人生、消去法
世捨て人のつぶやき




4,5日前から秋の虫が鳴き始めた。
昨日くらいからは種類も増えて、キリギリスと鈴虫あたりが出てきているっぽい。
全国的には残暑が続いているようだが、山間の寒村ではもう秋、いや冬支度を始めねばならないかもしれない。

秋の虫と並んで気になるのが
近所の野良猫である。

汚い斑のこげ茶色のねこでなにやら道の脇にうずくまっている。
よく見ると口からヨダレを垂らしており、なんか病気なのかなとか思う。

以前に比べると自分に慣れてくれたのか
病気がしんどいだけなのか
逃げずにある程度近くまで近寄らせてくれるようになった。

警戒している感はあるので、触るのはおあずけ。

このところ、出来る範囲で施しをするようになっている。
とりあえずは庭の草木に水をこまめにやるようにしている。
あたりまえのことではあるのだが、なされていなかったので。

「慈悲」のこころを実践すべくとりあえずのスタートを切ったところである。
さて、吉と出るか凶と出るか。

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私には死の恐怖がない。
いや、正確にはあるのだろうが、意識できない。

実際、死に直面するような危機に陥れば、生物的な危機感は持つと思うのだが、特段死に直面していない日常の中で、叫びだしたくなるような恐怖というのは感じられない(そんな私に対して、私淑するfinalvent氏はひじょうに大きな死の恐怖を抱えている)。
一種の防衛反応だとも解釈できるのだが、他の人々をみるにつけ、なにやら自分が不完全な不具者のようにも思える。

死の恐怖などないに越したことはないではないかと、まぁ、幸運なことと捉えることもできるのだが、哲学・思想系をかじるとなかなかそうとも言っていられなくなるから困ったものだ。

死が怖いという人はかなり早い時期にその恐怖を覚えるらしい。
だいたい物心がつく頃に、自分が死ぬということに気づいて、得も言われぬ恐怖を感じるようだ。
直接話を聞いた人も数人いる。

自分を振り返ると、そんなことはこれっぽっちも考えないアホな子どもだったようにも思うが、いくらなんでもこの年になっても良くわからんままとは正直、別の意味で恐怖を感じる。
私はやはり生きていないのではないか?
いや、生物学的には現に生きているのだが、人間としてというか、魂がというか、とにかく根源的な死の恐怖を感じる心の部分が「壊死」してしまっているのではないかという、(ある意味メタ的な)絶望をあらためて感じないわけにはいかない。

だいたい、中高生くらいの時に、それまでの子どもだった私は「死んだ」という感覚が確かにあった。
これ自体は、おそらく他の人もそうなのではないかと当時から思っているのだが、しかしそのあと新しい自分が生まれたという感じは、ついに訪れないままに終わった。

古い私は死んで、新しい私は生まれなかった。

では、今ここにいる私は一体何者なのだろうか?
生ける屍。たしかにそうだ。
しかし、生ける屍とすら呼べないレベルなのではないかという危惧は拭えない。

無。虚無だ。

私には死よりもむしろ、この無への恐怖のほうがリアルな気がする。
無は死によっても断ち切れない。
むしろ無と死は親和性がある。
死んでもこの虚無が終わらないのではないかという危惧のほうが絶対的ではないか?

いや、こんな考えは観念的な、たわいもないお遊びなのかもしれない。
近代化の途上にある社会に生まれた、日本でいえば明治期にあったような、自我の怯えのようなものかもしれない。
なんでそれがいまさら、とは思うが。

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シートベルトがシューベルトに見えた。
と思ったら、シーベルトにも見えた・・・

疲れてるな・・・

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いつごろからか新聞でもテレビのニュースでも
「思惑」ということばが乱発されるようになった印象がある。

政治の話をする際に都合のいいことばのようで
ことあるごとに使われるようになった。

しかし、このことば、推測をもっともらしく書くための
一種のマジックワードになってしまっている。

「・・・という思惑がある」という書き方をすれば
なにか客観的にものを言っているふうになる。

しかし、場合によって「意図がある」とか「示唆している」とか
もっといろんなニュアンスで語るべきものが
すべてごっちゃにされてしまっているように思う。

もっとも、新聞やテレビニュースは事実の報道が第一なのだから
事実とそこから推測されることはもっと明確にわけるべきだろう。

ことばの選択には細心の注意を払いたいものだ。

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そういえば新潮の100冊とかあったな、なつかしい。

いまはだいぶ入れ替わってしまったようだが。
サイトは楽しげ。
http://100satsu.com/

そのうち読んだことあるのは

伊豆の踊り子
春琴抄
キッチン
どくとるマンボウ航海記
海と毒薬
こころ
人間失格
異邦人
フェルマーの最終定理
トム・ソーヤーの冒険
博士の愛した数式
一握の砂・悲しき玩具
友情
塩狩峠
蛍川・泥の河
砂の女
羅生門・鼻
坊っちゃん
新編・銀河鉄道の夜
1Q84
檸檬
変身
老人と海
不思議の国のアリス
車輪の下
罪と罰
ゲーテ格言集

計27作品。

だいぶ過去の名作系はなくなっている。

森鴎外が1冊も入っていないのはどうかと思うな。さすがに。

村上春樹を入れるなら、まずは『世界の終りとハードボイルドワンダーランド』だろう。
ベタに行くにしても、『ノルウェイの森』ではないか。
『1Q84』はなぁ・・・

若者向けの教養をつけるためのブックリストというより
かつての若者が最近の小説を知るのによいリストになってる印象。

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思い返してみれば、読んだのは高校くらいのとき。
書店のカバーを掛けたままカラーボックスの中に
忘れられたように置きっぱなしになっていた。

書き出しからしてもう覚えていない。
こんなんだったっけ?

で、結局全部読んでしまった。
ずいぶんと当時とは印象が違う。

そして、なぜ自分が太宰に失望して
漱石や鴎外に傾倒したのかもわかった。

端的には、絶望しているようでしていないから。

「これはお道化です」と太宰が言えば言うほど
シリアスさは増すどころか、かえって本当のコミカルさを醸しだす。
メタ的な言及をすれば普通はその「お道化」が否定されるものだが
なぜか太宰の場合、そうならない。

いまの視点から文体を見ると
町田康か川上未映子の饒舌体との類似を感じる。

そして、本書はいわゆる純文学に分類されるが
どうも大衆小説寄りの匂いがする。
いや、悪い意味ではなく、文章そのものに
読む楽しさを感じさせる資質があるということ。
いや、むしろそのほうが純文学か・・・

ま、とにかく自分がかつて読んだ時の
なにか違う、と感じたのは、どうもこのあたりにあるようだ。


↓いまの新潮文庫の表紙は個人的にいまいち

人間失格 (新潮文庫 (た-2-5))
クリエーター情報なし
新潮社



20年前のこちらのほうが好み


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私淑するfinalvent氏が夢にうなされて絶叫して目覚めたと書かれている。
finalventの日記 20120815/1344995785

これまでにもそういう事を書かれていたので驚きはない。

幼児期のトラウマについて、いままでよりはっきりと書かれている点が印象に残る。
身体に痕跡がのこるような一種の虐待があったそうだ。

我が身を振り返ると、これまでも不思議に思っていたのだが
私はこれまで悪夢と呼べるような夢を見たことがない。
絶叫どころか寝汗をかいたという記憶すらない。

これは幸福なことなのだろうか?
とりあえず幸いであるとするしかないのだろうが
否定しがたい引っ掛かりのような感覚もある。

というのも、どうも私の場合、感情が麻痺しているという側面が強い気がするからだ。

以前にも書いたような気がするが、私の感情では「怒り」が基調になっており、
それ以外の、とくに恐怖や寂しさという感情がひじょうに希薄なのだ。
しかも、その怒りというのも、どうも普通の人に比べるとずいぶんと希薄な方のようである。

もちろん、普段の生活では笑いもするし、ごく普通に振る舞える(たぶん)。
しかし、正直な気持ちという意味では、怒り以外はウソッぽく感じる。

怒りはリアルなのだが、じゃあ夢で怒りを爆発させたりするといえば
そんなことは一度もない。

私の夢はいつも淡々とした、現実の延長線の風景のようでしかない。
夢のなかでも感情は平坦なままだ。

今まで見た夢である種の感情を喚起されたのは
何やらブラックホールのようなところに吸い込まれそうになって
おっとっと、危ない!と感じたことくらいだろうか。
それも、ひやっとする程度で、恐怖と言うにはあまりにちゃちなものだったが。

finalvent氏の場合、「見捨てられることへの不安」が強いように感じるが
私に場合は、見捨てられるも何もはじめから受け入れられたことがないので
見捨てられる不安という物自体が成立しないのかもしれない。
不安そのものをシャットダウンしているといったほうが正確だろうか。
その意味では、病理性は私のほうが優っている印象。

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最近はライフハックでも瞑想が取り上げられるようになった。
ライフハッカー 2012.7.22
とか。

私も今年の初めから一日に一回は短時間でも瞑想をするように心がけている。

劇的な変化などないが、それでもいい影響があるような気がする。
まぁ、プラシーボでも何でもいいのだ。

参考にしたのはこの本↓

始めよう。瞑想―15分でできるココロとアタマのストレッチ (光文社知恵の森文庫)
クリエーター情報なし
光文社


ライフハッカーの別の記事でもおすすめされている。

完全に宗教とは切り離して
一種のエクササイズとして説明されていて
しかもすぐ読めて、すぐ実践できる。

とはいえ、少し物足りない気もするので
次の本を購入した。
これはfinalvent氏のおすすめによる。

ブッダの瞑想法―ヴィパッサナー瞑想の理論と実践
クリエーター情報なし
春秋社


こちらは途中までしか読んでいない。
ちょっと最初の本からは一気に高度になる。
が、小難しいルールブックのようなものではないので
比較的とっつきやすい。

とはいえ、まだまだ10分程度がせいぜいで
30分や1時間を瞑想に費やすまでには至っていない。

せめて30分くらいはできるようになりたいところ。

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ここのところ私が私淑するブロガー、finalvent氏が
なにやらキリスト教系の一種の心理療法チックなことをやっている。
ACIM(A Course In Miracles)というそうだが
ちょっと調べてみたら、かなり”スピリチュアル”で引いてしまった(笑)
全くついていけない。

さて、かく言う私は今年のはじめ頃から
『心の傷を癒すカウンセリング366日』(西尾和美)(講談社+α文庫)
という本を読み進めてきた。

買ったのは、もうかれこれ6,7年前だろうか。
アマゾンで心理関係の本をいろいろ買った中に入っていた。

しかし、買ってはみたものの、
パラパラとめくっても抵抗感が強く
どうしても読めないという感じで積ん読にしてきた。

それがどうしたわけか今年のはじめにふと手にってみると
「お、読めるようになってる」と気付き、
それからだいたい毎日、すこしずつ読んできた。

本来、この本は短いコラムのような文章を
一日に一つずつ読んでいく体裁のもので、
1年(366日)分入っているので、1年掛けて読む前提になっている。
私は一日に複数読んだので半年余りで最後まで来た。

読みはじめの頃は何やら頭の中がゾワゾワし
頭も身体も抵抗を示していたが
最後に近づくにつれ、それも大分消えていることに気づいた。

基本は肯定的な言葉(アファメーション)を自分の中に定着させることで
自己肯定感を回復させ、現実を直視し、変化をうながすものだ。

メインターゲットは共依存になってるアダルトチルドレンのようだが
それだけでなく、広い意味での様々な自我の機能不全を抱えた人に有効だと思われる。

かく言う私も、さほど期待して読んだわけではないのだが
(そして、瞑想をしたりするようになったこともあるのでその影響もあるだろうが)
自分の中の「怒り」の感情がすこし穏やかになった気がする。

これまでなら反射的に否定的な意味づけをしてしまっていたのが
そうとも取れるけどそうじゃない捉え方もある、と思えるようになったのは大きい。

こういうのは、ほんとうに反射的なものなので
理性的に考えようとしても、その突発的な負の感情の湧き上がりを防ぐのは不可能に近い。
しかし、気持ちに余裕が生じたからだろうか
かつて強烈な怒りを感じたことについて、「あ、いや、こういう意味か」と
いまようやくその悪くない一面というのが見えてきた。

また、突発的な怒りが湧くときも
以前は有無を言わさぬような強烈さがあったのだが
それがある程度コントロール可能な強さに弱まった。

これは単なる認知療法的なものではなく
ある種の浄化作用の結果なのではないかと思う。

自分の中に積もった澱のような負の感情を
少しずつ捨てていく、そんな効果をこの本はもたらしてくれるように思う。

この本はいつも座右に置き、できるだけ毎日目を通すようにしたい。


心の傷を癒すカウンセリング366日 (講談社プラスアルファ文庫)
クリエーター情報なし
講談社


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「眠れない人に夜は長く、
 疲れた人には一里の道は遠い。
 正しい真理を知らない愚か者にとっては、
 生死の道のりは長い。」

『ブッダの真理のことば・感興のことば』(P.163)岩波文庫

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今年のはじめ頃から読み出した本で印象的な言葉に出会った。

"健全な「与えられる」人"

考えてみれば私は損なわれるために生きてきたようなものだ。
正しくあろうといつも欲してはいたのだが。
そして本来あるべき人のあり方とは
つまり、この言葉で言い表せるような気がする。

そもそも、この本は数年前に購入して
最初はあわないなと思い、積ん読状態が続いていた。
それがどうしたわけか、今年になって手に取ってみると
不思議とすんなり読めるようになっていた。
時が満ちたということなのかと思ったりした。

そうして7ヶ月ほどが経過して本も終わりに近付いた。
最近はいろいろ自分の変化も感じるようなった。

あまりに時間がかかりすぎだという気もするが
しかしまぁ、こういうものなのだろう。
変化が訪れてくれたことに感謝しなくてはならない。

心の傷を癒すカウンセリング366日 (講談社プラスアルファ文庫)
クリエーター情報なし
講談社


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