切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

2024年 梅の花 水度神社~久世神社~荒見神社・・重文 京都府城陽市 2024.2.26 訪問

2024-03-02 22:37:04 | 撮影
 城陽市は京都府南部、山城盆地の中にある新興住宅地の、いわゆる衛星都市となる。人口 約7万人。名前の由来は公募によるもので市になった時に、山城地方の「城」と、日に向かっているというところから「陽」の文字を当てはめたという。この文字には縁起のいい という意味もあるようだ。
 この日は城陽市内にある有名な神社、三社を訪れる。本殿はいずれも「国の重要文化財」に指定されている非常に由緒のある神社だ。どれだけ梅があるのかは十分にわからなかったが、少なくとも水度神社及び久世神社には見られることは知っていた。荒見神社については しだれ桜が有名だが、梅についてはあるのかどうか、全く知らなかった。ともあれこの三社を訪れて撮影に挑む。

 水度神社は参道の入り口に、すぐ横の民家から大きな梅の木の枝が伸びており、白梅がちょうどいい具合に入り口を覆っていた。長い参道を上がって境内に到着すると、本殿の周辺に白梅と紅梅が見られる。白梅はまだ何とか見られたが、紅梅はほぼ終わりかけ。これは残念というほかない。例年ならば3月までは大丈夫のはずだが、去年からの異常気象の影響で咲くのが早く、また散るのも早かったということになるのだろう。

 久世神社はこの水度神社から北の方にある。周辺は相当古い久世廃寺の跡があり、その隣に本殿が建っている。本殿以外の境内の周辺は再整備された形になっており、非常に新しく綺麗になっている。従って本殿だけが長い歴史を経て今に伝わるというものだ。無論その本殿も彩色が繰り返されており、今現在は極めて美しい色に溢れている。
 その本殿の周りに紅梅と白梅が見られる。紅梅の方はこれはまだ蕾というか何かよくわからない状態で、少なくとも開花はしていなかった。白梅は綺麗に開花していた。

 荒見神社は逆の南の方にある。すぐ隣が大きなスーパーだ。ここは鳥居をくぐるとすぐに 中規模のしだれ桜の木が、細い枝を円状に伸ばしている。4月になると見事な桜の花が参拝者を魅了する。ちょっとした桜の名所だと言える。
 梅については境内を見回しても全く見当たらない。とりあえず境内の周囲をゆっくり回ってみる。すると1箇所だけ長い棒に巻きつくように白梅の枝が伸びており、白い花を咲かせていた。植物に疎い私にはこれは白梅 なんだろうか、との疑念が湧いたが、花そのものの形はやはり梅だろうと思う。そのように理解してこの貴重な1箇所の花を何枚も撮影した。

  実は城陽市には京都府最大の規模を誇る「青谷梅林」があって、梅まつりも催されている。約1万本の梅の木は低木の品種で、ほとんどが白梅となる。そういった意味では高さがない分だけ迫力には欠ける。以前一度訪れて撮影をしている。あくまでも梅林であって、どこかのお寺や神社の境内というわけではない。そういった点からは私にとってはやや物足りなさがあった。しかし京都の梅の名所という意味では、必ずガイドブックやネット上で真っ先に紹介されるのがこの梅林だ。

水度神社

  

『延喜式内社  

水度神社ご由緒
一、ご祭神
 天照皇大神
 高皇産霊神
 和多都美豐玉姬命
二、境内小宮社(十社)
 天満宮社 日吉神社
 太神宮社 加茂神社
 八幡神社 嚴島神社
 松尾神社 稲荷神社
 春日神社 竜王神社

三、神社のご由緒

 当社は、平安時代に編集された「三代実録」によれば、清和天皇の貞観元年(八五九年)に従五位下の神位が授けられ、「延喜式」神名帳にのせられた官社 (「式内社」)であります。
 また、「山城国風土記」逸文に「久世の郡の水渡社 祇社」とあることから、少なくとも奈良時代(八世紀の初め)には確実に存在し たことがうかがえます。
 明治六年(一八七三年)には村社、同十五年(一八八二年)には郷社、同四十年(一九〇七年)には府社に昇格、現在は神社本庁に属する宗教法人水度神社と称しています。
 社伝によれば旧社地は境内の東に往古、鴻が巣を結んだという 鴻ノ巣山の峰つづきにあたる大神宮山であったと伝えられており、鎌倉時代の文永五年(一二六八年)に、旧地より現在の地へ遷し奉り、今日に及んでいます。
 本殿は正面一間、側面二間の一間社で、屋根は切り妻造りの正面側を前に伸ばした流造りという形式をしています。 屋根正面には、千鳥破風という三角形の装飾屋根がついており、簡素にして優美な建物です。
 本殿造営の棟札 (重文指定)によれば、室町時代の文安五年(一四四八年)の建立とされ、造営年代が明らかな建物としては城陽市内最古の建物であります。
 その後、檜皮葺替えの修理が重ねられ、令和元年(二〇一九年)に 三十七年ぶりの改修をおこない現在に至っております。
 本殿は、国の重要文化財に指定されています。

四、神社の大祭
 例祭 九月 三十日
 大祭 十月二日

五、文化財
 水度神社本殿 【国指定重要文化財】室町)
 おかげ踊り図絵馬 【京都府指定登録文化財】 (江戸時代)
 大般若経【城陽市指定文化財】(鎌倉時代)
 鉄湯釜【城陽市指定文化財)(宝町時代) 』
  (説明書きより)

   

『水度神社本殿(重要文化財)
 水度神社
 鴻ノ巣山のふもとにある水度神社は、旧寺田村の産土神で、祭神は天照皇大御神・高御産霊神・少童豊玉姫命です。「山城国風土記」逸文に、「久世の郡水渡の社祇社」とあることから、風土記が編さんされた奈良時代には存在したと考えられます。平安時代前期に成立した『延喜式』には、「水度神社三座」と記されています。
 重要文化財の本殿は一間社流造で、文安五年(一四四八年)に造営された市内に現存する最古の建物です。屋根は檜皮葺で、正面に大きな千鳥破風があります。また庇の正面中央には、透彫の唐草と笹りんどうをあしらった欄間がつけられ、意匠を凝らした優美な建物です。
 水度神社には京都府登録文化財の「おかげ踊り図絵馬」と、城陽市指定文化財の「鉄湯釜」、「大般若経」があります。「おかげ踊り図絵馬」は、文政十三年( 一八三〇年)十一月一日に寺田村北東町の人々が水度神社に奉納したおかげ踊りの様子を描いたものです。
「鉄湯釜」は、湯立て神事に使われていたと考えられ、銘文から応永三十二年(一四二五年)
に作られたことがわかります。
「大般若経」は、鎌倉時代前期にまでさかのぼる書写経で、村落における信仰の歴史を知る貴重な資料です。
城陽市教育委員会』
 (境内説明板より)

    


久世神社

 

『由緒 記

旧久世村の産土神で、日本武尊を祭神としている。
その創祀年代はあきらかでないが、本殿の建物が室町末期の建築であることからみて、それ以前からの鎮座であることが想像される。
もとは若王社といったが、明治維新の時に今の名にあらため、明治七年郷社に列せられた。
明治三十九年重要文化財に指定された。
末社として竜王神社、稲荷神社がある。
特別祭祀として例祭にさきだつ十月五日・六日の両宵に御旅所(久世南垣内)において迎火として大篝火を献ずる。
 宗教法人 久世神社』
 (駒札より)

   

『国指定史跡 久世廃寺跡
 久世廃寺は、塔を東、金堂を西に置く法起寺式の伽藍配置をとります。寺域は東西約一二〇m、南北約一三五mと推定されており、寺跡の大半は久世神社の境内地となっています。境内には塔跡・金堂跡・講堂跡が、土壇として残っています。
 塔跡は、東西四一二.七m、南北一三.四mの瓦積基壇と推定されています。金堂跡は東西二六.七m、南北二一.三mの瓦積基壇です。講堂跡は、東西二三.五m、南北一三mの瓦積基壇で、基壇上には七間(二一m) ×四間(一〇.五m)の四面庇をもつ建物があったことが確認されています。南門跡は、南北四.三m、東西ハm以上の基底部が確認されています。
 南門跡北側の瓦溜まりからは、像髙六.九㎝(頭頂~足裏)の金銅造の誕生釈迦仏立像が出土しています。
 また東側の市道沿いでは、補修用瓦を焼いたと考えられる瓦窯跡がみつかっています。発掘調査により、奈良時代前期に創建され、八世紀中頃に建物が整備され、一一世紀前半に廃絶したと考えられています。
 寺域北東側の丘陵上には、六世紀に築造されたと考えられている芝ヶ原一~七号墳(前方後円墳二基、円墳五基)があります。』

  

『重要文化財 久世神社本殿

 丹塗りの一間社流造、檜皮葺で、柱上部・組物・庇水引虹梁・庇蟇股などを極彩色に仕上げています。内部は内陣と外陣に分かれ、内陣正面には弊軸付板扉、外陣正面に引違の格子戸を四枚たてています。内陣正面の板扉には扉二枚にわたり大きな松を描き、左右の脇羽目板にも草花を描いています。内陣正面の欄間中央に巴紋、左右に六弁の花紋を飾っています。外陣正面には透彫り欄間をいれ、単純化した唐草文様を柱間一間分にわたって彫刻した中に中央に菊、左右に各二個ずつ計四個の桐を配しています。
 建立年代は明らかでありませんが、室町時代中期とされています。
 城陽市教育委員会』
 (境内掲示板より)
 


荒見神社

 

『荒見神社
 一棟 重要文化財 荒見神社本殿
 1棟、京都府登録文化財 境内社御霊社
 荒見神社文化財環境保全地区

 旧富野村の産土神。社伝によれば、もと五社ケ谷にあったが、室町時代(十五世紀ころ)に現在地に移ったという。当社は、祭神が多い (五柱)のが特徴。社叢は水田の中に立つ森で、アラカシ・シイ・クスが繁茂している。
 周囲には堀割がめぐる。南面の鳥居をくぐると薬医門があって神社としてはめずらしい、神仏習合時代のおもかげを残している。
 境内に入ると西面して本殿が立つ。富野の有力大工の手になるもので、桃山期建築の特徴をよく示す。本殿は慶長九年(一六〇四)の棟札をもつ三問社流造、檜皮葺。本殿右側の境内社御霊社は、一問社流造、檜皮葺の小規模な建物。建立時期について、蟇股は本殿のものより古い室町後期頃の特徴をもつが、組物、木鼻は近世のもので本殿と共通する。
  城陽市教育委員会』

    

『御由緒
御祭神
 天火明尊 アメホアカリノミコト
 天香語山尊 アメノカグヤマノミコト
 天衬雲尊 アメノムラクモノミコト
 阿比良依姫尊 アヒラヨリヒメノミコト
 木花開耶姫尊 コノハナサクヤヒメノミコト
攝社御祭神 天兒屋根尊 アメノゴヤネノミコト
例大祭 十月一日~五日(おいで祭)

おやしろは皇紀一三〇七年即ち大化三年に五社谷の淨地に創建され寛正二年三月に今の神地に御遷宮 御社殿は慶長九年九月三日再建 明治中期まで安羅見天神宮の御社号なり
 三間社流造で元国宝学業達成子守の神様、緣結、安産、育児、延命宝寿、子孫繁栄、事業隆盛、交通、航空安全、建築業に豊運の御加護を垂れ給ふ神々をまつる信仰社
神井の湧水は諸禍退散生命根源の神水なり
古くより宮座あり古儀を伝えて西富野宮座現存す
 昭和五十年五月吉日
 奉 大阪(有)越野看板店』
 (境内説明看板より)

  
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