私は、ずっと「他者」というものを理解したいと願ってきた(※)。
と同時に、どうやらそれが難しいものであることも薄々は感じていた。
おそらく、生まれつき目の見えない人が、「目が見える」ということはどういうことなのかを理解したいと考え、「目が見えるとはどういうことなのか?」とずっと考え続けるようなものなのだろう。
そして、どこまで行ってもそのひとには「目が見える」ということがどういうことか理解できないように、「他者」というものも詰まるところ、私にとってはどこまで行っても理解することのできないものなのだろう。
また、そもそも「理解」できるような事柄ではない、ということでもあろう。
細かいことを言い出せばきりがない。
目というひとつの感覚器官によって実現される「視覚」と、(おそらく)様々な感覚や判断力を総合して実現される「他者認識」とは、そもそも次元が違うのだし、視覚でさえかなり複雑な情報処理と判断力を要するものだから、他者認識なんていうものは、とてつもなく複雑でとてもじゃないが歯が立たないともいえる。
ところが、「普通の」人々はこれができる。
というか、できてしまっている。
目の見える人間が、「目が見える」ということの内実を言葉にするのが困難であるように、「他者」が「わかる」ひとはその内実を言葉にすることが困難である。
いや、困難なんていう持って回った言い方は止そう。
そんなことは不可能なのだ。
目の見えない人が目の見えるひとから「目が見えるとはこういうことなんだよ」と、どんなに説明をしてもらっても、おそらく「なるほど。目が見えるということはそういうことか」と納得することはないだろう。
ひととひとは、おたがいの間に認識の基盤となる共通した経験が存在しない場合、上記のように言葉による認識の共有は不可能となる。
そして、私と「普通」の人たちとの間には、「他者」という経験の有無により、決して言葉による共通認識を構築できない部分が残るいうことになる。
生まれつき目の見えないひとは「目が見える」ということがどんなことなのか、おそらく最後まで理解できない。
にもかかわず、自分が「目の見えない人間である」ということは理解できる。
「目が見える」ということがどんなことかはわからないが、とにかく「それ」が自分には与えられてはいないこと、自分からはあらかじめ「奪われてしまっている」こと、そのことは、おそらく理解できる(むしろ、理解するように仕向けられると言った方が正確かもしれないが)。
くどいようだが、これを翻案すれば次のようになる。
生まれつき「他者」というものがわからない私は、「他者」というものがどんなものなのか、おそらく最後まで理解できない。
にもかかわず、自分が「他者というものがわからない人間である」ということは理解できる。
「他者」というものがどんなものかはわからないが、とにかく「それ」が私には与えられてはいないこと、私からはあらかじめ「奪われてしまっている」こと、そのことは、確かに理解できる(むしろ、理解するように仕向けられると言った方が正確かもしれないが)。
アナロジーとしては、出来が良くないと言われるだろう。
しかし、現時点で私が言語化できるぎりぎりの限界はここまでである。
※念のため説明しておくけれど、ここでいう「他者」を「認識する」とか「理解する」というのは、相手の気持ちを理解するということではない。
そうではなくて、「他者」というものの「意味」(あるいは「存在」とでもいえばいいのだろうか・・・)をつかむ、ということだ。
私の<世界>の中に「存在」として「他者」をとらえることが私の悲願であり、また、逆に言えば、私にとって「他者」というものはつねに、私の<世界>の中にぽっかりと口を開けた「空虚」なのだ。
それは見ようとすればするほど見えなくなる、ある種の「消失点」のようなものだ。
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