ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
この日本をどのように立て直すか、ともに考えて参りましょう。

日本の心11~なぜわが国は「日本」というのだろう?

2021-10-01 10:08:06 | 日本精神
 「日本」という国名は、「にほん」あるいは「にっぽん」と読みます。どちらの読み方も可能ですが、対外的に使う際には「にっぽん」と読むことに統一すると、昭和45年7月14日の閣議で決定されました。
 NHKでは、正式な国号として使うときは「にっぽん」と読むことにしています。それ以外のときは、「にほん」でもよいとされています。
 ローマ字では Nippon と書きます。英語には Japaneseのほかに、Nipponeseという単語もあります。
 さて、「日本」は、「日の本(ひのもと)」とも読むように、太陽にちなんだ名称です。「日の本」は「日が昇る本」「太陽の昇るところ」を意味します。元は「日出づる処」という表現に由来します。この表現は、聖徳太子が使ったものです。「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。つつがなきや」と、太子が隋の煬帝にあてた国書にあります。このことは、『隋書』の大業3年、我が国の推古天皇(第33代)の16年(西暦608年)の出来事として記されています。
 聖徳太子が我が国を「日出づる処」と称したのは、超大国・隋に対して、萎縮することなく、毅然とした外交を行おうとしたからです。この太子の姿勢にならって、「日出づる処」を意味する「日本」が、国名として用いられるようになったと見られます。最初に、公式文書に「日本」という国名が現われたのは、大化の改新の後、大化元年(645)に、百済の使者に与えた詔勅とされます。
 その後、シナでは、咸亨元年(670)の『新唐書』に、「倭の字を悪(にく)み、更めて日本と号す」と記しています。ここで我が国が「倭」という字を嫌って、「日本」という国名に改めたと書かれていることは重要です。我が国では古くから自国を「わ」と呼んでいたようで、シナ人はこれを「倭」という文字で表しました。この文字は、蔑称です。日本人はこれに屈せず、「倭」をやめて「日本」という国名を使うことを決めたのです。
 「天皇」という名称も、聖徳太子が煬帝への返書に使ったのが、初めです。太子は、隋の煬帝への返書で、我が国の君主を「天皇」、シナの君主を「皇帝」と表現しました。太子は「国王」や「大王」という文字を用いませんでした。それは、「王」は、シナの「皇帝」の下の位であり、「皇帝」に仕える立場だからです。そして、やはり太子の意を受けて、大化の改新の後、天武天皇の時代に「天皇」という称号が定着しました。
 大化の改新では、年号も、我が国独自のものを使うことを決めました。それまでは、シナの皇帝が年号を定めると、他の周辺国はそれと同じ年号を使用していました。なぜかというと、これらの国は、シナに貢ぎ物を収めることによって国王と認めてもらうという册封(さくほう)体制の下にあったからです。しかし、我が国は、こういう主体性のない状態を、よしとしませんでした。
 こう考えると、7世紀は、日本が日本となった重要な時代だったことがわかります。7世紀の初めには、君主を「天皇」と呼び、中頃には独自の年号を立て、また新たに国名を「日本」と定めました。その結果、我が国は政治的・外交的に、完全にシナの册封体制から離脱しました。そして、これによって、奈良・平安時代に国風文化が生み出される基礎ができ、輝かしい日本文明が花開くことになったのです。
 「日本」という国名、そして「天皇」という称号や独自の年号には、超大国に対しても対等であろうとする、堂々たる精神が込められています。もし私たちの祖先が自主独立の気概を持っていなければ、「日本」と呼ばれる国はなかったことでしょう。そして、サムエル・ハンチントンにより世界の6大文明のひとつに数えられる、今日の日本文明も存在しなかったでしょう。
 「日本」という国名に込められた独立自尊の精神を、この21世紀にも受け継いでいきましょう。

 次回に続く。

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