人生、消去法
世捨て人のつぶやき




東京では脱原発デモが盛り上がっているらしい。
ようやくマスコミでも取り上げられるようになり
何か変わるのではないかという予感めいた期待を
結構な人数のひとたちが感じているのではないかと思う。

しかし、私には違和感がある。
ひとつには主張が極端ということが大きい。

もちろん、政治的主張だから
10要求してやっと3か4実現出来ればいいという計算でやっているのならいいのだが
どうもそのようには見えないというところに危うさを感じる。
なんというかナイーブすぎるのだ。

個人的には以下のように思う。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

中長期的には、脱原発は不可避だろう。
あのような事故のあとに、原発を誘致したい自治体などないし
一方で、古くなった原発が順次廃炉になっていくからである。

20~30年単位で見れば、すべての原発が停止する。
そして、廃炉作業には20年以上かかるものの
ざっと50~60年スパンでものを見れば
脱原発は実現することになる。


逆に言えば、全原発の即時運転停止を実現しても、
廃炉完了までは最短でも20~30年かかるのである。
その間も、地震や津波による危険性はずっと存在し続ける。


しかも、現状は、廃炉にともなって出る高レベル放射性廃棄物の
最終処分場もなければ、中間貯蔵施設すらないのだ。
この処分場を受け入れる自治体を決めるだけでもプラス20~30年では済まないだろう。
震災瓦礫すら受け入れたくないと主張する人が多いというのに・・・。

そしてその間もまた地震や津波の危険は続くのである。
解体して出た放射性廃棄物をとりあえず原発の敷地内の保管していたら
地震と津波で流されました、では洒落にならない。

できるだけ早く原発を廃止したいのなら
中間貯蔵施設の建設は急務なのである。
確保しないことには廃炉作業を進められないからだ。

しかし、このことに言及している脱原発派というのを寡聞にして知らない。


そして、これを現実的に解決するには、言いにくいことも言わなくてはならない。
つまり、福島第一原発の近くに中間貯蔵施設を建設し
全国から廃炉にともなって出た放射性廃棄物をそこに集めるという案である。

「原発はすべて廃止にしろ」
「福島をこれ以上犠牲にするな」
「廃炉にともなって出る放射性廃棄物は自分のところへは受け入れたくない」

それでは何もことが進まなくなることがわからないだろうか?
地震や津波によるリスクも全く減らない。
電気が少し足りなくなることくらい我慢しようというレベルの話では済まないのだ。


中間貯蔵施設・最終処分場という新たな犠牲なしには脱原発は実現不可能である。
ここから目を背けている限り、事態はより悪い方にしか進まないだろう。

反原発デモがさらに拡大を見せたとしても
日本の社会というシステムがハングアップを起こし
より大きなリスクを背負い込むことになりかねない。

今必要なのは、安易な脱原発幻想からの覚醒ではないだろうか。

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はてブにあったこの記事
http://kokoro.squares.net/psyqa2052.html

読んでみてふと思ったのだが
私にはimaginary catがいますよ~と。
飼いたいなという欲望を妄想で埋めてるだけなんですけどね(笑)
枕元でちょっかい出して来るって設定。
なんだよ~みたいな。

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「心の理論」に敏感すぎるのがシゾイド
鈍感すぎるのがアスペなのかもしれない。

自分の場合は、どうも自分の心の理論に基づく「直観」に対して自信がなく
その自信のなさ故に、自然なコミュニケーションが取れなくなるところがある。

だから心の理論以前の形式的なやりとりではスムーズに対応できるし
逆の極度に親密で心の理論の核心に触れるような場面では
自分の中に強い葛藤が生まれてグダグダになる。

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一般に哲学の認識論では
自己と世界の関係性というものと
主観と客観の関係性というものが
相似形のものとして考えられている。

簡単にいえば、言葉として自己と主観は交換可能だし
同様に、世界と客観というもの置換可能である、ということ。

しかし、自己と世界の関係というものをメタ的に見れば(=超越論的に顧みれば)
ハイデガーの世界内存在という表現になるが
一方、主観と客観のほうは「客観-内-主観」なんてことにはならない。

はて?

むしろ、観念論のように「主観-内-客観」というほうがしっくりくる。

ということは、自己と世界の場合と、主観と客観の場合とでは
相似形じゃなくって関係が逆転していることになる。

これは、単に言葉の問題なのだろうか。
それとも、認識論の切り口というかパースペクティブの違いによるものなのだろうか。


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