切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

2024年 梅の花 吉利倶八幡宮・・・なかなかのもの 京都市山科区  2024.3.13 訪問

2024-03-26 22:46:40 | 撮影
   

『八幡宮の御由緒
御祭神  応仁天王 仲哀天皇 神功皇后

御鎮座地 京の都は山科に伏見に通じる御道あり 大岩街道と称す その街道沿い東の端山八幡山の中腹に平安時代の初めより御鎮座されております
 京都外環状線と京都府道三十五号大津淀線の交差点「外環小野」を淀方面へ 勧修寺の南側に表参道の鳥居が望めます
 京都市営地下鉄東西線「小野駅」一番出口より 徒歩約五分 境内地及び常緑の山林・鎮守の森が当宮の宮域で御座います

勧請・沿革  仁寿の御代 八幡山の中腹に夜毎に金色に光を放つ神木があり人々は恐れ慄いておりました そのことをお告げで知られた文徳天皇はこの地を鎮護国家の霊場とすべく 社殿を創建し八幡大神様を勧請され 御遷宮の儀を執り行いましたところ山は激しく鳴動したと云われております
 昌奉三年 延喜格式を编纂し延喜帝とも称される醍醐天皇は真言宗山階派 大本山勧修寺建立の鎮守の神とし 造営料に社領等寄付されました
 往古より王臣家の崇敬深く社祭には刺使の差遣が御座いました また宇多天皇の皇子敦実親王は自作の尊像を奉安されるはどであり その頃より世間では神仏習合思想が流行し始め参詣者は盛んに五穀豊穣・平穏無事をご祈願されました
 やがて源氏の八幡信仰が広まりますと当宮にも武将ゃ大名より社領神宝その他数多の寄進があったと云われており 長禄二年には室町幕府 八代将軍 足利義政公より修覆造営料とし社領等の寄進も御座いました
 その数年後 羲政公の後継等複数の要因から応仁元年より文明九年の十一年間の長きに亘り洛中各所で大乱が展開されました 文明二年七月には大内政弘が勧修寺に東軍を攻め一带に火を放ち この兵火のため当宫の末摂社数多の神宝・旧記等悉く炎上焼失致しました
しかし何故か本殿だけは延焼を免れ 御神木がその身代わりにか大火のため枯れたような色になりました そこで枝を切り払いましたところ梵字=サンスクリット文字「キリーク」=がその切り口に浮かび上がりました それより種子八幡とも称され「吉利倶」の文字が充てられたとも云われております
 幸にしまして勧修寺に八幡縁記等貫重な古文書が残っておりましたので事跡の一端をそれに依って辛うじて知る事ができます
 国家安泰・武運長久に霊験あらたかと豊臣秀吉公 伏見城北東に鎮座する当宮を崇敬するも慶長三年八月十八日死去ㄝられ その遺命にて豊公重臣 寺社奉行の前田玄以が同年十二月金燈籠・木製灯籠及び社領十二石を寄進されました (以下略)』
  (説明書きより)

  

『八幡皇大御神様は 千古より常緑の空の杜に鎮守されております
元禄八年 出羽新庄藩主戸沢政寔 再建の檜皮葺の御本殿 慶応四年伏見宮邦家親王の第一王子 山階宮晃親王が拝殿を寄進 端麗な姿で鎮まり 清々しくも尊厳な空気の中に聳える御神矢は総代会が奉納したもので御座います 境内各所の燈篭や狛犬 鳥居に至るまで親王様や氏子崇敬者をはじめ御参詣の皆様が奉献されたものであり敬神の念が感じられます
 現在 古と変わらぬ神聖な姿を保ち 広大無辺なる御神威を発揮されているのは祖先から受け継がれてきた貴重な伝統や文化遺産 そして素晴らしい魂を受け継いでいる賜物で御座います 今後も皆様の御心や御志により 後世に伝えていくという意義ある使命を成し遂げなければならないと存じます
 大神様との御神縁により 当宮へ御参詣の皆様におかれましては 御賢察の上格別の御理解を賜りますよう 宜しくお願い申しあげます
八幡宮 宮司 長谷川責啓 拝』
  (境内説明書きより)

 

『京都市指定有形文化財
 八幡宮本殿
 八幡宮は仁寿三年(八五三)の創建と伝え、江戸時代までは勧修寺の鎮守社であった。
 現本殿は元禄八年(一六九五)に建築された。このときの大工は、後に勧修寺の宸殿等の造営を手掛けていることから、勧修寺の元禄復興の一環として再建されたと考えられる。その後、享保十九年(一七三四)と安永八年(一七七九)に修理が行われており、向拝部労は様式から、享保の修理時に改変されたものと推定される。
 建物は桁行三間、梁行二間で切妻造、桧皮葺の屋根をのせる。内部は、内陣と外陣が前後に仕切られるが、間仕切の位置は棟通りと一致せず正面に寄り、内陣には祭壇が設けてある。
 この本殿は、向拝が改変されているものの、当初の姿をよく伝えており、江戸時代中期の大型の切凄造平入本殿として、その価値は高い。
 昭和六十二年五月一日指定
 京都市』
 (駒札より)

  

 八幡宮は以前、桜の撮影に来ている。普段は花の景色というのはほぼないに等しいわりと そっけない雰囲気の境内の神社だ。しかし桜はほぼ名所と言ってもいいくらいに境内の周りに咲き誇り、素晴らしい風景を呈してくれる。創建は平安時代で北側にある勧修寺の鎮守社として位置付けられていた。桜があるならばその前の梅もあるのではないかと予想をつけて訪れる。

 
 
 境内前に広い駐車場があり、そこに小さな赤い鳥居がある。そこから少し石段を上がっていく。ほどなく広い境内に本殿が見えてくる。この本殿は江戸時代初期の再建であり、今では京都市の有形指定文化財となっている。さすがにその造り、そして絵模様などは見事の一言だ。しかし広い境内には梅の花は見当たらない。境内の周囲を順番に回っていく。

    

 すると北側の端に比較的小さな梅の木があった。かなり散ってはいたが、白梅の木だ。近づくと小さな白い梅の花があちこちに伸びた枝にへばりついている。こんなに広い境内の中にわずかこれ1本しかないのか、などと思いながらもあらゆる角度から撮影していく。本殿などを背景にするとなかなかいい構図となる。まあなんとか間に合ったと言った感じだ。こうして白梅を撮影し、少し満足感を得て境内を降りようとしたその時に、なんと石段の北側に大きな紅梅が目に入った。かなり大きな木で四方八方に伸びた枝に、桃色の梅の花がこれでもかというほど咲き誇っている。まさかこんなところにあるとは。夢中になって写真を撮っていくが、境内の少し外れで地面は緩やかな坂になっており、気をつけないとそのまま滑り落ちてしまいそうだ。しかしなんとか花まで近づいて、これまた撮れるだけ撮っていく。残念ながらバックは山科盆地の町の風景となる。神社そのものを背景にすることはできなかった。

 こうして小さな白梅と大きな紅梅を撮影することができて、そこそこの満足感を得ることができた。今後機会があればいずれも満開の最中に訪れてみたいとは思う。

    
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