人生、消去法
世捨て人のつぶやき




ずっと前から不思議だったのは、
昔の僧侶たちはけっこう旅したりしているのだが、
宿や食料、水、それに川を渡るとなれば渡し船とかを利用する必要もあっただろうに、
そのへんの費用的なことがまったく話題にならないようだ、ということである。

ま、昔は坊主というだけでそれなりに尊敬され、
既存の経済秩序に従わなくともよかったのだろうということはわかる。
基本的にお布施に頼る、と。

しかし、そんな感じに本当にやっていけたのだろうか?
今の世ならさしずめヒッチハイク&居候で生きていくなんて無理なんだが。

よっぽどタフじゃない限りは無理。
というか、そんなことできるやつなら普通に生きていける。

さらに、親鸞に関する本で読んだのだが、
僧侶でない流罪人でも自分で食い扶持を稼がねばならなかっとか。
それ本当かよ?と・・・。

もし今の日本でそんなふうに生きるとしたらどうしたらいいだろう、
と考えて、ふとそれってニートかうつ病しかないんじゃないかと思った次第。

扶養者がいる場合はニートで(これは子どもである期間の延長だろう)、
いない場合はうつ病という形で「お布施」に与るのである。

ま、全国を旅して回るのは無理にしても。

現代におけるアジールは、その個人の「病態」という形をとって現れているってことじゃないのか。

暴論ですけど、あながち間違ってもいなさそうな・・・

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もうこの20年くらいにわたって不況が続いている。
それと並行するかのように、ニートとかの問題が大きくなってきている。

自分はいま無職で、年もとっているのでニートにすらなれない身分なのだが
そもそも、「働く」ということがどれほどのものか、という点で
仕方がない面もあるのではないか、と思うようになった。

それはつまりこういうことである。

子どもが親の姿を見て育つというのはある程度真実だろう。
もちろん、子どもが起きている時間以外で(水商売とか)働いているがゆえに
子供にその姿が見えにくいということはあるだろうけれども。

しかし、大枠として、親の生きる姿は子どもの手本になる。
というか、子どもはそれを手本にせざるを得ない。

翻って、自分の人生を省みてみる。
正直に言って、自らの親の姿を見て、この程度働いておけばなんとか生きて行くことだけは出来るのだろう、そう私は考えていた。

そして、できるだけ欲を持たず、倹約しさえすれば、最低限の生活(つまり食)はまかなえるだろうと考えていた。

大学を出るときも、プライドも何もかも捨てて、「最低限」生きていけるだけの状態になろうと心に誓っていた。
そのためには、背に腹は代えられぬとばかり、どんなに意地汚いことでも、それが世の中というものだと考えようとしてきた。

しかし、その結末がこの有様である。

そして、今になって思うのだ。
父も母もあれでどうやって暮らしていられたのであろうか?と。

もちろん、特別両親ともに箍が外れたようなところはないし、真面目に生活を営んでいたことは確かだ。
しかし、同じようにしている(もちろんそれは、私がそう思っているに過ぎないのだが)にもかかわらず、いっこうに、というか、むしろ状況は悪化の一途をたどっているのである。

今日は通院の日で、いつものように受診したのだが、このまま働けないのであれば、障害者年金という手もある医師に言われた。
実際には、現在、失業手当を受給しており、求職活動もしているのでそうはいかない。
そもそも、そこまでして生きていたいとは思われない。

わたしの感情の基本には、「できるだけ他人の世話にはなりたくない」というものがある。
もちろん、じゃあ、自殺できるかと言われれば、そこまでのエネルギーはないとも言える。
そして困ったことに、それは死ぬことが怖いことなのだからではない。
生きていたいとも思わない。むしろ、生まれなかったことにしてほしい、それが本音ということになる。
取り消して欲しいのだ。私という存在を。
これまでに生きてしまったその歴史も全て含めた形で。

なかなかこの感覚は常人には理解出来ないことであろう。

そして、ここから望める方向性としては、そう「生きてしまった」生を引き受けるということであろう。
ここからして困難を極めるのだが・・・。
そしてさらには、それを引き受けた上で、さらに生きるという選択を出来るかどうかというところが問題になる。

非常にメタ的な苦悩であると思う。
つくづく情けないことだと思わざるをえない。
かつての聖人たちの苦悩もこのようなメタ的なものだったのであろうか?

近頃、法然・親鸞といった鎌倉仏教の入門書をつらつらと眺めているのだが、どうも感触が違う。
生きるということへの違和感がそこにはあまり感じられないのだ。

同じことはキリスト教にも言える。
数年前から聖書や解説書の類をいろいろと閲しているのだが
どうもどれも腑に落ちない。

根本には、「生きたい」という情熱のようなものが存在しているように思えるのだ。
しかし、わたしには、その情熱がそもそも「わからない」。

これは一体どうしたことか。

仏教側に即して言えば、おそらくはこういうことになろう。
基本的に日本の仏教の系統においては、生きていけるという最低限のラインが保たれて初めて、「生きる意味」というある種の宗教的であり、メタ的な次元が現れるのではなかろうか。

さらにさかのぼって考えるならば、その「生きたい」という情熱と、「生きたくない」(もしくは「生まれたくなかった」)という否定的感情との間には、越えがたい間隙があるのではないだろうか。

これまでの救済を旨とする宗教各派において、基本的な「生」を肯定する要素というのは避けがたいもののように思われる。もちろん、それはそれで悪いことなのではないだろう。
しかし、対して、いわゆる仏教における「悟り」を旨とするような場合には、こういった「生」に対する執着をこそ根絶しようとしたのではなかろうか?

やや長くなってので今回はこのへんで終わりにする。

すっきりしない・・・

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