人生、消去法
世捨て人のつぶやき




本日、村上春樹原作の話題の映画(なのか?)、「ノルウェイの森」を見た。

私は映画にはとんと疎いので、上映していた映画館はいわゆる大手のメジャーな映画館だったにもかかわらず、今回が初めての入場となった。

はてさて、村上春樹といえば、いまや世界に誇る日本の小説家である。
毎年、ノーベル文学賞受賞(したらいいな)記念コラムを書いている先生もいるし・・・(笑)

さらにいえば、というか個人的には
音楽をレディオヘッドのギタリスト、ジョニー・グリーンウッドが担当しているというのも大きかった。
(とはいえ、彼(ジョニー・グリーンウッド)の映画音楽デビュー作である
「Body なんとか」(忘れた(笑))からすると、正直不安は大いにあった)

さて、いよいよ本題だが、映画そのものの出来については、わたしにはその資格がないだろうが
しかし、多少の印象や感想を書いたとしても、非難されることはないだろう。

まず、話の展開としては悪くない。
偏見かもしれないが、外国人監督であるにもかかわらず日本を舞台にしているのに
大部分の映像について、大きな違和感をいだかずにすんだ。
これは、前もって覚悟していたマイナスポイントだったので
ある意味、ここでかなりプラスになったともいえる。

小説の長い流れを手短にまとめるには、それなりの手法というか、割り切りが必要だろう。
その意味で、冒頭の「えぇっ!そこまでもう進んじゃうの?」的な展開は致し方ないのかもしれない。

また、小説を読んだのがもうだいぶ前のことなので自分でも自信がないのだが
これって小説にあったっけ?という部分が(というか、重要なところだと思うが)あり
春樹ファンとしては少し気持ちを落ち着けて、というか距離を置いて接するほうがいいのかもしれない。

また逆に、村上春樹的情景がなかったなぁ、というのも帰宅してからの感想だ。
たとえば、主人公が「やれやれ」と言うとか
料理や音楽についてうんちくを傾けるとか。

ここまで読んで頂いた方には分かると思うが、この作品はけっして傑作ではない。残念ながら。

しょうじき、エンディングは唐突な感じがしたし、
区切り方としても、うーん・・・という点が多々あった。

<残念な点>
・菊池凛子が若く見えない(爆)
・直子の病状について「幻聴」という単語を使ってしまっている点
 (小説では話が噛み合ないままずーっとしゃべり続けるところが不気味で、そこからなんとなく統合失調症を連想させるのだが)
・直子の狂気が(上記とも関係するが)いまひとつリアルでない点
・中古レコード屋がアルバイト先として出てくるが、「音楽の趣味」の話がいっさい出てこない点
・文学の趣味も同上

あと、決定的だったのは、主人公が手紙を書くときの字である。
これがヒドい!!!
丸文字はないでしょう・・・

少なくとも、もう少しきれいな字の書ける人に書かせて
手元だけ映せばよかったはずである。

この時代に早稲田に行って、文学に親しむ人でこの字はないでしょう。
日本人ではない監督だから仕方ないのか、ともおもうが
関わっている日本人スタッフがひとことアドバイスすればよかったのにと残念でならない。
私の感覚では、最低でも万年筆で美しい筆跡で書くところかと。

あと気になったのは、所々に出てくる友情出演的な有名人。
まずは糸井重里が出て来て、中古レコード屋のマスターらしき人物は細野晴臣、
療養所の入り口の警備員みたいな人は高橋幸宏じゃないか。
ここまで来たら坂本龍一も出るのか・と思ったら出てこなかった・・・

スジと全然関係ないところに気を取られてしまった・・・
なんだかなぁ

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今年の夏前に、医師から「睡眠時無呼吸症候群」であると告げられた。
その結果、なにやら人工呼吸器の子分のような機械を貸し出されて、よけいに眠れなくなってしまった。

その「人工呼吸器の子分のような機械」は、呼吸が止まるのを感知するとたちまち空気を送り込んで、酸素不足を補うという仕組みのものである。

実際には、普通に呼吸しているときでさえ、一定の圧力で空気が送られてくるので、慣れるのは至難の業である。

結局わたしはその機械になれることを諦め(というか、寝れないのだよ(w )、数ヶ月が続いている。

最近は、普通に眠りにつけても、朝方にはうっすらと意識が戻り、もう少し眠ろうとしてなにやら不思議な夢を見ているという有様である。

ところで、この疾病はまだ新しいもののようであるが、そもそもなぜこのような疾病が生まれてきたのであろうか。

形態学的には、肥満がひとつの原因とされる。
そういわれれば、、、といわなくとも私には思いつく節がある。

しかし、そもそも、呼吸が止まる病気というのは画期的だなと思う。
病気の結果として呼吸が止まるのではなく、病気そのものが「呼吸が止まること」なのである。

しかるに、普通に呼吸が止まるいえば「死ぬ」ことであろう。

ところが現在の社会では、息が止まってもそれは単なる病気のひとつですよ、ということだ。

しかし、改めて考えてみると、その二つの「無呼吸状態」にはいかほどの差異があるのだろう。

もちろん復帰できない「無呼吸」と息を吹き返す「無呼吸」という違いは明らかである。
にもかかわらず、そこにはある種の「死の欲望」があるように見える。

自然な「死」が生命のそして欲望のエネルギーの枯渇であるならば、睡眠時無呼吸症候群での無呼吸は「生」のエネルギーをつかった「生」の減退を意図するものではないのか。

わたし個人としては、もう生きていたいとは高校の頃から思ってないし(というか、それ以前でもなかったが)、いまやむしろ完全なる静寂のもとに帰りたいとさえ思う。

それは、仏教的な「無」の境地なのだろうか。
それとも、ある種の存在の次元なのだろうか。
それとも違う何ものかであるのだろうか。

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