは「高等遊民」とか言われるくらいだから
それなりに恵まれた人だけだったのかもしれないが
余裕のある人がそれだけ増えてしまったということではないのだろうか?

そもそも、経済活動に有用な人ばかりになったら
世界はどうなってしまうんだろうか?
みんなが実力主義でしのぎを削り
まさに戦いという状況だけが現実となったら?

ありえない。
純粋な競争なんてあり得ない。

リングの上、あるいは土俵でもいいが
そこにあがってくる奴らは「戦う意思のあるもの」である。
しかし、その背後には無数の「断念した者たち」が潜んでいる。
リングにあがることを早々にあきらめ
自らの分を知る者たち・・・
そいつらの存在があってこそ
勝者の得るものが生まれているのではないか?
つまり、すべての者が競い合うようになったら
そこでは完全なゼロサムゲームが繰り広げられ
結果として、競い合おうとするモチベーション自体にダメージが及ぶのではないか?
だれもが、もうがんばったて・・・と思うのではないだろうか?

うまく言えないのでまた今度。

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1週間くらい前に突然思いついたんですが
なんというか、できれば縦書きの毛筆で表示したいところです。
へたくそな書き初めみたいな感じで(^^;

テレビの「堂本剛の正直しんどい」という番組がありますが
見てないけどタイトルが好きなんですよね。
ひとつまえの「ちょっと」がついてるほうがもっと好きなんですが
なんか、ああいう脱力系のスタンスを別の言い方で、と考えていたときに
思いついたんですね。

毅然として、後ろ向き(笑)
私の人生はまさにこれだっ!と思い
ブログタイトルにしてしまったというわけ

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なんか、世の中的にはいっつも恋愛しているのが当たり前みたいに言われていますが
それって、本当なのだろうか?
というのも、このわたしはここ7年くらい「ときめいて」おりません(爆)
やはりこれは異常なことなのだろうか?・・・
いや、まぁ、きれいだなとかかわいいなとは思いますが
だからどうこうしたいかと言うとそういうのはないわけで
むしろ、めんどくさいというか必要ないというか。

正直に言うと
「いい年こいてほれたはれたしか話すことネーのか、この馬鹿どもが!」
なーんて暴言を心の中にそっとしまい込んでいるんですね(微笑)

まぁ、端的にいいますとですね
「他人を必要としていない」ということでしょうね(爆!)

そうそう、彼女だけじゃなく
友達もいません。
自分から人間関係はどんどん切っていきますから。

一定の距離(物理的に&心理的に)より近づかれると
なんともいえない不快感に襲われるのです。
なかなか理解してもらえませんが・・・
この辺りのこともおいおい書いていきます。


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このブログを始める数週間前にやったのですが
見事このような判定をいただきました。
ショックなんかではなく、正直安心しました(笑)。
あぁ、客観的に見てもそうなんだって。

ちなみにページはここです。
ご参考まで。
http://www5.big.or.jp/~seraph/zero/

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確かに、人口を維持できないくらい少ないというのは、まぁ、問題なんでしょうな・・・
しかし、安心して子供を作れないのは社会政策上の失態であって
一般民衆の気持ち云々ではないんじゃないのだろうか・・・

で、かくいうわたくしはと申しますとですね
子供どころか結婚も、っていうか付き合うのすらめんどくさいという
なかなか普通の皆さんにはご理解いただけない状態な訳です(笑)

というのも、私の両親自体が
別に大恋愛の末にゴールインしたとか
結婚したくて仕方がなかったとか、そんなのでは全くなくて
ただ、周りから(社会から)「結婚して、そして子供を作らなくてはいけない」という
そういう圧力に押されて初めて家庭をもてた人たちではないかと思うわけです。

そう考えると、ちょうど私の両親は
第二次ベビーブームの最後にあたる人たちで
いわば、「結婚して、そして子供を作らなくてはいけない」という
ある種のイデオロギーに束縛された最後の世代なのではないか?
と、そんな思いが、頭をかすめてしまいます。

そして、そのようなイデオロギーが崩壊したあとになってみれば
なんのことはない、作りたい人は作っとけばぁ、という状態なんじゃないだろうか。

ま、そうは言っても
誰かと一緒にいたいというのは普遍的なものとして認識されていて
そこんところが、わたしとしてはなかなか心苦しいと言うか
居心地が悪いわけなのだが
そもそも、そういった社会的圧力によってしか「つがい」になれないような奴の子供が
自然体で「つがい」を作れるようになりますか?
両親ともにそういう能力ないしは本能というものを欠いてしまっているのに・・・

それってちょっとあんまりなんじゃないだろうか。

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こんな性格なので、正直仕事では苦労してます。
バリバリ働こうなんて鼻っから思ってないので
まぁ、言われたことはとりあえずやりますけど
それ以上って言われてもねぇ・・・

しかも、今の職場というのが
とても人口密度の高いオフィスでして
なんか小学校とかみたいな感じなんです。
これがまた私には苦痛でして。
なんでこの年になって
こんなにくっつき合っているのか、と。
ほんと馬鹿みたいになってきます。

そうそう、昔から「連れション」とかワケわからんと思っていたので
こういう、ある種の「群れ」になじむのは到底無理なわけです。

ま、かといって、これと言った「スキル」(ヤナ言葉だねー。馬鹿っぽい)とやらがあるわけでもなく
転職しようっていう元気もわいてこないわけです・・・

かったるいっすねー

ダメダコリャ

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