ほそかわ・かずひこの BLOG

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人権72~国家における権利と権力

2013-12-01 08:32:45 | 人権
●国家における権利と権力

 これまで国家を意味する言葉の語義、国家の起源・本質・分類等について述べた。国家に関する基本的な事柄を確認し終えたところで、次に、国家における権利と権力について述べたい。
 国家は最大規模の集団であり、集団的な権利の主体である。国民の集団である国家は、一つの共同体として意思決定をしなければならない。そのために必要なのが政府である。政府は、共同体が占有する領域や、帰属する国民を統治するための機関である。英語では、国民の共同体が nation、その統治機関が state である。国家の統治機関である政府は、自ら権利を行使する主体であり、また国民に権利を保障する主体である。政府は国民個人との間で、互いに権利の主体として関わり合う。また、他国の政府との間で、互いに権利の主体として関わり合う。
 権利の作用を力の観念でとらえたものが権力である。権利の主体としての国家は、国家的な権力を保有し行使する主体でもある。権力は、権利の主体の持つ能力であり、主体の意思の働きであり、他者に自己の意思を実力で強制する強制力である。こうした能力、意思、強制力という三つの要素が、力としての権力を構成している。
 国家(政府)は、権力の主体でもある。国家を力の観念でとらえて、英語では power とも呼ぶ。国家が power と呼ばれる理由は、二つある。第一の理由は、国家は国民によって担われながら、国民個々を超えた外在的な力として表象されるからである。ここでの権力は、人民を保護―受援したり、支配-服従させたりする意思の働きを力の観念でとらえたものである。権力は国民に権威を感じさせ、権威に裏付けられたとき、一層強固なものとなる。マックス・ウェーバーは、支配の正当性について、伝統的支配、カリスマ的支配、合法性による支配を挙げ、支配における権威の働きの重要性を指摘した。ウェーバーは、国家は政治団体として、「秩序の保証のために暴力行為を使用する(少なくとも併用する)」という事実のほかに、「或る地域に対する行政スタッフ及び秩序の支配を要求し、これを暴力行為によって保証する」という特徴を持つとする。こうした国家の権力は、実力とともに権威に裏付けられてこそ、有効に機能する。
 国家が power と呼ばれる第二の理由は、国家は権力争いを行う主体だからである。国家間の権力争いとは、軍事力を含む様々な資源を動員して互いに自己の意思を貫徹しようとする競争のことである。この競走において、国家は単一の意思を持つ主体として、権利の維持と拡大を求めて行動する。政府は他国に対して、権力として立ち現れる。英語の power は「強国(strong country)」の意でも使われ、複数形 powers は「列強」と訳す。これは列強間の力のぶつかり合いを、端的に力の観念で表したものである。国家間の力と力の争いを、パワーゲーム(power game)という。ここにおけるgameは競争の意味であり、パワーゲームは権力争いである。また、国家間の武力外交や権力政治を、パワーポリティックス(power politics)という。パワーポリティックスは、国力の争いである。国力とは、軍事力、外交力、経済力、文化力、人口力等の国民的能力の総合力である。パワーポリティックスは、国力の中心を軍事力に置き、軍事力をバックにした力の外交及び国政政治をいうものである。
 近代西欧において、各国の政府は、他の国家との間で、権利の相互承認や相互不承認をする。この外交の場で、政府の機関は、国家を代表して、集団としての権利を主張し、交渉を行う。国家と国家の外交や戦争は、権利と権利のぶつかり合いであり、権力と権力のぶつかり合いである。外交で決着の得られない問題については、武力が行使される場合がある。
 国家に関する議論では、しばしば国家の権利・権力と人民の権利・権力の対立という図式が強調され、支配―服従または抑圧―反発が主に語られる。しかし、わが国を始め非西欧社会にも広がりつつあるリベラル・デモクラシーの近代国家では、権利と権力の源泉は、国民の存在と切り離せない。君主制であれ、共和制であり、国民は政治に参加することによって、政府による統治に関与する。単に受動的な存在ではない。統治権の行使の対象であるだけでなく、統治権を共有する権利主体である。統治される客体でもあるとともに、統治する主体でもある。
 近代国家の統治機関は、憲法及び法律に基づいて国民に権利を保障する。その権利は、政治に参加する国民が相互に権利を承認し、保障し合うものでもある。この権利の相互保障の根本は、国民による国家防衛である。国民共同体は、国民が相互の生命と財産、国家の独立と主権を守る協同組織である。この協同組織は、他国から自らを守る権利を持つ。それが自衛権であり、自衛権を力の観念でとらえれば、自衛力となる。自衛力は、国民の権利に基づく権力の表れの一つである。他国に対する力を構成するのは、国民の能力であり、意思であり、組織化された実力である。
 近代西欧諸国が非西欧社会に進出したとき、各地域で西欧型の国家とは異なる形態を持った国家が西欧型国家と遭遇した。それぞれ領域・人民・統治権を持った国家と国家、あるいはその統治機関としての政府と政府が国家の権利をめぐって争った。領域・人民の統治権、土地や施設の使用権、徴税権、陸上・海上の通行権、商品交換の通商権等である。そこで、国家の制度・形態の違いを超えて明らかになったのは、どのような制度・形態であれ、軍事力の強い方が相手を支配するということである。軍事力の裏付けは、生産力や技術力、指導者の統率力、国民の意識等である。どのような裏付けであれ、結果として軍事力に勝る者が、相手を従わせる。それによって出来た支配―服従の関係を固定するために、征服者・支配者の法が押し付けられるのである。
 人権を考察する際、こうした国家の権利と国民の権利の関係、国家の権力と国民によって組織された実力の関係をよく踏まえる必要がある。その点を理解するには、国家の3要素のうちの一つである主権について、その本質と歴史を把握しなければならない。

 次回に続く。


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