人生、消去法
世捨て人のつぶやき




Nine Inch Nails - The Perfect Drug



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『子どもたちの階級闘争』刊行記念鼎談(ブレイディみかこ×岸政彦×松尾匡)2017.5.13 共催:三省堂書店神保町本店



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藤井聡 松尾匡 本当に日本を再生できる みんなのための財政政策



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多くの人と自分が恋愛感情の「質」という点で、同じ経験を共有していないのではないかという疑念が昔からある。

恋愛感情の「質」とはなにか?

話は私の小学生時代に遡る。


たしか小学3年くらいのときだったと思う。
はじめて同級生の女の子にほのかな好意を抱いたのは。

ただ、それはとても不安定なもので、数ヶ月で別の子に気移りしてしまうようなものだった。

それが、しばらくして一人の女の子に落ち着く。
そこで私は、「好き」というのは「こういうものなのだ」と自覚した。

この時点で、私の初恋が定まったように見える。
しかし、そうはならなかった。
これは私の「初恋」ではない。



多くの人は、どうやらこの幼少期の「好意」というものから、スムーズに思春期以降の「恋愛」に移っていっているように私には見える。
それゆえ、幼少期の「好意」を「初恋」と把握している人が多そうなのだ。

しかし、私の場合、中学のときに激動が襲うことになる。


先日のエントリで触れた、亡くなった女性の登場である。


この女性、部活の後輩でひとつ年下である。
はじめはいきなり馴れ馴れしく話しかけてくるので、「なんだこいつ・・・」という感じであった。

この子はとにかく明るく人懐っこい子で、誰に対しても非常にフレンドリーだった。

私が登校してくると、校舎の窓から大きな声で私の名を呼んで手を振ってくれる(ま、私だけでなく他の人間についても同じように名前を呼び手をふるのだが)。
最初はどうということもなかったのだが、いつしかそれがめちゃくちゃ嬉しく感じるようになった。
もう、脳内麻薬がドバドバ出るのだ。
天にも昇る気持ちというのはこういうものなのだと生まれて初めて知った。
パァーッと頭の中がスパークするような鮮烈な体験である。

なんだ、これは。



で、これは恋愛感情だろうか、と自問する。
否。
なぜなら、小学生の時に好きだった「あの子」に対する気持ちとは「まったく違う」から。
気持ちの「強弱」の問題ではなく、「質的に」違うから。


このへんで普通の人には理解してもらえなくなるのではないか。


じっさい私は、中学在学中にこの子のことを恋愛対象として見ているとは自認できなかった。
こんな妹がいれば楽しいだろうな、くらいのものだと勘違いしていた。


私にとって「好き」というのは、小学生の時のアレであり、中学になってはじめて経験した強い衝撃的感情は名付けようのない不定形の「なにか」だった。
とはいえ、自問自答は続いた。
「好きなんじゃないか?」「いや、ちがう!」
その繰り返しだった。


おわかりいただけるだろうか?



その後、どうやって中学の時のほうが「本物」の恋愛感情だと気づくようになったか。

それは高校に行ってからのことである。
高2のとき、同じクラスに後ろ姿が中学の時のその子にそっくりな女の子がいたのだ。

似ている。
似ている。
似ているぞーーーーー!!!

そう思うと、なんとかしてその子に近づきたいという衝動に駆られるようになった。

で、ちょっとだけ話してみて気がついてしまったのだ。
「この子じゃない」(バーーーーーン!!!)

この時点で、ようやく私は中学時代のあの子の面影を追い求めていたことに気づいたのだった。


じゃあ、改めて、中学の時のその子(違う高校に行っていた)に連絡を取りたいかというと、そんな気持ちは湧いてこない。
不思議なもので、「あぁ、おれはあの子のことが好きだったんだ」という納得感とともに、なんとも名状しがたい、諦めとも絶望とも違う、何かしら近づいてはいけないような、妙な感情を持ったのだった。

じっさい、時の流れとともにその子は私の中で「聖化」され、価値のない自分のような人間が近づくことが許されない存在へとなっていた。



さらに時は流れて、大学入学後、電話でその子には連絡を取り、告白はした。
フラれた。
当然だ。
そして、わたしはなぜか「ごめん」と言って電話を切った。

フラれたのだから悲しくなってもいいものだが、なぜか清々しい気持ちになった。
終わったのだ、と。



惚れにくい質(たち)のわたしはその後長らく誰にも惚れなかった。
2つ目の恋がやってきたのは、大学院生になったときのことである。
ぜんぜん違うタイプの女の子だった。
いや、髪型は似ていたか。
ショートカット。



というわけで、私の初恋は小学生の時ではなく、中学の時である。

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私が私淑するネット賢人、finalvent氏がブログ復帰していた。


ブログはメディアとしては終わったなぁ、と感じていて
finalvent氏がブログを更新しなくなってからは、ろくに読むものがなくなってしまった。

ま、とりあえず、めでたい。

極東ブログ

finalventの日記

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神曲

Winona by Matthew Sweet


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一つ前のエントリで、初恋の女性の死について書いた。
なんとそれが、今年の初エントリである。縁起でもない。



で、ふと考えてみると、同年代の地元の人間で死人が出るのはこれで二人目だ。
一人目は、中学の同級生で生徒会長まで務めたやつが、リストラに会い、自ら命を絶ったというもの。
二人目が、前エントリの女性。ひとつ下。

ふたりとも充実した人生を送るだろうなというオーラのある人だった。
わからないものである。



今年で私は45になるのだが、情けないことに死というものがいまだに実感としてわからない。
いなくなる、ということはわかるのだが、「死」そのものを対象として捉えられないというかなんというか。

著名な哲学者などは、幼少時に、自分が死ぬ運命にあることに気づいて衝撃を受けていたりする。
翻って、私は何度も言うが今年で45だ。
わからんのだ。わからんのだよ。死というものが。い・ま・だ・に。



人の死、そして自らの死。



これだけ死というものについて鈍感なのだから、私には宗教というものも、いつまでたっても理解できないのだろうな。

やれやれ。

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つい今しがた、父が散歩から戻ってきて、私の初恋の女性が亡くなっていたことを告げた。

急に言われても実感がわかない。

父は、その子(昔の記憶のままなので、大人の女性としては想像できない)が私の初恋の相手などとは知らず、人づてに聞いた話題として、気軽に話したが、まるでその父の気軽さと同じように、その話は実感のない、テレビのニュースのような非現実感を伴っていた。

急病だったそうだ。病名はわからない。

人懐っこい、とても愛嬌のある可愛い子だった。

大学を出てからはCAとして務めていたらしい。



涙も出ない。悲しみもない。喪失感もない。
こんなに無感動でいいのかと思うくらいに、私の心は波立っていない。

私のほうが確実に早く死ぬだろうという、根拠のない思い込みはこうやって簡単に打ち砕かれた。
落ちぶれた私の姿を彼女には見られたくないという、ささやかな私の心のあがきは、もう必要なくなった。

彼女はいない。
二度と現れない。
私の中で永遠にあの頃のままとどまり続ける。



私はいつ死ぬのだろう。
だらだらと、時間だけが過ぎていく。
死ぬべき人間が誰かなど、誰にも決められない。
とはいえ、彼女がこんなにも早く死ぬ運命にあったことは、私にとってとてつもない不条理に思える。



校舎の窓から、彼女が私を呼ぶ声が聞こえる。

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