ほそかわ・かずひこの BLOG

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キリスト教133~ベルクソン:愛の飛躍による人類の進化

2018-12-18 09:26:09 | 心と宗教
●ベルクソン~愛の飛躍による人類の進化

 アンリ・ベルクソンは、1859年にポーランド系ユダヤ人を父、イギリス人を母としてフランスに生まれた。20世紀前半を代表する哲学者の一人であり、また当時の世界的知性の一人として尊敬を集めた。
 ベルクソンは、自分の哲学を意識に直接与えられたものの考察から始めた。ベルクソンは、一般にいう時間とは、空間的な認識を用いた分節化によって生じた観念であると批判した。そして、分割不可能な意識の流れを「持続」(durée)と呼んだ。そして、意識は、異質なものが相互に浸透しつつ、時間的に継起する純粋持続として、自由であることを主張した。
 次に、ベルクソンは心身問題を考察した。実在とは持続であるとする立場から、持続が弛緩した極限は、記憶を含まない瞬間的・同時的な純粋知覚としてのイマージュであり、持続の緊張の極限は、すべての過去のイマージュを保存する持続的な純粋記憶である。前者が物質であり、後者が精神であるとした。身体と精神は、持続の律動を通じて相互に関わり合うことを論証し、デカルトの物心二元論を乗り越えようとした。
 こうして持続の一元論から意識・時間・自由・心身関係を説くベルクソンは、その学説をもって、生命とその進化の歴史を考察した。その取り組みは、ダーウィンの進化論を受け入れつつ、進化論から人間の精神性を守ろうとするものだった。
 1907年刊の著書『創造的進化』は、持続は連続的に自らを形づくる絶えなき創造であるという思想に基づく。ベルクソンは、事物を固定して空間化する知性や、限られた対象に癒着した本能では、持続としての実在の把握はできない。自己を意識しつつ実在に共感する直観によらなければならないと説いた。そして、進化を推し進める根源的な力として、「生の躍動」(élan vital、エラン・ヴィタール)を想定し、エラン・ヴィタールによる創造的進化として生命の歴史をとらえた。生命の根源には、超意識がある。超意識に発する生命は、爆発的に進行しながら、物質を貫いていく流れである。その流れは、動物・植物に分かれ、様々な種に分裂してきた。その先端に、自らを意識する人類が立っていると見た。
 さらにベルクソンは、この創造的進化説をもとにして、1932年刊の『道徳と宗教の二源泉』においては、人類の精神的な進化を論じた。人間性を特色付けるものは、道徳と宗教である。ベルクソンは、この二つを単に文化科学的にではなく、どこまでも生物現象の発展としてとらえ、生物現象においてすでに現れる社会生活を土台にして道徳と宗教を論じようとした。
 道徳と宗教の第一の源泉は、自然発生的な「閉じた社会」における防衛本能である。その社会は、社会的威圧が個人を支配する停滞的・排他的な社会であり、閉じた道徳と迷信的な「静的宗教」に支えられている。道徳と宗教の第二の源泉は、愛である。「閉じた社会」は、実在を直観によって把握する道徳的英雄や宗教的聖者の働きかけによって、「開かれた社会」に飛躍し得る。開かれた道徳は特権的人格のうちに体現され、それを模倣する人々によって実現する。「静的宗教」は、愛を人類に及ぼす「動的宗教」に替わると説いた。生が真に創造的であるなら、生命は生物的人類をさらに突き破って前進すべきではないか。それを実現するものこそまさに動的宗教である。動的宗教とは創造的宗教であり、それこそ真に生命を無限の創造に導くものである、とベルクソンは説いた。
 ベルクソンによると、開かれた魂の出現は、唯一の個体からなる新しい種の創造であり、生命の進化の到達点を示す。彼らの愛は人類を包み込み、動植物や全自然にまで広がる。その愛は、特権的な人々に全面的に伝えられた「生の躍動」であり、彼らは「愛の躍動」(élan d'amour、エラン・ダムール)を全人類に刻印しようとする。われわれが彼らの呼びかけに応える時、人類は被造物である種から、創造する努力に変わり、人類を超えた新たな種が誕生するだろう、とベルクソンは述べた。
 ベルクソンは、宗教のもとにあるものとして神秘主義を評価した。「宗教とは、神秘主義が燃えたまま人類の魂のうちへおろしたものがーー知的冷却の作用によってーー結晶したもの」と見た。そして、「神秘主義の位置は、物質中を貫いて放出された精神の奔流が、おそらく達しようと望みながら現実には到達できなかった地点にある」とした。
 ベルクソンはユダヤ教を宗教的背景に持ちながら、カトリック教会にユダヤ教の完成形態を認め、完全な神秘主義は、愛としての神との合一を目指すキリスト教神秘主義であるとした。
 このように書くと、ベルクソンは、非科学的な神秘思想家だったと思う人がいるだろう。しかし、彼は、進化論のみならず、アインシュタインの相対性理論を哲学的に検討したり、実験科学的な心霊科学の進歩に期待するような、実証主義的・経験主義的な形而上学者だった。 
 ベルクソンは、大意次のように書いている。「科学がまず力を傾けたのは、物質だった……物質の科学的研究が精神のそれに先立って行われた……それは要するに、最も差し迫った仕事にまず取り掛からねばならなかったからである……幾何学から物理学へ、化学へ、さらに生物学へと広がっていったあの正確さ、厳密さ、そして証明を求める心へ、精神科学が独力で達することは望み得ぬことだったろう、--そうした要件が物質科学から精神科学へと跳ね返って新しい展開を見るまでは」と。
 ベルクソンは、人類の課題について、次のように述べた。「人類は今、自らのなしとげた進歩の重圧に半ば打ちひしがれてうめいている。しかも、人類の将来が一にかかって人類自身にあることが、十分に自覚されていない。まず、今後とも、生き続ける意志があるのかどうか、それを確かめる責任は人類にある。次にまた、人類はただ生きているというだけでよいのか、それともそのうえさらに、神々を生み出す機械というべき宇宙本来の職分がーー言うことを聴かぬこの地球上においてもーー成就されるために必要な努力を惜しまぬ意志があるのかどうか、それを問うのもほかならぬ人類の責任なのである」と。
 ベルクソンは、機械文明が発達し、世界戦争が繰り返される危機の時代に、人類の精神的な進化を願い求めつつ、1941年に死去した。彼の思想は、進化論を全く否定する者には異端的な思想だが、キリスト教に対して、進化論を受け入れたうえで、宗教の意義を提示し得る可能性を示している。彼は、物質科学の成果を踏まえて人間の霊魂や超能力、死後の世界を科学的に研究する精神科学の発達によって、宗教がより高次のものに発展することを期待していたと見ることができる。

 次回に続く。

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