尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

『インファナル・アフェア』3部作一挙上映ー香港ノワールの最高傑作

2024年03月10日 20時30分57秒 |  〃  (旧作外国映画)
 池袋の新文芸坐で『インファナル・アフェア』3部作一挙上映を見た。2023年に4K版が公開され、ずっと見たいと思っていた。午後12時45分から、途中25分の休憩を2回はさみながら19時15分までの長丁場である。間が空くと訳が判らなくなってしまうシリーズだが、順番に見ても良く判らないところがあったかな。このシリーズは営々と作られ続けた香港ノワールの最高傑作と言えるだろう。話が連続したシリーズとしては、『ゴッドファーザー』や『仁義なき戦い』に匹敵するか、むしろ面白さだけなら上回る出来映えだ。アメリカでリメイクされたマーティン・スコセッシ監督『ディパーテッド』は、アカデミー賞で作品賞、監督賞、脚色賞、編集賞と4部門も受賞した。しかし、僕は原シリーズの方がずっと良かったと思っている。

 3部作を紹介しておくと、『インファナル・アフェア』(2002)、『インファナル・アフェアⅡ 無間序曲』(2003)、『インファナル・アフェアⅢ 終極無間』(2003)である。第1作は金像奨で最優秀作品、監督、主演男優(トニー・レオン)、助演男優(アンソニー・ウォン)の各賞を受けた。日本では2003年に公開され、キネ旬ベストテン9位に入選した。第2作は時間をさかのぼり、前日譚となっている。第3部は第1部を直接受けて、前2作の伏線を回収するとともに全体像を示している。

 このシリーズは簡単に言えば、警察とマフィア(黒社会)が相互にスパイを送り込む話である。それで「いろいろある」訳だが、じゃあ時間軸に沿って何があったのか正確に書けと言われるとよく判らなくなる。見ている間は判ったつもりになれるけど、筋が複雑に入り組みすぎていて、よくよくDVDを何度も見返さないと筋を書けないのではないか。まあ第1作はまだ判りやすいが、段々複雑になっていく。監督はアンドリュー・ラウアラン・マックの共同監督だが、どういう分担かは知らない。二人とも香港のアクション映画監督で、その後も『頭文字D THE MOVIE』(2005)を共同で監督している。
(Ⅲのチラシ)
 元は1991年のことだった。警察学校を退学になったように見せかけて、実はマフィアに潜入を命じられたのがヤントニー・レオン)、逆にマフィアのボスから優秀さを認められ警察学校に送り込まれたのがラウアンディ・ラウ)。10年もすれば優秀な二人は出世をとげている。ヤンが報告した麻薬取引が行われるとき、ラウがボスに事前に捜査情報を伝える。二人の危うい生き方が、ともに日常生活に支障を来すほどになっていくが、取りあえずは実に緊迫した設定が見事で見入ってしまう。

 まあ、トニー・レオンアンディ・ラウの2大スター競演が目玉だが、原題は『無間道』。仏教の「無間地獄」(むげんじごく)という考えがベースにある。「無間地獄」とは「大悪を犯した者が、死後絶えることのない極限の苦しみを受ける地獄」だそうだが、何を信ずるべきか判らぬ暮らしを十年続けて、二人とも二重生活の苦しみが限界に達しつつある。今見ると、この映画は「誰もが携帯電話を持っている時代」の警察捜査アクションを完成させた映画だと思う。瞬時に連絡可能というスリルがたまらない。
(トニー・レオン)(アンディ・ラウ)
 この映画を支えているのは、二人の名助演だろう。マフィアのボスのサムエリック・ツァン)と、ヤンの上司として接触するウォン警視アンソニー・ウォン)である。どちらも香港アクション映画(だけでなく恋愛映画などでも)に欠かせない名脇役である。アンソニー・ウォンは雨傘運動支持を表明して香港、中国で干されていると伝えられるが、近年も『淪落の人』『白日青春』で健在ぶりを示したのは嬉しい。この二人が丁々発止とやり合うのを見るのは楽しい。しかし、第2作『無間序曲』を見ると、実はサム以前に香港のボスだったンガイ家を倒すために、第2作段階では両人が手を組んでいたことが判る。ヤンも初めはンガイ家に送り込まれ、後にサムの手下に移った。この第2作の中で、香港返還(1997)が実現した。
(エリック・ツァン)(アンソニー・ウォン)
 第2作ではまだ携帯電話がない(ボスだけは超大型の昔の携帯電話を持っている)時代で、英国支配から「一国二制度」になった時を描いている。そして第3作『終極無間』になると、「本土」との絡みを避けられない。第1作ラストでヤンは殺害されるが、その真相、そして後日譚が複雑に絡み合う中で語られる。第2作は若い時代ということで、トニー・レオン、アンディ・ラウは出演していないが、第3作では再び二人が戻っている。実はマフィア一味であるラウがどんどん出世し、やがて「善人」になりたいと思うようになった。しかし、第3部になって判明したことは、実は潜入者は両側ともに複数いたのである。誰がマフィアのスパイか判らぬ中で、ラウは何を信じるべきか。一応ラストになるが、何があり何が起こったのか。

 とにかく主要人物は皆死んでゆく。最後に生き残るのは誰か。『ゴッドファーザー』『仁義なき戦い』のような名監督の社会派的ノワール映画とはちょっと違う。社会的な主張をする映画じゃないと思っていたが、再見してみるとやはり「香港」をめぐる時代が写し取られていた。またベースにある仏教的世界観が案外本気で描かれている。ウォン・カーウァイのアート的完成度とは違うが、香港映画が作り続けて来た世界観の総まとめみたいなところもあるなと思う。それにしても、第3部は複雑。それが余韻か。
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