わたしの田舎はわたしが子どものときですでに人口が1万2千人くらい、
いまではどのくらいなのか、正直、調べる気も起きない。
わたしの父は、町役場の公務員だった。
記憶しているのは、朝は家族で朝食をとり、夕飯は6時半くらいに
これも家族みんなでというのが当然だったということだ。
ときは高度成長期を既にすぎていた頃である。
ていうか思いっきり80年代に突入しているわけだが。
今からすれば古き良き時代、もっといえば理想的な時代だったのかもしれない。
しかし、これは地方の(しかもかなり片田舎の)事情である。
父には申し訳ないが、はっきりいって「モーレツ」に仕事をしているように見えたことなど一度もない。
(公務員なのだから当然とも言えるが。でも今の公務員はおそらく大変だろう)
古い農村共同体的な色彩が色濃く残る田舎にあっては
本業よりも、冠婚葬祭にしっかりつきあうということのほうが重要だった。
そして、それをしっかりやっていれさえすれば、大した仕事をしていなくとも
それなりに暮らせてしまうという状況があった。
それを支えていたのは何だったのだろう?
おそらく、都市部の所得を移転していた「だけ」なのだろう。
田舎に大きな箱ものは出来ても、そこに暮らす「輩」のレベルは底上げされることなく
むしろ低下してしまっていたのではないか。
あさ職場に行って「おはよう」といい、
そこに知り合いがくれば雑談をし、
夕方になったら「お先に」といって帰る。
それですまされてしまう、そんな時代が2~30年続いていたのだ。
それも、その地域だけである種の自給自足的に経済が回っているのならいい。
しかし、実際には、都市部からの所得移転を「あーん」と上に口を向けて待っているだけに終始したのだ。
ひな鳥ならそれも許されるだろう。
ひな鳥であるうちは。
しかし、そのような世代の人々がいまや高齢者である。
へたをすれば後期高齢者である。
それも巣立つことがなかったひとたちである。
そしてその巣立つことなく地方のしきたりだけに特化した
そんな親に育てられた子どもには、生きていくすべなどないのは当然だろう。
もはや、地方のしきたりに従っていさえすれば生きていけるような仕組みが崩壊した今となっては。
で、振り返って考えてみると、これはある種のベーシックインカムだったのではないかということだ。
高度成長期において、農村部の家業を継げない次男坊や三男坊以下が都会に出て
集約的な労働力として搾取される一方で、
そこからの果実が国を通して地方のしきたりを維持することにコストを払うひとに
回されるという仕組みが出来上がってしまったのだろう。
| Trackback ( 0 )
|