ほそかわ・かずひこの BLOG

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ユダヤ80~杉原千畝・樋口季一郎・安江仙弘

2017-07-26 09:24:38 | ユダヤ的価値観
●杉原千畝・樋口季一郎・安江仙弘

 ここで強調しておきたいのは、戦前のわが国は、日独伊三国軍事同盟によってドイツと同盟を結び、国家の針路を大きく誤ったものの、ナチスによるユダヤ人迫害には加担していないことである。逆に迫害を受けたユダヤ人を支援した日本人がいた。特筆すべき事例として、杉原千畝と樋口季一郎がある。
 1940年(昭和15年)夏、ドイツ占領下のポーランドから多数のユダヤ人がリトアニアに逃亡した。彼らは当地で各国の領事館・大使館からビザを取得しようとした。しかし、リトアニアはソ連に併合されており、ソ連政府は各国に在リトアニア領事館・大使館の閉鎖を求めた。そこでユダヤ難民はカウナスの日本領事館に通過ビザを求めて殺到した。この時、彼らのために、ビザを発給したのが、杉原千畝である。
 第2次世界大戦の開始時、ヒトラーとスターリンには密約があった。杉原の行動は、その密約の下にドイツとソ連がポーランドを分割し、ソ連がバルト三国を併合するという状況におけるものだった。
 杉原の職を賭した勇気ある行動によってリトアニアを出ることのできたユダヤ難民は、シベリアを渡り、ウラジオストク経由で敦賀港に上陸した。うち約千人はアメリカやパレスチナに向かった。杉原によって救われたユダヤ人は、6千人にのぼると推計されている。1985年(昭和60年)、杉原は、イスラエル政府から日本人で唯一、「諸国民の中の正義の人」としてヤド・バシェム賞を受賞し、顕彰碑が建てられた。
 ところで、杉原の日本通過ビザ発給は、日本政府の命令に背いたものだったというのが通説だが、これは事実に反している。当時の日本外務省の杉原宛て訓令電報では、日本通過ビザ発給には最終目的地の入国ビザを持っていること、および最終地までの旅行中の生活を支え得る資金を保持していることの2点を条件とした。これらは通過ビザに必要な条件で、日本政府がビザ発給を拒否したわけではない。杉原がサインしても、日本政府が許可しなければ外国人は入国できない。だが、わが国は、ウラジオストクから敦賀に渡る船にユダヤ難民が乗ることを許可し、神戸で厚くもてなし、希望する外国に送り出している。これは杉原個人のできることではなく、日本国がユダヤ難民を救援したのである。
 また、杉原は訓令違反によって終戦直後、外務省を解雇されたという通説も、事実に反している。まず杉原は、ビザ発給後、即座に懲戒解雇されてなどいない。それどころか、カウナス領事館閉鎖の後、順調に昇進し、1944年(昭和19年)には日本政府から勲五等瑞宝章を授与されている。敗戦後は、占領下で外交事務が激減したため、多くの外交官が人員整理された。杉原はその一環で1947年(昭和22年)に退職したもので、退職金もその後の年金も支払われている。ビザ発給を理由に解雇されたのでは全くない。杉原個人を英雄化し、日本国を断罪する話に仕立てるのは、間違いである。
 時期的には杉原より前になるが、樋口季一郎陸軍少将もまた多数のユダヤ人を救出した。
 1938年(昭和13年)3月、約2万人のユダヤ人が、ソ満国境沿いのシベリア鉄道オトポール駅にいた。ナチスの迫害から逃れて亡命するためには、満州国を通過しなければならない。ソ連が入国を認めないので、零下数十度の中、野宿生活を余儀なくされた。彼らの惨状を見た樋口は、部下の安江仙弘大佐らとともに即日、ユダヤ人に食糧・衣類等を与え、医療を施し、出国、入植、上海租界への移動の斡旋を行った。
 樋口は、1943年アッツ島玉砕を指揮し、キスカ島撤退作戦では救援艦隊の木村昌福少将の要請を容れ、大本営の決裁を仰がずに在留軍に武器の海中投棄を指示し、乗船時間を短縮して無血撤退の成功に貢献した。その後、樋口は札幌に司令部を置く北部軍司令官に就任した。
 1945年8月9日、ソ連は日ソ不可侵条約を一方的に破棄して、満州・樺太・千島に侵攻した。この時、樋口は占守島に侵攻したソ連軍に対して自衛の戦いを行うことを決断して善戦し、ソ連軍の北海道占領を阻止した。スターリンはその樋口を戦犯に指名した。これに対し、世界ユダヤ協会は、各国のユダヤ人組織を通じて樋口の救援活動を展開し、欧米のユダヤ人資本家はロビー活動を行った。その結果、マッカーサーはソ連による樋口引き渡し要求を拒否し、身柄を保護した。樋口は、安江とともに、イスラエル建国功労者と称えられ、その名が「黄金の碑」に「偉大なる人道主義者」として刻印され、功績が顕彰されている。
 ユダヤ人を迫害したナチス・ドイツと誤った提携をしたわが国ではあったが、こうした人道的な行為をして感謝されている日本人がいることは、わが国の誇りとすべきである。
 ところで、樋口の功績には、隠された事実がある。オトポール事件の時、ユダヤ難民が助かったのは、樋口個人の功績ではない。彼らが満州国に入国できたのは、関東軍の東條英機参謀長がユダヤ難民の受け入れを許可し、満州国通過ビザを発給したからだった。また、満鉄総裁の松岡洋右がハルビンや上海へ移動する特別救援列車を手配した。それによって、ユダヤ難民は生き延びることができた。
 この措置に対し、ドイツ政府は日本政府に抗議してきた。だが、1938年(昭和13年)12月、近衛内閣の五相会議で、板垣征四郎陸相は、日本・満州・シナ大陸における猶太人対策要綱を決定した。五相会議は、内閣総理大臣・陸軍大臣・海軍大臣・大蔵大臣・外務大臣による国策決定会議である。わが国は、日独伊三国防共協定を結んでいたドイツの要請を断って、八紘一宇の精神に則り、特定の民族を差別することはできないとして、ユダヤ人を救援した。
 日本は、この後、独伊と三国軍事同盟を結んでしまい、米英に敵対視されることになった。無謀な開戦によって、わが国は大敗を喫した。東條は、戦勝国による東京裁判でA級戦犯として処刑された。彼の弁護において、オトポール事件でのユダヤ難民救援について触れなかったのは、落ち度だった。また、政府決定でユダヤ人を差別しないと定めた国は当時、他になかった。日本は、東京裁判でこのことを主張しなかった。板垣もまた一方的に戦犯と断じられ、処刑された。東京裁判は、ナチスの指導者を裁くためのニュルンベルク裁判を下敷きにした。ニュルンベルク裁判は、ユダヤ人虐殺の責任者を裁いた。だが、東京裁判は、ユダヤ人を助けた日本の指導者を絞首刑にした。東京裁判は、この点においても、大きな間違いを犯したのである。

 次回に続く。

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