尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

桐野夏生『ナニカアル』、戦時下の林芙美子の「秘密」

2024年03月11日 22時12分30秒 | 本 (日本文学)
 女は夫がいる40歳の小説家、男は妻子がいる7歳下のジャーナリスト。二人が東南アジアの町で再会し、かつての愛情が燃えあがる。そんな小説があるわけだが、作者は誰だろう? 森瑤子(1993年に52歳で亡くなった作家)? それとも昔の林真理子か? いやいや、それが桐野夏生ナニカアル』(2010)という小説で、読売文学賞島清恋愛文学賞を受けた。この本を今まで何となく敬遠していたんだけど、今回読んでみて大変感心した。圧倒的な迫力で、戦時中を再現する素晴らしい筆力に感嘆。何で今読んだのかというと、主人公が林芙美子なのである。つまり実在人物を登場させたフィクションということになる。

 しかも内容がものすごい。「林芙美子」が一人称で書いた手記という体裁だが、彼女には前から毎日新聞の記者をしている恋人(斎藤謙太郎)がいる。なかなか会う機会がなかったが、南方に派遣されボルネオにいたときに、斎藤も社の仕事で同じ町にやってきたのである。そして熱烈に愛し合い、「私」(芙美子)は子どもを身ごもってしまう。日本に帰って妊娠に気付いた芙美子は悩みながらも、一人で産むことにした。夫には養子を貰って育てると言いつくろう。林芙美子は1943年に養子の泰(たい)を迎えた事実がある。『ナニカアル』では、その「養子」(名前は晋だが)が実は芙美子の実子とされているのだ。
 
 いやあ、小説は何を書いても良いけれど、こういう設定はやりすぎと違うか。信長や秀吉が小説や映画の中でいろいろと会話する。あり得ないような「本能寺の変」の原因が語られる。でも、まあ大昔のことだから、いいのかなと思う。しかし林芙美子はもうずいぶん前に亡くなっているとは言え、執筆当時は没後60年ぐらいだった。しかも、一人も子どもを産んでないとされている林芙美子が、実は「不倫」相手の子を出産していたという設定である。ちょっと何だか抵抗があったのである。そんなのアリ? 
(桐野夏生)
 最近ずっと林芙美子を読んでるから、この機会に読もうと思ったわけだけど、いやあ読み逃さなくて良かった。これは傑作である。しかも非常に読みやすい。どんどん読み進んでしまう。そして、林芙美子の私生活が描かれているけど、本当のテーマは「戦争と軍隊」なのである。林芙美子は日中戦争初期に「南京に女性一番乗り」で知られて、続いて「漢口一番乗り」を果たした。「従軍記者」として、あくまでも戦う兵士の立場で書くと本人は思っていたが、書きたいことを自由に書けず戦争に協力していたわけである。その「実績」のある林芙美子が1942年になって、再び南方に派遣される。

 それは事実で、陸軍省に同じく女性作家(当時の言葉では「女流作家」)窪川(佐多)稲子宇野千代なども集められた。宇野千代は断ったが、林芙美子や窪川稲子(プロレタリア文学者で「転向」していた)は断れない。同じ時にラジオ作家だった水木洋子(戦後に脚本家となり、林芙美子原作の『浮雲』を脚色した)も加わっていたのが興味深い。シンガポール(当時は「昭南」)まで船で行くが、もう米軍の潜水艦が心配な戦況になっていて、着くまで生きた心地がしない。林芙美子は到着後にマレー半島を連れ回され、その後「蘭印」(オランだ領インドシナ=インドネシア)のジャワ島に行く。

 そしてボルネオ(カリマンタン)島まで「派遣」されるのである。具体的には今南カリマンタン州都になっているバンジャルマシンである。そこでは日本軍が占領した後に「ボルネオ新聞」を刊行している。そこに出掛けて「取材」するということになる。林芙美子には有名作家ということで、「当番兵」まで付く。ありがたいような、迷惑なような。しかし静岡出身の床屋と称する当番兵は、一体何者なのだろう? 芙美子は次第に疑惑の念が湧いてくる。あちこち連れ回されて疲れ果てた頃に、斎藤からバンジャルマシンに行くとの連絡が入る。英米に派遣され「交換船」で帰国した彼とは長く会えなかったのである。
(バンジャルマシン)
 そこだけを切り取れば、戦争中に盛り上がった「不倫恋愛小説」である。ちなみに林芙美子は画家の手塚緑敏と「結婚」していたが、戦争末期に養子泰とともに「入籍」するまでは「事実婚」だったようである。その間もパリ滞在中に恋人がいたとされている。「斎藤謙太郎」という人物は虚構だと思うが、モデル的人物がいた可能性はある。しかし、この小説の眼目は林芙美子の私生活を暴くことにはない。ボルネオでの斎藤との出会いは、実は仕組まれたものだった。軍の思惑によって動かされていたのである。

 そのことがはっきりしていく後半の叙述は圧巻である。軍というか、「情報機関」的な国家組織の恐ろしさを心に突き刺さるように描いた小説は滅多にない。旧東ドイツの秘密警察「シュタージ」の恐怖を描く映画が幾つかあったけど、そういうのを思い出した。芙美子と斎藤はもう一回ジャワ島で会うことになる。そこで大げんかして、二人は永遠に別れる。斎藤は林芙美子が書いたものは死んで10年すれば何も残らないと決めつけ、まあ『放浪記』だけは資料として読まれるかも知れないがと付け加える。恐らく「世界」を論じる「大説」に意味を求める男だったのだろう。しかし、死後何十年も経って、他の作家が読まれなくなっても「小説」の中で庶民を描いた林芙美子は読まれている。そのことの意味をじっくり考えてしまう傑作だった。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする