切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

2024年 桜の花 安楽寿院・・・鳥羽離宮の夢の跡  京都市伏見区 2024.4.1 訪問

2024-04-05 22:58:42 | 撮影
   

『安楽寿院
 真言宗の寺。保延三年(一一三七)鳥羽離宮の東殿を寺に改めたことに始まる。開基は鳥羽上皇、覚法法親王を導師に落慶した。保延五年(一一三九)本御塔と呼ばれる三重塔が建立され、続いて九躰阿弥陀堂、焔魔堂、不動堂等が建てられた。保元元年(一一五六)鳥羽法王(上皇)が本御塔に葬られた。鳥羽天皇安楽壽院陵はそのあとである。
保元二年(一一五七) 、皇后美福門院は新御塔を建立、ここには後に近衛天皇の遺骨が納められた。近衛天皇安楽壽院南陵がそれであり、現在の多宝塔は慶長十一年(一六〇六)、豊臣秀頼により、片桐且元を普請奉行として再興されたものである。
 現在の安楽壽院は真言宗智山派に属し、本尊阿弥陀如来坐像(重要文化財)は鳥羽上皇の御念持仏と伝えられ、胸に卍が記されているため卍阿弥陀とも呼ばれる。境内は京都市史跡に指定され、平安時代の三尊右仏、鎌倉時代の石造五輪塔(重要文化財)、冠石が現存し、孔雀明王画像、阿弥陀聖衆来迎図、普賢菩薩画像(いずれも鎌倉時代、重要文化財)等を所蔵する。
 なお、当院は鳥羽伏見の戦のおりには官軍(薩摩軍)の本営となったところである。
 京都市』  (駒札より)

    

『鳥羽離宮跡
 鳥羽離宮は、平安時代後期に白河上皇の院政開始の象徴として造営が開始された御所と御堂および苑池からなる広大な離宮である。
 その範囲は、東西1.5km、南北1kmにもおよび、 当時の日記に、「都遷りがごとし」といわれるほどであった。 この地は、平安京の朱雀大路からまっすぐ南に下がった場所にあたり、 現在とちがって鴨川は東から南に流れ、西には桂川が流れて、水閣を築くのに絶好な地形であった。
 造営は、応徳3年(1086) はじまり、北殿・南殿・泉殿・馬場殿などがあいついで完成した。 これらの殿舎は、右にかかげた広大な池に接して造られ、船で行き来していた。各々の殿には寝殿を中心に殿舎や御堂 (仏像を安置) が建ち並び、次の鳥羽上皇の時代に入って、 東殿・田中殿の造営が加わり、それぞれ苑池も造られた。
 このうち現在の安楽寿院を含む東殿には、三重塔3基、 多宝塔1基が築かれるなど、ほかの殿とは異なった様相を呈していた。 そしてこれらの塔には、 白河法皇 (成菩提院陵) や鳥羽法皇(安楽寿院陵)、近衛天皇(安楽院南陵、再建多宝塔が現存) の御骨が収められ、墓前に御堂が造られた。
 このように東殿の区域は、死後の世界を用意したもので、まさしく極楽浄土を現世に築きあげたことが分かる。
 院政最盛期の証でもある鳥羽離宮跡は、当時の最高の文化と技術を駆使して築かれたが、院政の終焉とともに衰退し、地上からその姿を消していった。
 この鳥羽離宮跡の発掘調査が開始されたのは、1959年の田中殿跡の調査からである。 以後1984年までには100次をこえる調査が実施され、南殿の殿舎や苑池跡、北殿経蔵や苑池跡、田中殿金剛心院跡、東殿苑池跡の発見など大きな成果をあげている。
 これらの調査を自ら始められ、地元の方々や多くの調査関係者らとともに 当初から手がけてこられたのが杉山信三博士 (1906〜1997) である。ここに示された鳥羽離宮復元鳥瞰図は、博士の長年の調査成果を集大成されたもの で、鳥羽離宮跡顕彰の石杖として、阿弥陀如来座像や石製五輪塔(いずれも重文指定)など、往時の文化財を今に伝える安楽寿院境内に置くこととした。
  1998年12月』  (説明板より)

   

 安楽寿院には何度も訪れている。春の桜そして秋の紅葉ともに見応えがあり、素晴らしいところだ。この土地には今から約1000年前に、大きな鳥羽離宮が造営された。つまり人工的に川の水が引かれ、大きな池が作られ、それらの北端に多くの御殿が建築され、貴族たちや天皇、あるいは上皇などが優雅な暮らしをしていた場所だ。これらは何度も何度も繰り返された発掘調査によって明らかとなり、今では安楽寿院の前に当時の想像図が描かれている。この安楽寿院は当時の御殿の一部が、寺に改められ今現在に至るものだ。平安時代の後期に、当時の建設技術の粋を集めて、貴族たちのために大勢の農民たちが動員され、造られた。人工の鳥羽離宮において優雅な生活を楽しんでいた貴族たちには、下層階級であった農民たちの苦しみなどに思いを寄せることなどなかっただろう。

   

  後に院政が事実上衰退するに伴って、この鳥羽離宮も放置され衰退し、いつしか 荒れ地などになっていく。そしてその後にこの安楽寿院が残され、また近くには鳥羽天皇の墓が残されるものの、長い歴史の中ですっかり忘れ去られてしまった。様々な記録から発掘調査が進められ、その全貌がかなり明らかになったというわけだ。

  安楽寿院の門はいつも閉ざされており、ずいぶん前に一度だけ通用口 から境内に入り、撮影をしたことがあるが、それ以降は直接塀に囲まれた境内には入っていない。その西側に塀も何もない区域があって、様々な本堂に当たる建物その他が配置されている。従って様々な寺としての必要なものはほぼ揃っているという感じだ。鐘楼や鎮守社など、そして多くの木々に囲まれている。境内前の石畳の道沿いに桜並木が続く。これが一斉に開花しほぼ満開に近くなると、なかなか見応えがある。

  ここは京都の桜の名所としては特にガイドブックその他には紹介されてはいない。やはり全体としては規模が小さいということになるのかもしれないが、私的には十分名所というにふさわしい。基本は白い花の桜が中心で、一部桃色の桜の木もあるが、全体として様々な建物を背景に写すことができる。撮影中にも ポツリポツリと人がやってきて写真を撮っている。ここを知っている人は近所以外ではあまりいないだろうと思われる。この比較的近くには城南宮という桜などの名所があり、そちらの方は大勢の観光客で賑わう。それこそ名所というにふさわしいところで、新聞やネットなどでもよく紹介されている。

  

 今回は桜撮影だが、特に桜がない シーズンであっても緑が豊かで、それはそれで風情があり、非常に落ち着けるような雰囲気のいい場所となる、。シーズンによって雰囲気が変わるもののいつ行っても、さすがにかつての御殿であったような場所であり、それらの遺構を頭の中に思い浮かべながら過ごすのもいいものだと思う。


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