ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
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宗教18~宗教の役割と真価

2018-04-16 10:44:46 | 心と宗教
●宗教の役割と真価

 古来、宗教は、それを実践する者にユングの言う自己実現すなわち自我自己不可分化の過程について教え、その過程を歩む者を守り、導く役割をしてきた。
 ユングは、「宗教とは、ある目に見えず制御することもできない要素を、慎重に観察し顧慮することであって、人間に固有の本能的な態度である。それは明らかに心のバランスを保つのに役立っている」(「現在と未来」)と述べている。
 自己実現の過程で最も重要なことの一つは、元型の一つである「影」への対応である。影とは人格の劣等な部分であり、人間の原始的で本能的な側面である。人は、しばしば自分の中にある劣等な部分を他者に投影し、その他者に軽蔑や怨恨や憎悪や敵意を向ける。この他者に投影されるイメージが、影である。
 ユングは、影の中には本当の自分である「自己」が隠れているに違いないと考えた。そして、「自己へ至る道は影を通ってゆく。影――彼こそは『門番』であり、『入口の見張り番』である」と述べている。それゆえ、影の存在に気づき、それが自分の心の一部であることを認めることが、「自己へ至る道」となる。そして、影と戦ってそれを克服することが、自己実現において重要な努力となる。このことを、最も深く認識し、実践の重要課題としてきたのが、従来の宗教である。
 仏教には、釈迦について次のような説話がある。釈迦は難行苦行の後、その愚かさを知り、菩提樹の下で瞑想して悟りに至ったとされる。釈迦が悟りを得る直前に、悪魔マーラが現れ、彼を誘惑して、正しい道から外させようと試みる。
 マーラは言う。「ブッダ(目覚めた人)になるとか、解脱を得ることなど、できるものではない。それよりもこの世の支配者として皇帝になればいいではないか。でなければ天上に昇って私の位につくがよい」と。だが、釈迦は心を動かさない。
 次に、マーラは若さと美貌を誇る娘たちに対して、「さあ、いっしょに遊びましょう。瞑想して悟るなんて無駄なことよ」と言って、釈迦を誘惑させる。だが、やはり釈迦は全く心を動かさない。
するとマーラがいる間は近づいて来なかった天上の神々が釈迦の周りに現れ、色とりどりの花をまき散らして釈迦を祝福した。マーラとその仲間たちも、神々の間から顔をのぞかせ、一緒に釈迦の心意気を喜んだ、とされる。
 キリスト教の新約聖書には、次のような記述がある。

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 さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。
 すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」
 次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」
 イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」
 そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。」(マタイによる福音書第4章1節~11節 新共同訳)
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 これらの釈迦とイエスの話は、非常によく似ている。開祖に関することで仏教がキリスト教に影響を与えたとは考えにくい。それゆえ、集合的無意識から現れた共通したイメージが示されたものだろう。釈迦/イエスは自己実現の過程における最高到達点を象徴している。一方、彼らを誘惑するために現れた悪魔は、影の元型的なイメージである。
 釈迦/イエスの話が示唆しているのは、自己実現への道を歩む者は、影としての人間性の劣等な部分、人間の内なる悪魔的なもの、魔性を克服しなければならないということである。人格的に高く向上を続けても、心に隙や慢心を生じ、内なる悪魔的なものに支配されるようになると、物欲・金銭欲・性欲等の欲望を制し得なくなったり、権力欲・支配欲が高じて独裁者や虐殺者に変じたりする。
 宗教的な天才ならぬ凡人が自己実現の過程を堅実に進むためには、確かな指針と優れた指導者が必要である。心の現象について深い知識を持たない者が、独力で進もうとすると、予期せぬ難関にぶつかったり、陥穽におちいってしまう。自分の統合に失敗して精神病になったり、人格が崩壊してしまう場合もある。
 人類の長い歴史において、既存の宗教は自己実現への道を導くものとして機能してきた。しかし、宗教の指導者の中にも、修行と善行の実践の過程で、悪や魔の道に迷い込む者がある。明らかに精神に異常をきたしたと見られる者もいる。一切の妄見邪念を払拭して、完全に人間性の負の側面を克服し、精神的な勝利者となり得る者は、極めて希のようである。確実な道を歩むには、その自分を守護し、善導する正しい指針と、人格の発展を促す偉大な力を受けることが、極めて重要となる。
 ここで偉大な力とは、個人的無意識・家族的無意識に蓄積した負の要素を消滅・浄化し得る精神的なエネルギーである。単に考え方や方法を示すだけでなく、実際に悪因縁を消滅・浄化し得る力があってこそ、宗教は人々の自己実現への道を照らし、導くものとして、真の価値を発揮するだろう。

 次回に続く。