ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
この日本をどのように立て直すか、ともに考えて参りましょう。

4・28政府主催の主権回復記念式典が開催

2013-04-26 08:53:15 | 時事
 わが国は、敗戦後、約6年8か月という現代世界史上、異例に長い占領期間を経て、昭和27年4月28日、晴れて独立を回復した。この4月28日を「主権回復記念日」にしようという運動が、平成9年から続けられている。発起人は拓殖大学名誉教授の井尻千男(かずお)氏、東京大学名誉教授の小堀桂一郎氏、明治大学名誉教授の入江隆則氏の三氏である。私は、この運動を知った平成11年より微力ながら国民同胞の啓発に努めてきた賛同者の一人である。
 主権回復記念日運動は、年々賛同者が増えてきた。賛同の輪は、国会議員の間にも広がっている。平成23年8月、自民党の「4月28日を主権回復記念日にする議員連盟」(野田毅会長)は、4月28日を祝日にする祝日法改正案を衆院に提出し、サンフランシスコ講和条約発効60周年にあたる昨年からの施行を目指した。だが、これは実現しなかった。その後、まずは式典を定例化することから始めようという取り組みがされてきた。自民党は、昨年12月の衆院選の総合政策集「Jファイル」に「政府主催で4月28日を『主権回復の日』として祝う式典を開催」と明記した。
 衆院選で自民党が圧勝し、政権交代によって、第2次安倍晋三内閣が成立した。安倍首相は、3月7日の衆院予算委員会で、4月28日の式典について「主権を失った7年間の占領期間があったことを知らない若い人が増えている。日本の独立を認識する節目の日だ」と意義を強調した。そして、安倍内閣は3月12日の閣議で、サンフランシスコ講和条約が発効し、日本の独立が回復してから、61年を迎える今年の4月28日に「主権回復の日」として政府主催の式典を開くことを決めた。天皇、皇后両陛下も出席される。画期的なことである。
 安倍首相は、先の閣議で「式典にあたっては奄美群島、小笠原諸島、沖縄が戦後の一定期間、わが国の施政権の外に置かれた苦難の歴史を忘れてはならない」と強調し、講和条約発効で主権を回復したが、本土復帰まで米軍統治下に置かれた沖縄等に配慮した。
 沖縄県では、条約発効により米国の施政権下に置かれたこの日を「屈辱の日」と呼ぶなど一部に否定的な感情もある。菅官房長官は、閣議後の閣僚懇で、「沖縄の苦難の歴史を忘れてはならない。沖縄の基地負担の軽減に取り組むとともに、沖縄を含めたわが国の未来を切り開いていく決意を新たにすることが重要だ」と指摘した。また記者会見では、式典の意義について「わが国による国際社会の平和と繁栄への責任ある貢献の意義を確認するとともに、わが国の未来を切り開いていく決意を確固としたものにする」と説明した。
 政府主催の「主権回復・国際社会復帰を記念する式典」は、今年限りの開催の予定だという。それでは、60年目の年にできなかったことを、1年遅れで行うというだけになってしまう。そもそも4月28日の重要性を啓発する運動の目的は、この日を「主権回復記念日」にし、また国民の祝日にして、毎年意義ある行事や活動をしようというところにある。その主旨を再度確認し、政府主催の式典開催を第一歩として、祝日化を推進すべきである。
 小堀氏らが「主幹回復記念日」を提唱した当時の呼びかけ文によると、昭和20年8月15日は終戦の日ではない。その日に終わったとされるのは、彼我の間の戦闘状態にすぎない。「法的現実としての真の終戦の日は、軍事占領から完全に解放された昭和27年4月28日である」。4月28日は、わが国とその敵国であった連合国との間に結ばれた平和条約が効力を発生した日付である。「従って国際法的に本来の意味での大東亜戦争終戦の日である」。また同時に、「それまで旧敵国支配下の被占領国であった我が国が晴れて独立自存の国家主権の回復を認められた日付」である。「その日、我が国は、連合国による被占領状態が解消し、国家主権を回復した」のである。
 ところが、日本国民は、わが国の終戦手続き中の最重要案件であった国家主権の回復を、それにふさわしく認識し自覚しなかった。そして、この重要な日を然るべく記念することをせずに、「歴史的記念の日の日付」を「忘却」している。そして、「毎年8月15日のめぐり来るたびに、東京裁判の判決趣旨そのままに、過ぐる戦争への反省と謝罪を口にし、5月3日ともなれば占領軍即席の占領基本法たる1946年憲法への恭順を誓う」。こういうことを繰り返している。そのため、政府も国民も、ますます主権国家としての認識を欠き、主権意識の自覚を欠いている。それは、講和条約の締結によって、被占領状態が終ると共に、戦後処理は基本的に終結したという認識を欠くためである。
 それゆえ、小堀氏らによると、国民が記念すべき日は8月15日ではなく、4月28日である。8月15日は、敗戦による戦闘状態の終結と軍事占領時代の開始の日である。これに対し、4月28日は、連合国との講和条約が発効し、被占領状態の終結と独立の国家主権の回復の日だからである。そして、氏等は、「主権意識の再生と高揚」を推し進め、4月28日を、アメリカにおける独立記念日に当たるような国家的な記念日に制定しようと唱えているのである。
 私は、主権回復記念日運動を進める方々が、主権とその回復の重要性を指摘していることには、異論がない。ただし、名称と意義付けは、今のままでは一部の人には混乱を与え、多くの人には中途半端な印象を与えると思う。昭和27年4月28日における「国家主権の回復」とは、部分的限定的回復に過ぎない。この日は、そこから全面的回復に向かうためのスタートとなった日であって、それ以上ではない。
 憲法を改正して自主憲法を制定すること、自力で自国の国防を行う国軍を持つこと、不法占拠されている領土を回復すること。これらを成し遂げてはじめて、「国家主権の確立」と言える。4月28日は主権の回復をし終えたことを記念する日ではなく、主権の部分的回復を祝うとともに、主権の全面的回復という課題を確認し、主権の確立を決意する日とすべきと思う。本年の政府主催の式典を第一歩として、4月28日の意義を国民に知らしめ、国民の祝日である国家的な記念日とする運動を推進すべきである。
 今月18日主権回復記念日運動の提唱者の一人、小堀桂一郎氏が産経新聞の「正論」に、主権回復記念日運動に関する寄稿をした。参考に転載する。

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●産経新聞 平成25年4月18日

http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130418/plc13041803230003-n1.htm
【正論】
東京大学名誉教授・小堀桂一郎 主権国家の「実」を示し、誇る日に
2013.4.18 03:21

 政府は来る4月28日の対連合国平和条約発効61年目の記念日に、我が国が米軍による軍事占領といふ亡国的事態を脱却し、独立の国家主権を回復した歴史を記念する式典を、政府主催で挙行する旨を決議し、公表した。正式には「主権回復・国際社会復帰を記念する式典」と呼ぶ由である。

≪被占領期の悲哀を語り継げ≫
 平和条約発効の日付を以て主権回復記念日とせよ、との聲(こえ)は早い時期から揚つてゐた。少くとも、筆者を含む少数の草莽(そうもう)の有志が「主権回復記念日国民集会」の開催を呼びかけて実行に移した平成9年4月以来連年、筆者は本紙のこの欄を借りてその意義を訴へ続けてきた。
 本年は運動を始めてから満16年、集会は第17回である。集会開催の主目的は、4月28日を「主権回復記念日」の名で国民の祝日とすべく祝日法の一部改正を求めるといふものだつた。
 もちろん、休日を一日ふやす事(こと)が目標なのではない。
 辛うじて戦中派の世代に入る発起人一統が、被占領期に体験した数々の敗戦国民の悲哀の意味を、それを体験してゐない後の世代の人々に語りつぎ、その記憶を分有してもらひたい、そして国家主権を他国に掌握されてゐるといふ屈辱的事態、又(また)その悲劇を専ら条理を尽しての外交交渉によつて克服し得た、この事績の貴重な意味を考へるよすがとしてもらひたい、といふのがこの運動を始めた最初の動機である。

≪「4月28日」を祝日にせよ≫
 この目的のためには、主権回復記念日の祝日法制化が有効であり、本年一回限りとされてゐる政府主催記念式典は必ずしも国民運動の要請の本命ではない。
 然(しか)し、運動を始めた当初の、国家主権とは何か、といふその理解から説き起してかからざるを得なかつた、当時の空気を思ひ出すと、16年目にして漸(ようや)くここまで漕ぎつけ得たか、との呼びかけ人一同の感慨は深いものがあり、政府主催の式典挙行には率直に歓迎の意を表しておきたい。
 ところで、この式典の開催を素直に喜ばない一部の世論があることも既に周知であらう。
 即(すなわ)ち沖縄県の地元メディアを代表とする一団の反政府分子からの異議申し立てである。記念日制定を呼びかける集会を毎年開催してきた私共とても、沖縄県からの集会参加者を通じ、あの形での平和条約発効といふ事態に対し、地元には深い失望の念があつたといふ事実はよく聞かされてゐた。
 只(ただ)その不満の聲は、それから20年間の同じく辛抱強い外交交渉の成果として昭和47年5月に沖縄県の祖国復帰が実現した、その大前提である昭和27年の史実に対する認識不足乃至(ないし)は意図的な軽視の所産なのではないかとの印象を禁じ得なかつた。
認識不足は深く咎(とが)めるには当らない。沖縄県の復活が20年遅れたのは、当時の国際社会にとつての深刻な脅威であつた米ソ間の所謂(いわゆる)冷戦の余殃(よおう)であつて、この間の複雑な因果関係を明白に説明する事は、国際関係論の専門家にとつてもさう簡単ではないと思はれる。
 それに現在の若い世代にすれば、1950年代の冷戦激化時代の世界的緊張の空気は直接の体験に裏付けられた記憶となつてはゐない。それは被占領期の屈辱的事態の伝聞が彼等(かれら)にとつて現実にさほど痛切にはひびかない事と余(あま)り違はないであらう。

≪妄想だった「全面講和論」≫
 だが意図的な軽視・無視となると、これは明らかに歪(ゆが)んだ政治的下心の産物である。その文脈での「沖縄は取残された」との差別への怨(うら)みの聲に接すると、図らずも思ひ出す昔話がある。
 それは平和条約の調印が現実の日程に上つてきた昭和25年1月頃から左翼知識人の一部が高唱し始めた「全面講和論」の妄想である。いまこの空疎な政治論の発生と末路までを辿(たど)り返してみる紙幅の余裕はないが、時の吉田茂首相がその主唱者を「曲学阿世の徒」と指弾したのも尤(もっと)もな、言ふべくして行はれ得ない事を敢へて言ひ立てる「ないものねだり」の幼稚な立論だつた。
 平和条約それ自体が一種の片務的な不平等条約であり、全国民が心から納得し歓迎できる様(よう)なものでなかつた事は慥(たし)かである。だがその不満からこの条約の提案を受容しなかつたとすれば、それは敗戦国としての主権喪失状態になほ甘んずる事態の方を選択するといふ錯謬(さくびゅう)に陥る。
 講和会議に招請されなかつた二つの中国、条約に調印しなかつたソ連等共産主義体制の3箇(か)国を取洩す形で連合国48箇国との間に平和条約は締結された。
 その判断が我が国の国際社会への復帰を可能にし、廃墟(はいきょ)からの再生と、やがての今日の繁栄を築く礎石となつた。
 この教訓を思ひ起し、先づはこの祝典を肯定し支持したい。その姿勢を踏まへて、独立主権国家としての強国の実を示す事が、国際社会、特に東アジアの安全保障に対しての大いなる寄与となる事に思ひを致すべきである。(こぼり けいいちろう)
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