人生、消去法
世捨て人のつぶやき




Kindleにて。



2013年刊だが、その内容は古びれていない。

むしろ、今だからこそ広く読まれるべきだとも思われる。

その内容は、近代イギリスのロマン派詩人でかつ思想家であるコールリッジの経済思想についてである(ちなみに、私はこの本を読んで初めてコールリッジという思想家を知った。不勉強の極みである)。

まだケインズが現れる以前に、マクロ経済的見地を先取りする形で、勃興期のイギリス資本主義の問題点を透徹した視線で見抜き、デフレ経済への処方箋を説き、あるべき政治的立場としての保守主義を掲げた。



序章からいきなり、無学な私には驚くべき指摘が連続する。

そもそも、「憲法(constitution)」とは、「国体(constitution)」を意味する。国体の護持 を旨とするのは、本来であれば、「保守」のはずである。ところが、憲法改正を主張してきたのは、言うまでもなく、保守政党とされてきた自由民主党である。これに対して、護憲を唱えるのは社会民主党や共産党といった、「革新」に分類されてきた政治勢力なのである。 なぜ、そのような 捻れが生じているのか。理由は簡単で、日本国憲法の内容が、「革新」の理想を表現するものだからである。それゆえ、日本国憲法は、保守勢力には受け入れ難く、革新勢力は逆に守りたがる。 本来、国体と同義であり、「保守」的であるべき憲法が、戦後日本の場合は、「革新」的なものになっているのである。

なんということだろう。

私は齢四十五になるが、恥ずかしながらこの本を読むまで、「国体」の語は日本の保守・右翼思想が生み出した、憎むべき全体主義思想を表す悪しき術語だとばかり理解していた。

そのことをここに告白しなければならない。

正しくは、「国体」とは、”constitution”(政体)の意であり、”the Constitution"(憲法)に通じる、れっきとした国際語なのである・・・。

こんな基本的な見解すら、私は持ち合わせていなかった・・・。

今まで何をやっていたのだ・・・。



また、次のような指摘も愕然とする。

しかし、資本主義とは、ジョセフ・A・シュンペーターが言ったように、現状を常に革新していく「創造的破壊」の過程である。 資本主義社会とは、革新が常態化した社会なのである。

(中略)

冷戦期においては、資本主義を社会主義へと抜本的に改変しようとするのが「革新」であり、「革新」に対抗して資本主義体制を維持しようとするのが「保守」であった。しかし、資本主義それ自体が革新の運動であるのだから、資本主義体制を維持しようとする「保守」は、「革新を保守する」という自己矛盾 に陥ってしまうのである。

なんなんだこれは。

いや、これだけではない。

一九九四年、イギリスの影響力ある政治哲学者ジョン・グレイは、保守の死を宣告した(*2)。 なぜ、保守は死んだのか。それは、「新自由主義」あるいは「市場原理主義」というイデオロギーと結びついたからである とグレイは言う。

(中略)

一九七〇年代にスタグフレーション(インフレーションと不況の同時発生) が起きると、ケインズ主義や福祉国家といった考え方に対する信頼が揺らぎ、新自由主義の影響力が急速に強まった。

(中略)

冷戦期においては、社会主義に対抗して、資本主義体制を維持するのが「保守」であるとされていた。その資本主義を支える正統教義が新自由主義になるならば、保守が新自由主義と一体化することになるのは、当然の帰結であったと言えるだろう。

(中略)

なぜ、新自由主義は、保守を死に追いやったのか。グレイは言う。本来、保守は、歴史的に形成された伝統的な共同体や持続的な人間関係、安定した社会秩序を尊重してきた。また、人間は、自分の生まれた国や共同体がもつ固有の生活様式、文化、環境に制約された存在であり、またそうあるべきであると考えてきた。個人の自由も大事ではある。しかし、自由は、 豊饒 な文化的環境や安定した社会秩序があってはじめて、意味をもつということを保守は重視してきたのである。
 ところが 新自由主義が信奉する自由放任の市場は、保守が元来重視してきたものを例外なく破壊していくものである。市場において、企業は合理化への終わりなき競争へと突き進むが、それは雇用を不安定化し、従業員の間の一体感を喪失させる。個人の選択の自由の拡大は、家族や共同体における安定的な人間関係を自己実現の場とする伝統的な価値観を 棄損 する。市場を通じた労働者の移動は、地域共同体の 紐帯 を弱らせ、社会から疎外された孤独な個人を生み出す。グローバル化は、各国固有の文化や伝統的な生活様式を破壊する。

自らの無知を恥じるしかないが、いかにいい加減にしか思考してこなかったかを痛感させられる。

社会的な自由と、自由放任の市場経済における経済的自由は別物なのだ。



まだ、これで序章に過ぎないのだ。

以下、もう書評にならないので、重要箇所をすべて列記する(個人的なメモである)。

保守は、急進的な変化や革命による破壊という敵から、伝統的な生活様式や価値観を守ることを使命としてきたが、保守にとっての敵は、時代とともに変化してきた。一八世紀末から一九世紀初頭にかけては、エドマンド・バークの『フランス革命の省察』に代表されるように、フランス革命とそれを支える革命イデオロギーが、保守にとっての最大の脅威であった。だが、一九世紀から第一次世界大戦頃までは、保守の主たる懸念は、自由主義の台頭にあったのである。
 例えば、一九世紀のイギリスの保守は、社会的な権威や伝統的な秩序、人々の生活、そして自由そのものまでもが、自由主義の名の下に破壊され、しかも放置されるのを憂慮していた。当時の保守は、自由放任の資本主義が貧富の格差を拡大させ、労働者を疎外すると考え、政府による介入や規制の必要性を説いていたのであり、その意味では、自由主義者よりもむしろ社会主義者の立場に近かったのである(*5)。

例えば、アメリカの代表的な保守派論客であるアーヴィング・クリストルは、一九七七年の『パブリック・インタレスト』誌において、フリードマンを批判して、次のように論じていた。 フリードマンは、「個人の自由な選択によるコンセンサス以外に、国家目的などは存在しないと認識するのが、自由な人間である」と主張する。しかし、フリードマンの言うコンセンサスとは、利己的な目的の総計に過ぎない。利己的個人の目的を単に足し合わせたところで、そこから正統性をもった社会秩序が自動的に発生するようなことはない。公的な社会目的との関係を一切もたないような孤立した私的人生の目的など、無意味で 虚しいものに過ぎない。 個人の私的自由ばかりが尊重される資本主義は、道徳観を欠き、 刹那的な衝動だけで動く虚無主義的な人間を大量に発生させるだけである(*8)。

経済的な自由主義が理想とする競争社会は殺伐としたものであり、そこから社会の連帯感は生まれない。 社会の一体感や連帯感がなければ、自由な社会というものもありえない というのが、保守の考えである。「この点は、おそらく、自由主義と保守主義の間の根本的な相違点である(* 11)」。

戦後日本における代表的な保守論客であった福田恆存もまた、 保守は、理論ではなく、態度や生き方である と言う。

国家には、積極的な目的もあるのである。それは、「1 各人がより 安寧 に暮らせる手段を与えること。2 国民に、今の暮らしや子供たちの暮らしが改善するという希望を保証すること。3 理性的・道徳的存在としての人格に不可欠な能力を開発すること(*7)」 である。

下層から上層へ金を移動させれば、消費は落ち込む。なぜなら、低所得者より高所得者のほうが、所得に占める消費の割合が少ないからだ。

機能的財政論は、財政の歳出と歳入を、民間の貨幣の流通量を調整する「機能」とみなす。機能的財政論において重要な指標は、コールリッジが述べたように、どれだけの貨幣が国庫に納付されたかではなく、どれだけの貨幣が国民の手元に残っているか、である。政府は、貨幣の流通量を調整する財政の「機能」を操作して、物価の安定と完全雇用という政策目的の達成を目指すのである。

つまり、財政が適切であるか否かは、政府の累積債務が大きいか小さいかではなく、デフレや過度なインフレに苦しんでいるか否か、失業率が高いか低いかなど、国民経済の状態を示す指標によって判断すべきだというのが、機能的財政論の基本的な考え方である。

このように貨幣なき物々交換経済を暗黙に想定していることから、 主流派経済学は、デフレという現象を、単なる貨幣量の不足という現象とみなす。

主流派経済学は、貨幣と商品を区別しない。それゆえ、「産業的流通」と「金融的流通」の区別は存在しない。主流派経済学における貨幣流通は、「産業的流通」しかないのである。これに対して、貨幣を商品ではなく「象徴」とみなす見方に立つと、「産業的流通」とは別に、貨幣に特有の「金融的流通」が存在しうる と考えることが可能になる。

人々が貨幣を保有するのは、それが、将来入手できるはずの商品の価値を代理するものだからである。要するに、 貨幣には価値を保蔵する機能がある ということである。貨幣は、商品の価値を代理する象徴であるからこそ、価値保蔵機能を有するのである

貨幣が価値保蔵の手段になるということは、人々が、将来に備えて、貨幣を産業的流通から引き揚げて貯蓄することがありうるということだ。そこで、貨幣の流通経路には、産業的流通とは別に、「金融的流通」を想定しなければならないのである。

ひとつは、政府が「③国債発行」によって貨幣をいったん政府部門に移してから、「④公共投資」によって産業的流通内に流すのである。 もうひとつは、累進的な「⑤租税」によって、貯蓄性向の高い富裕層や成功している企業から、金融的流通に貯蓄として流れようとする貨幣を政府が吸い上げ、「④公共投資」として、産業的流通内の生産的な部門に投じるのである。

これに対して、コールリッジは、イギリスのように、異なる階級や異なる地域の利益が相互に依存し、有機的に協働している国が、増税によって荒廃したり、分裂したりしたことは、歴史上もないと反論している。また、フランスでは、公債制度が整備されておらず、政府と産業階級とが、利益を共有しない二人の個人のような関係にあるため、財政破綻や経済の崩壊がありうるのだとも述べている(* 25)。

ケインズ主義的な経済政策とは、国民全体のために資源を再配分する政策である。そのような国民全体のための資源の再配分は、階級、地域、民族、宗教といった違いを超えて共有される「国民」としての同胞意識がなければ困難である。

一八世紀末から一九世紀にかけて、それ以前の経済社会構造から、「自己調整的市場システム」への「大転換」が起きたのである。

もちろん、財やサービスを取引する「市場」それ自体は、古代から、ありふれた制度として存在してはいた。しかし、かつては、市場の役割は、経済生活において付随的なものにとどまっていた。経済生活の全体が市場によって統制されるようなシステムは、一八世紀末に「大転換」が起きるまでは、一度も存在したことがなかったのである。

そもそも、人間は、利己的な経済的動機のみによって行動するような単純な存在ではない。さまざまな社会的な諸目的や動機に突き動かされて、活動している。人間は、経済活動においてすら、営利目的以外のさまざまな目的を目指して、行動しているのである。例えば、共同体の成員の間で協働して得た生産物を分けあったり、共同体内で利益を再分配したりするなど、利己心に基づく売買や報酬を目的とする労働とは異なる経済活動が存在する。経済活動は、血縁や地縁、慣習、伝統、法制度、宗教などの社会生活全体の文脈の中に位置づけられているのである。

しかし、産業革命によって、初期投資額の大きい機械設備による生産が行われるようになると、設備の稼働率を可能な限り高めなければ、利益を生み出すことができなくなる。このため、生産要素を絶え間なく生産に投入し、機械設備を中断することなく運転し続けなければならなくなる。

だが、生産要素とは、要するに、原材料としての「自然」や労働力としての「人間」のことである。原材料は、生態系という自然環境の一部である。労働力は、人間関係という社会環境の一部である。原材料や労働力を金で買える「商品」にするためには、 自然や人間を、生態系や共同体といった全体の文脈から切り離さなければならない。市場システムが機能するのを妨げているのは、利潤動機に基づく活動を制約している自然環境や社会環境なのである。それゆえ、市場経済の出現は、自然の破壊や社会の解体を必然的に伴うことになった。

金本位制は、理論的には、各国の中央銀行が固定価格で金を売買し、民間人が自由に金を輸出入することを通じて、市場メカニズムを働かせ、国際収支の不均衡を自動的に是正しようとするはずのものであった

問題は、市場では取引すべきではないものまで市場で取引されるようになったことであり、人々の精神が営利精神に支配されるようになったことである。経済社会の危機の根本的な原因は、「営利精神が、 それに対する対抗力の不在あるいは弱体化によって、 過剰になったことにあります」(* 10)。

こうした経済学者が信じる市場原理を、コールリッジは一蹴する。「しかし、人間は物ではありません。人間は、それ相応の水準を見いだしません。肉体においても、魂においても、人間が、自分に相応の水準を見つけるということはないのです(* 19)」。

バブルの崩壊に続くデフレ不況によって、倒産が伝染病のように蔓延し、ショックの連鎖が国中に広がった。安全なはずの資産が脅かされた。労働者の老後のための貯蓄、孤児や未亡人のための基金などが、強欲な投機の対象となり、犠牲となった(* 20)。金融市場の不安定化がもたらした害悪は、市場の自己調整過程だとして放置することが許されるようなものでは到底なかったのである。

これに対してミンスキーは、資本主義は、金融的な要因によって常に変動するのであり、市場均衡に向かって安定することはないと論じた。 主流派経済学の大前提である市場均衡を否定したがゆえに、ミンスキーは、異端の烙印を押されたというわけである。

より重要なことは、コールリッジが、この金融循環の原因を、経済的な現象にではなく、 営利精神の過剰という精神的な問題に帰している ということである。危機の根源は、精神状況にある。経済の問題は、精神の問題と切り離しては考えられないのである。

騎士道の時代は終わっていない。高貴な生の可能性がどれだけ物理的・道徳的な環境に依存しているかを我々は学んでいる(* 36)」。

コールリッジは、資本主義そのものを拒否した社会主義者でも、資本主義以前の社会への回帰を唱えたロマン主義者でもなかった。彼が問題視したのは、 資本主義それ自体ではなく、資本主義における営利精神の過剰 である。

オーウェンは社会主義の祖の一人とみなされている。これに対して、コールリッジは保守主義者に列せられてきた。だが、「大転換」の只中におけるイギリスの危機に対して、オーウェンとコールリッジは、ほぼ同時期に、労働者の保護と教育による社会防衛と公共投資による需要創出という、ほぼ同じ処方箋を導き出した。 市場メカニズムによる社会の破壊という問題に対し、保守主義と社会主義は、同じ結論に達したのである。

経験は、その経験を「信じる」という行為がなければ、成り立ちえない。このすべての経験に先行し、経験の基礎にある「信じる」という理性の最初の行為こそが、信仰なのである。理性と宗教とは相反するものではなく、「同じ力の働き」である。ただし、その意味するところは、理性によって神を理解することができるという「理神論」ではない。理性の行きつく先に信仰があるのではなく、その反対に、 理性の起点に信仰がある ということである。

「国体」とは、「国家」すなわち「自身の統一の原則をもった政体」の属性である。

イギリスの国体の均衡法とは、何と何とを均衡させるのであろうか。コールリッジは、三種類の均衡を特定している。それは「不易(permanence)」と「流行(progression)(*6)」、「国家」と「教会」、そして「活動権力(active power)」と「潜在権力(potential power)」 である。

「不易」と「流行」とは、何か。「不易」とは、 社会を安定化・制度化させようとして働く社会勢力であり、「流行」とは、 既存の制度を超えて社会を変動させようとして働く社会勢力である。「不易」の社会勢力として想定されるのは、地主階級あるいは農業階級である。これに対して「流行」の社会勢力は、製造業者や流通業者などの商業階級である。地主階級は地方に居住し、その制度、権利、慣習、作法、特権によって、社会秩序を安定化させる。これに対して、商業階級は、都市や町に集まり、社会変化を主導する。 不易とは法であり、流行とは自由である(*7)。

つまり、農業階級と商業階級は、利害は異なるが、対立せずに共存しうるし、片方の階級だけでは、健全な社会にはならない。法と自由も同じである。法は行動の制約であり、自由は制約からの行動の解放であるが、法と自由とは両立しうるし、一方だけでは健全な秩序を保つことはできない。イギリスの国体は、磁石のように、農業階級と商業階級、そして法と自由とを両立させているのである。

保守主義とは、「不易」と「流行」のうち、「不易」のみを守り、「流行」を拒否するものとみなされがちである。しかし、保守主義は、「流行」を認めないわけでは必ずしもない。保守主義者が守ろうとするのは、あくまで国体である。そして、国体においては、「不易」と「流行」は均衡している。 この均衡こそが、保守主義が保守しようとするものである。したがって、保守主義者は、「不易」にのみ固執して「流行」を拒否することはしない。それは、均衡を失し、国体を破壊することになるからだ。

中間勢力のない無制限の民主政治は、必ず全体主義へと堕する。

最小国家を唱え、自由を尊重し、個人主義を信奉する新自由主義者が、なぜ、よりにもよって独裁権力や恐怖政治と結託するのか。その理由は簡単である。新自由主義者は、抽象的な理論から導き出されたに過ぎない自由市場を実現しようとする。だが、現実の経済においては、数々の規制、制度あるいは既得権益が存在しており、完全に自由な個人が競争する市場などというものは存在しない。完全なる自由競争市場を実現するためには、その障害となっている規制、制度、既得権益を破壊しなければならない。 その破壊のためには、強大な権力が必要となる。こうして新自由主義者は、独裁権力と結託するのである。

各社会勢力が異質な存在でありながら、お互いを排除せずに共存しなければ、自由な秩序は成り立ちえない。

ホッブスは「剣なき法律は、単なる紙きれに過ぎない」と言ったが、正しくは「法律なき剣は、単なる鉄片に過ぎない」と言うべきなのだ(* 16)。

例えば、フランス革命における憲法議会は、「理性」や「一般意志」にのっとっていると言いながら、実際には、有権者から子供や女性を除外していた。しかし、有権者の範囲をどこまで認め、どこからは認めないのか。その程度についての判断は、純粋な科学理論や一般原則からはただちに導き出すことはできないはずである。というのも、こういった具体的な状況における政治判断については、「私たちは、過去の経験と直接的な観察によって啓蒙された悟性や、便宜の観点からの比較衡量に基づく選択に頼るしかないからです(* 17)」。

マイケル・オークショットが強調したように、理性が示した抽象的な原則を政治に適用すべきであるという「政治における合理主義」を拒否し、実践的な政治を重視することこそ、保守主義の政治哲学の要諦である。

これに対して、 便宜に基づく政治は、多元的で多様な世界と親和的である。なぜなら、便宜は、国によって、そして時代によって異なるものだからである。便宜に基づく政治は、各国が自国の伝統文化や発展段階に応じた政治体制を構成することを許容する。その政治体制とは、「同じ国の群衆全体が、宗教、言語、法、慣習、そして交易と農業の互恵的な依存と反作用といったものの可視・不可視の影響によって、一つの政体へと組織されている(* 24)」ものであるが、これは、国民国家の定義にほかならない。普遍的な原則ではなく、便宜に基づく政治を重視するプラグマティックなコールリッジは、 画一的でグローバルな世界よりも、国民国家から構成されるモザイク状のインターナショナルな世界を理想とする のである。

ただし、コールリッジが理想とする国民国家は、当時のイギリスにおいて実現されたタイプのものである。それは、 各個人が一つの国民へと組織され、統合されてはいるが、個人の自由が犠牲になっているわけではないような国家体制である。

コールリッジは言う。国家とは、穀物の山のような、個人の単なる集合体ではない。かといって、国家は、有機的生体のように、全体がすべてで、個人を国家全体の中に埋没させてしまうようなものでもない。国家とは、無機物と有機体の中間にある概念である。すなわち、個人は国家の一部でありながら、同時に個人としても存在しうる(* 25)。そういう個人が「国民」であり、そういう国家が「国民国家」なのである。

国民国家とは、ナショナル・アイデンティティを自発的に選び取る人々の主体的・積極的な意識(ナショナリズム) を基盤とする国家形態である。

真の愛国者の条件  ただし、真の愛国者は、国家の独立が侵略や征服によっては達成しえないことを知っているものだとコールリッジは言う。 国家間の競合関係こそが、各国の独立を保つ。もし侵略によって国家間の勢力均衡が崩れれば、各国の独立も同時に失われてしまう。あるいは、ある国民が世界を征服して帝国を建設すれば、その国民は全体の帝国の中に埋没し、国民国家たりえなくなる。侵略も制服も、国民国家の独立を損なうのである。それゆえ、真のナショナリストであれば、無謀な野心に駆られた侵略や征服を企てたりはしない。 真のナショナリストとは、便宜に基づく政治を行う現実主義的・実践的な政治家なのである(* 28)。

むしろ好戦的なのは、普遍的原則に基づく世界の建設を企て、各国の制度や価値観の多様性を許容しない合理主義者や世界市民主義者の方なのである。

理性が発見した抽象的な原理原則を掲げた急進的・抜本的な改革に対しては、徹底的に抵抗する。 これこそ、保守主義の最大の特徴である。政治哲学者マイケル・オークショットや、アンソニー・クイントン、あるいはノエル・オサリヴァンは、そのような保守主義の政治思想を「不完全性の政治学(The Politics of Imperfection)」と呼ぶ(* 31)。

政治における人間の理性は、完全なものではない。それゆえ、理性による政治秩序の構築を企てるのは危険である。したがって、伝統的な制度や慣習、あるいは権威など、理性では論証できないようなものであっても、それらが秩序の基礎になっているのであれば、それを便宜的に保守した方が賢明である。かりに既存の制度の改革を行う場合であっても、理性の限界を肝に銘じて、慎重に、漸進的に進めるのが望ましい。そうした秩序に対する保守的な姿勢の方が、かえって自由を守ることができる。これが保守主義の「不完全性の政治学」である。

だから保守主義者は、フランス革命における急進的な民主化に反対した。それがルソーの「一般意志」という抽象原理によって、合理主義的に世界を改造しようとするものだからである。共産主義革命に反対したのも、それがマルクス主義という理論による合理主義的な改造だからである。

以上。

 


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Kindleにて。

まさに今知りたいことがズバリタイトルに有るのでポチった一冊。


分断の分析は、

1.知識人がアイデンティティの分断を見つける。
2.メディアがそれを拡散する。
3.人々がそれを受容し社会が分断される

というもの。

うーん、いまいち納得できない。

というのも、分断がアイデンティティによるものとすれば、究極的には個人レベルにまで分断されようものだが、実際に起っているのは個的な分断を塗りつぶすかのような、大文字の「分断」であるからだ(cf.アメリカの共和党対民主党、イギリスのブレグジット派対反対派)。

このような、微視的分断と巨視的分断の移行を、著者は「選挙」という民主主義の手続きが必然的に生み出す、様々な選挙戦略の手法により可能になっていると解する。



著者は、リバタリアン的な主張の持ち主のようで、これからのあるべき個人像は、自由意志に基づいた、アイデンティティを取捨選択できる個人というものだ。

これも、私には理想論的に聞こえる。

というのも、アイデンティティというものには、不可避的に受け入れざるを得ない要素というものがあると思うからだ。



著者は仮想通貨の越境性を持ち出し、その政治的インパクトについて語る。

そして、国民国家という枠組みが今後溶解していくことになるだろうという未来予想図を示す。

しかし、今起こっているのは国民国家の再生(あるいはゾンビ化)ではないだろうか。



著者は、日本では保守派の一派として、YouTubeでチャンネルくららなどに出演する論客でもある。

しかし、その「保守」の意味は多分にアメリカ的なものであり、一種の自由至上主義にしか見えず、果たして日本的文脈での保守なのだろうかとの疑問は拭えない。

しかし、これも保守派の自民党が改革・憲法改正を叫び、革新・リベラル側が既得権の保護(労組など)と護憲にこだわるという、ねじれ現象の証なのかもしれない。



いささか、物足りない印象の読後感であった。


 


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