意味不明だと思いますが、メモ代わりですので・・・
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常に私の意識というものは「不完全」というところから始まる。
そしてそれは「完全なダメ」ではなく、ある種の「欠け」もしくは「不足」という形をとる。
マイナス無限大ではなく、マイナス1くらいのところに私の意識、存在、コギトといったものがあるように見える。
へこみとしての私というか。
哲学的思考というのは常にそういった「ちょっとしたへこみ」から出発する。
ちょっとへこんでいるからこそ、0(=均衡がとれた状態、調和した状態)でさえ、なにかすごいこと(=超越)に見える。
われわれの思考は、いつもわれわれ自身を「ちょっといけてない」と捉える。
場合によってはそれは「すごくいけてない」と言われることもあるが、現にこうやって生きていられるという意味では、「すごくいけてない」なんていうのはおこがましいのだ。
ほんの少しだけれど、欠けている。
その欠けているというのが分かるということが、認識というものの原型をなす。
なぜかは分からない。
でも、それは実際にそうなっている。
過剰なものでさえ、それは均衡からの逸脱として、マイナスの意味を帯びる。
逸脱していること、中心からそれていること、なにかはずれていること・・・
それはいつも何か思考を急かすような、思考の起動力のようなものだ。
話しをするように文が生まれ、言葉が連想を介して次のイメージを生み出す。
そのとき、その運動を突き動かしているは、ある種の「真空」である。
つまり、「欠け」そのもの。
ある種の「欠け」を埋めるように、生命は運動する。
生命とはそういうものだ。
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