人生、消去法
世捨て人のつぶやき




He Cried ( by Morrissey )

I need you

キミが必要なんだ

Simple words

この素朴な言葉

But words which had never been heard
By the soul
Stoned to death
But still living

死ぬほど石を投げつけられ、
それでもまだ生きながらえているその男は
かつて一度もその言葉を聞いたことがなかった。

And so he froze where he stood
And he looked to the ground
And he cried
He cried

だから彼はその場で凍り付き
そして足もとを見つめ
そして泣いたんだ
泣いたんだ

Ride our minds
If you must

僕らの心を振り回したいというのなら
そうすればいい、どうしてもというのなら

But there's always a line you don't cross

でもね、人には超えてはならない一線というものがあるんだ

Time is short
Don't be cruel

時間は短い
そんなに残酷にならないでよ

Oh you don't know the power
In what you're saying

あぁ、君は自分が口にしてる言葉が
どんなに力を持っているか分かっちゃいないんだ

Oh ...
And so he froze where he stood
And he looked to the ground
And he cried
He cried

あぁ、
だから彼はその場で凍り付き
そして足もとを見つめ
そして泣いたんだ
泣いたんだ

People where
I come from
They survive without feelings or blood

僕が生まれた家には感情も血もなく生きていける人ばかり

I never could
Was stoned to death
But I'm still living

でも、僕にはそんなことは無理で
死ぬほど石を投げつけられ
それでもまだ僕は生きている

So he froze where he stood
And he looked to the ground
And he cried
He cried

だから彼はその場で凍り付き
そして足もとを見つめ
そして泣いたんだ
泣いたんだ

So he froze where he stood
And he looked, and he looked
To the ground
And he cried
He cried

だから彼はその場で凍り付き
そして足もとを見つめ
そして泣いたんだ
泣いたんだ


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I am a rock (Simon&Garfunkel )

A winters day
In a deep and dark december;

深く暗い12月の
ある冬の日

I am alone,
Gazing from my window to the streets below
On a freshly fallen silent shroud of snow.

僕はひとり、
窓から通りを見下ろし
降り積もったばかりの雪を眺めてる

I am a rock,
I am an island.

僕は石ころ
僕は絶海の孤島

I’ve built walls,
A fortress deep and mighty,
That none may penetrate.

僕は壁を打ち立て
懐深い強固な要塞を築いた
誰も突き崩せないような

I have no need of friendship; friendship causes pain.
Its laughter and its loving I disdain.

友情なんか要らない、そんなもの苦しいだけ
そこにある笑いや優しさなんてものが大嫌いだ

I am a rock,
I am an island.

僕は石ころ
僕は絶海の孤島

Don't talk of love,
But I've heard the words before;
It's sleeping in my memory.

愛について語るんじゃない、
愛の言葉はずっと前に訊いたことはあるけど
いまじゃもう記憶の底に眠っている。

I won't disturb the slumber of feelings that have died.
If I never loved I never would have cried.

死んでしまった感情の眠りを妨げるつもりはない。
愛するってことがなかったら、僕は一度も泣いていやしないだろう。

I am a rock,
I am an island.

僕は石ころ
僕は絶海の孤島

I have my books
And my poetry to protect me;

僕の本がある
そして、僕を守ってくれる詩(うた)がある

I am shielded in my armor,
Hiding in my room, safe within my womb.
I touch no one and no one touches me.

僕はみずからの鎧をまとって
部屋の中に隠れ、安全な子宮の中
僕は誰にも触れないし、誰も僕に触れやしない

I am a rock,
I am an island.

僕は石ころ
僕は絶海の孤島

And a rock feels no pain;
And an island never cries.

だって、石ころは何も感じないから
だって、絶海の孤島は絶対に泣いたりはしないから。

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A Most Peculiar Man ( by Simon&Garfunkel )

He was a most peculiar man.

彼はとても変わった人だった。

That's what Mrs. Riordan said and she should know;
She lived upstairs from him

リアドンさんが言ってたんだ、きっと知ってたんだろうね
彼の上の階に住んでたから

She said he was a most peculiar man.

変な人だって言ってたよ。

He was a most peculiar man.
He lived all alone within a house,
Within a room, within himself,
A most peculiar man.

彼はとても変わった人だった。
たったひとりで家の中、
部屋の中、自分自身の中に住んでいた。
彼はとても変わった人だった。

He had no friends, he seldom spoke
And no one in turn ever spoke to him,
'Cause he wasn't friendly and he didn't care
And he wasn't like them.
Oh, no! he was a most peculiar man.

彼には友達はいず、めったにしゃべらなかった
そして、だれも彼に話しかけようとはしなかった、
だって彼は人付き合いが悪くてそれを気にも留めなかったから
そして彼は誰とも違っていた
ああ!彼はとても変わった人だった。

He died last Saturday.
He turned on the gas and he went to sleep
With the windows closed so he'd never wake up
To his silent world and his tiny room;

彼は先週の土曜に死んだ。
ガス栓をあけて、眠りについた
窓を閉めきって、そしてもう二度と戻っては来なかった
彼の静かな世界へと、彼のこぢんまりとした部屋へと旅立ったのさ

And Mrs. Riordan says he has a brother somewhere
Who should be notified soon.
And all the people said, "What a shame that he's dead,
But wasn't he a most peculiar man?"

そして、リアドンさんが言うには彼にはどこかに兄弟がいるそうで
早く知らせなくちゃと。
そして、みなこう言ったのさ。「彼が死んだのは気の毒だけど、
でも彼ってとても変わった人だったよね?」


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Alma Matters ( by Morrissey )

So the choice I have made
May seem strange to you

ま、僕の選びとったものはキミにはおかしく見えるだろうさ

But who asked you, anyway ?

でも、だれがそんなこと訊いたっていうんだい?

It's my life to wreck
My own way

これがボクの人生
自滅する人生

You see, to someone, somewhere, oh yeah ...
Alma matters
In mind, body and soul
In part, and in whole

だからさ、どこかの誰かにとっちゃ
アルマは大切なんだよ
心にも体にも魂にも
部分であっても全体であっても

Because to someone, somewhere, oh yeah ...
Alma matters
In mind, body and soul
In part, and in whole

なぜならどこかの誰かにとっちゃ
アルマは大切なんだよ
心にも体にも魂にも
部分であっても全体であっても

So the life I have made
May seem wrong to you

ま、僕のこれまでの人生は
キミにとっちゃ間違ったものに見えるだろう

But, I've never been surer

でもね、これは僕の最上なんだよ

It's my life to ruin
My own way

これがボクの人生
自滅していく人生

You see, to someone, somewhere, oh yeah ...
Alma matters
In mind, body and soul
In part, and in whole

だからさ、どこかの誰かにとっちゃ
アルマは大切なんだよ
心にも体にも魂にも
部分であっても全体であっても


※Alma Mattaersというタイトルとalma materには何がしか関連があるかもしれない。

http://en.wikipedia.org/wiki/Alma_mater

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目の前の現実を正しく捉えて、正しく行動する。
それだけのことが、人間にはできないようだ。
もちろん、わたしもそうだ。

今、自分の目の前で起こっている事象
今、自分がおかれている状況
そういったものをそのままに捉え
それに対して、適切な行動をとる。
それだけのことができない。

そこで、知に対するニヒリズムが生起する。

わたしは(またわれわれは)何事も認識することができない。
それゆえ、そのときどきの状況に正しい反応・対応をすることができない。
さらに、それゆえに、適応度の高低は偶然的なものでしかない。

結局、学ぶという行為そのものが無意味である、と・・・

と、ここまで書いてみて、学ぶということと「意識」というものはおなじとは言えないのではないかと思った。
「学ぶ」ということは意識的な行動ではあるけれども、その結果として導かれるものは、意識的ではない次元での行為の適正化ではないか。
さらにいえば、意識と無意識というのは対立する二項ではないではないか。
フロイトの言うような、無意識が「じつは」意識を支配しているとか、意識的に行動しているようでいて「じつは」その行動は無意識に基づくものであったなどというのは単純化し過ぎなのかもしれない。

基本的に意識が無意識を従わせるということはできないと言えるのだろうが、それは無意識が意識を従わせているということではない。
卵が先か鶏が先か、の議論になってしまうが、そこには循環してしまうような仕組みがあるのだろう。

「学ぶ」―learn―

「意識」―consciousness―
のあいだには、次元の違いがある。

その違いは何か。

おそらくは「時間」であろう。

「意識」―「いま」だけを対象とする(「過去」をどのように「今」認識するか、というのを含む)
「学ぶ」―正しいか否かはおき、そこに「未来」への期待・想定・意図といったものが関係している

こうした意味では、これまでの哲学的な時間論よりは、経済学で扱われる(いやむしろ、前提とされていると言ったほうが適切だろうか)「時間=未来への期待・予想」の効果が意味をもつのであろう。

経済学は、古典的な力学をモデルにしているという批判が以前からあるが、一方で前提されていた時間の特性というものを理解する上では、ひじょうに分かりやすい構造になっているとも言える。




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昨年くらいからだろうか。いわゆるビジネス本の類を読むようになったのは。
なんというか、ま、確かにそうだよな、とか、いや、それは違うだろ、とか、読む本によってそれぞれ反応が違ったのは事実。
その一方で、これまではあまり目の向かなかった物事の側面とでもいうのか、今まで知らずにいた世の中の仕組み、あるいは人間の仕組み、のようなものが分かり始めてきたような気もするのも事実だったりする。

大方の(読みやすい類の)ビジネス本は、多少なりとも自己啓発的な側面があり、なんか「こうすればうまく行く」的な話が多いように思う。
そうしたノウハウ的な話には、個人的な経験にしか根拠のないものや、一見科学的(今の時点では脳科学かな)な装いをしたもっともらしいことばかりが書かれている。

ただ、そういったものを読んでみて、ある程度の実効性はあるな、と思うようになったので、じゃ、その理由はなんだろうと考えてみた。

<その1:人間は本能が壊れているがゆえに、「学ぶ」ことを身につけた>
人間は本能の壊れた動物である、と。ま、これは岸田秀の影響だろう。唯幻論だ。
ただ、少し以前とは視点の角度が変わったのは、本能が壊れているから人間が作り出した仕組みは全て”幻想”なのだ、と考えるのではなく、むしろ、本能が壊れているが故に仕組みを作り出し、それを「学ぶ」という能力が開発されたと考えるべきではないのか、ということだ。

<その2:「学ぶ」ことができるということは、みずからの無知を知るからではないか>
多少なりとも、生きていく上で、(本能的にではなく)意識的・選択的に、ある行動様式を身につけるというのは、その人がおのれの無知を知っているということの指標となるのではないか。

<その3:「学ぶ」ということの「投機性」>
「学ぶ」ということは、その場で何らかの「利益」をもたらすわけではない。
そこで期待されているのは、その学んだことによって、将来がよりよいものになる、より自分にとってプラスになる、ということだろう(もちろん、そうではない純粋な知識欲のようなものもあるだろうが、それはまた別の価値を持つのだろう。また別の機会に考えることにする)。
それはつまり、今我慢することによって、将来に「利子」が手に入ると考えることと同等なのではないか。
さらにいえば、そこには「投機性」があるとまでいえなくもない。

こう考えると、経済学が想定している「経済人」など私には与り知らぬ世界だ、と考えてきた私の浅はかさが身にしみる・・・

<その4:「投機」ということの裏に潜む「断念する」という能力>
今まさに余裕がない場合には、勉強することも投資することもできない。
それは裏を返せば、「今この瞬間の余力を使う」ことを「断念」して、その見返りとして、将来のよき状況を期待するということだともいえるのではないか。
そこで問われるのは、今この瞬間に使うことのできる自分の時間や労力について、今使うほうが得か、あるいは、今は我慢してもう少し後にとっておいたほうが得なのか、ということだ。
それは、「今この瞬間にもっとも適切な行動をとるか」あるいは「今ではない、ある程度未来における適切さを目指して」の行動なのか、という違いが重要だということだ。

そして、この「断念する」ということこそ、一種の「能力」と言えるのではないかということだ。
そこには
(1)未来を予想し(そのための知識の蓄積と、思考能力が必要)
(2)いまできること(怠けることも含む)を「断念」して
(3)その予想された未来に対して有効だと思われることをする
という、一連のプロセスがある。

こうして、人間というものがいまの余裕を先延ばしにすることによって、より大きな利得、さらに言えば、発展というものを成し遂げることができたというのは、まさにこの今は「断念する」(がしかしその未来にある利得をとる)という「能力」に帰することができるのではないかと思った次第。

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昨今の隔差社会の進展や社会的弱者をいっそう貶めるような世の中の動きには、断固として「否」を投げつけるべきである。
しかし、今回の事件に関しては、ある弱者が「更なる弱者」を抹殺した、あるいは、みずからよりさらに下位の「弱者」を作り出してしまった、という側面も忘れるべきではない。

確かに、この15年あまりの間に続いた日本における社会の構造変化というものは、とくに若い世代にとって切実な問題となった。
というのも、それなりにまじめにやってきた人間が、いざ社会に出る段になって「即戦力」だの「創造性」だのといった御託に丸め込まれて、まともに明日の生活を思い描くことができないような、そんな状況が現出したからである。
(一般には毛嫌いされるだろうが、基本的に子どもの頃からアウトローだった人間が、まともに社会に居場所が見つからないだとか、そういったことは昔から存在する問題であるし、また別の問題だということはわきまえなくてはならない)

さて、では、今回のこの秋葉原における無差別殺人事件は一体どう解釈し、この現代日本社会の中で位置づけていくべきなのだろうか。

おそらく、方向性としては二通りある。

(1)そもそもこのような犯罪に走るような、そういった社会的要因を取り除き、犯罪の未然防止を徹底する。そのための予防的措置は可能な限り実施し、かつより効率的かつ実効性のある仕組みづくりを目指していく、という方向

(2)社会的に蓄積されていくこの種の鬱憤や不満を適切な形で社会そのものにフィードバック素料な仕組みを作る、という方向

前者は、犯罪の防止につとめることを旨とし、後者は犯罪からできうる限りのことを学び、それを実践の場へスピーディに反映していく態度ということができる。ま、厳密には相互にリンクする部分が多々あるので、きっちりとは分けられないけれども。

さて、現段階においていえることがあるとすればそれはなんだろう?
まずは、いえないことをざっと洗い出そう。
・容疑者の真の動機
・事件を起こすに到ったきっかけ
・容疑者の憎悪の真の対象
・精神状態の医療的見地から見た診断

以上のことどもを排除した上で、それでもいえることは何か。

それは、真にみずからの破滅をいとわないものは、みずからより強大なものに向かって牙を剥く、ということ。
みずからよりも弱いものに牙をむくのであれば、それはおよそ人間がとりうる中で最低な人間的態度であるということ。
けっして、その鋭く研ぎすまされた牙は、おのれよりも弱いものに向けられてはならないということ。

まさに倫理基準のようになってしまうが
これだけではないか。いや、これだけで、もう十分ではないのか。

身を滅ぼしてでも何かを壊したい、というのはある種の状況下での人間の本性のようなものである。
しかし、同時に「人間」の領分といったものを我々は、いつまでも引きづりながらいくていかざるをえない。

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