共 結 来 縁 ~ あるヴァイオリン&ヴィオラ講師の戯言 ~

山川異域、風月同天、寄諸仏子、共結来縁…山川の域異れど、風月は同天にあり、諸仏の縁に寄りたる者、来たれる縁を共に結ばむ

今日はフランツ・リストの祥月命日〜ペダルがバッハの名を連呼する《BACHの名による前奏曲とフーガ》

2022年07月31日 12時34分56秒 | 音楽
今日は昨日にも増して暑くなりました。早朝から蝉の鳴き声で起こされると、その時点でゲンナリさせられます…。

ところで、今日7月31日はフランツ・リストの祥月命日です。



フランツ・リスト(1811〜1886)はハンガリー王国(当時)出身で、現在のドイツやオーストリア、フランス・パリなどヨーロッパ各地で活動したピアニスト、作曲家です。

1861年にローマに移住した後、1865年に僧籍に入ったリストは晩年、虚血性心疾患・慢性気管支炎・鬱病・白内障に苦しめられました。また、弟子のフェリックス・ワインガルトナーは晩年のリストのことを「確実にアルコール依存症」と証言していますが、それを裏付けるかのように、晩年の簡潔な作品には病気による苦悩の表れとも言うべきものが数多く存在しています。

1886年、バイロイト音楽祭でヴァーグナーの楽劇《トリスタンとイゾルデ》を観た後の7月31日に慢性気道閉塞と心筋梗塞で亡くなり、娘でヴァーグナーの妻であるコージマの希望によりバイロイトの墓地に埋葬されました。その時建てられていた廟は第二次世界大戦の空襲により崩壊してしまい、戦後しばらくは一枚の石板が置かれているのみでしたが、



1978年には新たな廟が再建されました。

そんなリストの祥月命日の今日は、リストにしてはちょっと珍しいオルガンのための作品をご紹介したいと思います。それは《BACHの名による前奏曲とフーガ》です。

バッハの祥月命日にご紹介した《フーガの技法》にもありましたが、この曲にも



『シ♭=B・ラ=A・ド=C・シ♮=H』

の『BACHの名による主題』が使われています。リストは以前からバッハの芸術に関心を示していて、1840年代にはバッハのオルガン作品の編曲を行い、更に1862年にはバッハの主題を用いたパッサカリアである《バッハの主題による変奏曲》も書いています。

この曲の作曲の直接のきっかけは、1855年に行われた



ドイツ・メルゼブルク大聖堂のオルガンの落成式で演奏されるための新作の依頼を受けたことによります。しかし実際には落成式までに作曲は間に合わず、1年後の1856年5月13日にメルゼブルク大聖堂のオルガンを用いてアレクサンダー・ヴィンターベルガーによって初演され、献呈も彼に行われました。

《BACHの名による前奏曲とフーガ》は1855年から1856年にかけてオルガン版とピアノ版の初稿が書かれた後、1869年から1870年にかけて改訂が施され、オルガン版とピアノ版双方の第2稿がほぼ同時に成立しました。現在この曲が演奏される場合は、オルガン版・ピアノ版ともにこの第2稿が使われるのが一般的です。

この作品はB-A-C-H主題を扱っていて後半にフーガも取り入れられていることから、ヨハン・セバスティアン・バッハへのオマージュであることは明らかです。その一方で、新ドイツ楽派の旗手であったリストらしい前衛的な響きも聴くことができます。

《フーガの技法》の中でのB-A-C-H主題は、3つのフーガのテーマのひとつとして響くものです。一方リストの《BACHの主題による前奏曲とフーガ》では冒頭からペダルでB-A-C-H主題が重々しく登場して、その後も転調を繰り広げながらあちこちでBACHの名前を何度も連呼しています(笑)。

そんなわけで、リストの祥月命日である今日はその《BACHの名による前奏曲とフーガ》をお聴きいただきたいと思います。超絶技巧ピアノ作品で知られるリストの、珍しいオルガン作品をご堪能ください。


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貴重な日本美術里帰り!ボストン美術館展

2022年07月30日 20時00分02秒 | アート
毎回書いていて嫌になりますが、今日も今日とて身体に堪える暑さとなりました。そんな暑さの中、今日はわざわざ都内まで出かけました。

やって来たのは、上野公園内にある東京都美術館です。今日はここで開催中の



《芸術✕力〜ボストン美術館展》を鑑賞しました。

本来ならば、この展覧会はボストン美術館開館120周年記念の2020年に開催されるはずでした。しかし、ご存知の通りあの頃は新型コロナウィルス蔓延防止対策としての緊急事態宣言の発令下だったこともあって中止を余儀なくされ、今年ようやく開催の運びとなったのです。

今回は『芸術✕力』をコンセプトに、様々な国や時代に時の権力者や富裕層によって醸成されてきた絵画芸術を紹介する展覧会です。そのためアメリカの美術館のコレクションでありながら、展示作品の殆どはヨーロッパや日本、中国のものとなっています。

会場に入ると真っ先に現れるのは、戴冠式の装束を身に纏ったナポレオンの肖像画です。しかし、何と言っても今回の目玉は『日本に残っていれば間違い無く国宝』との誉れ高い日本美術です。

先ず登場するのが、鎌倉時代に描かれた《平治物語絵巻》の『三条殿夜討の段』です。これは平安時代末期に起こった平治の乱を描いた絵巻で、その中でも最も劇的な場面を描いたのか今回の作品です。

藤原家一門のひとり藤原信頼と源氏の頭領である源義朝は平家一門による政権運営に不満を持ち、平清盛を始めとした平家一門が熊野詣に出かけた隙を狙ってクーデターを起こし、後白河法皇と二条天皇を幽閉することを企てます。絵巻は



夜討の一報を聞いて大慌てで三条殿に駆けつけんとする大臣や公卿、殿上人たちの牛車の群れで幕を開けます。

やがて三条殿になだれ込んだ信頼と義朝一行は、当時清盛寄りの政権運営に力を発揮していた僧侶の信西(しんぜい)を殺害し、



後白河院を三条殿から引き出して大内裏に幽閉するために八葉車(はちようのくるま)という高貴な方が乗る牛車に乗せます。その後、信頼の軍勢は三条殿に火を放ち、



御殿は紅蓮の炎に包まれます。

放火した後も荒くれ武士たちは、金目の物を強奪したり、抵抗する者の首をはねたり、逃げ惑う女房たちを凌辱したりといった狼藉の限りを尽くします。その間にも信頼たちは



八葉車に乗せた後白河院を取り囲んで、二条天皇の待つ大内裏へと向かうのです。

日本美術には『日本三大火炎表現』と呼ばれる3つの作品があります。1つ目は



京都市東山区にある天台宗の寺院である青蓮院に保管されている、平安中期に描かれた《絹本着色青不動明王二童子像(俗称『青不動』)》、2つ目は



出光美術館が所蔵している、平安末期に描かれた《伴大納言絵巻》の『應天門炎上』の場面です。そして3つ目がこの鎌倉時代に描かれた《平治物語絵巻》ですが、そんな素晴らしい作品が日本に無いということは残念でしかありません。

勿論、三条殿が燃え上がる火焔の表現も素晴らしいのですが、この《平治物語絵巻》の素晴らしさは画面全体にみなぎる緊張感と、それを表現するために凝らされた構図や人物配置のバランスの絶妙さです。法皇幽閉という歴史的クーデターの瞬間を画面に凝縮したこの作品は、手掛けた絵師の腕の確かさを物語っています。

もう一つの作品は《吉備大臣入唐絵巻》です。これは奈良時代に実在した吉備真備(きびのまきび・695〜775)が遣唐使として唐に渡り、そこで様々な嫌がらせ…いや試練を乗り越えていくという物語を描いたもので、今回は全4巻が勢揃いしています。

絵巻は



吉備真備が遣唐使船に乗って唐に渡るところから始まります。ところが、無事に唐に到着した真備は



その才覚を妬む唐の役人たちによって捕らえられ、一度入ったら最後、二度と生きては出られないという高い楼閣に閉じ込められてしまいます。

そこでの最初の嫌がらせ…いや試練は『文選(もんぜん)』という、とてつもなく難しい試験を受けることでした。すると、真備が閉じ込められている楼閣に赤鬼がやってきます。



実はこの赤鬼は真備よりも前に遣唐使として唐に渡り、

『天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山に出でし月かも』

という有名な和歌を遺して唐の地で没した阿倍仲麻呂の霊だったのです。赤鬼の仲麻呂は居ずまいを正した人間の姿になって真備と対面し、策を練ります。

そして二人は楼閣から飛び出し



なんと空を飛んで宮殿まで向かいます。そして二人は



文選の内容について話している役人たちの話を物陰から聞き、いわゆるカンニングをするのです(言い方…)。

その後シレッと楼閣に戻った真備の元に



役人から遣わされた何も知らない試験官がやって来ます。そして試験を始めるのですが、真備は前夜のカンニングに基づいてことごとく答えてしまいます。

続いての嫌がらせ…いや試練は囲碁勝負でした。しかしここで問題が、何と真備は囲碁をやったことがなかったのです。

そこで真備は



楼閣の格天井のマス目を使ってイメージトレーニングをしました。そして役人から遣わされた囲碁名人との試合当日を迎えましたが、なかなか勝負がつきません。

それでも、囲碁をやったことのない真備の方が分が悪いことに違いはありません。そこで真備は



相手がちょっと目を離した隙に、何と相手の碁石を1個飲み込んでしまうという荒業に打って出たのです!

碁石が足りないことで試合に負けてしまった相手側は真備の不正を疑い、終いには真備に下剤を飲ませて無理矢理排泄させます。しかし真備は超能力を駆使して碁石を腹の中に留めて



彼らの追求を免れたのですが、お役目とは言え他人の下痢○の検証までさせられる彼らも気の毒といえばあまりに気の毒です(お食事中の方がいらしたらゴメンナサイ…)。

どんなに嫌がらせ…いや試練を与えても答えてしまう真備に恐れおののいた使いの者たちは役人の元にとって返し、



「吉備真備ぱねぇっす!」

と報告したのでした(なんかチャラくね…?)。真備の逸話としてはまだあるのですが、絵巻はここで終わっています。

《吉備大臣入唐絵巻》が作られた12世紀は、絵巻物の製作が頂点を迎えた時代です。この絵巻も当時の製作技術の高さが窺われ、恐らく絵巻物の収集をしていた後白河院の周辺の宮廷画家によって描かれたのではないかといわれています。

この他の日本美術の目玉は、江戸時代に増山雪斎が描いた《孔雀図》です。増山雪斎は伊勢長浜藩の藩主で本名を正賢(まさたか)といいましたが、芸術家たちのパトロンとなっただけでなく自身も絵の名手たる文人大名して筆をふるいました。

この《孔雀図》は二幅からなっていて、左幅は



孔雀と白孔雀に牡丹や海棠(かいどう)が描かれ、右幅には



二羽の孔雀と木蓮や薔薇の花が描かれています。観ていると



伊藤若冲の《動植綵絵》の孔雀を彷彿とさせるような絵ですが、それだけに雪斎の絵師としての腕の高さが垣間見える作品です。

こうした日本美術や西洋美術の他にも、様々な工芸品やジュエリーが出品されていました。中でも個人的に目を引いたのは



1725年にヤコポ・モスカ・カヴァッリによって製作された《キタラ・バッテンテ》というギターです。18世紀に作られたギターとしては珍しく真鍮製の金属弦が張られていて、螺鈿や象牙華麗に装飾された豪華なものです。

時節柄日時指定制のこともあって会場内の人数はかなり少なめで、ひとつひとつの作品をゆっくりと観賞することができました。見応えがあって会期も長いので、興味のある方は是非チェックしてみてください。

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今日はシューマンの祥月命日〜バシュメット&リヒテルによる《おとぎの絵本》

2022年07月29日 20時00分20秒 | 音楽
今日も暑かったですね。早朝に買い物を済ませてからは一歩も我が家から出ませんでしたが、窓越しに外の様子を見るだに本当に嫌になります…。

ところで、今日7月29日は



ロベルト・シューマンの祥月命日です。

実の姉や両親、親しい人たちや自分を評価してくれたメンデルスゾーンの死を次々と目の当たりにしたシューマンは、徐々に死の影におののき精神的に追い詰められていきます。それでも1949年秋、友人のフェルディナント・ヒラーが務めていたデュッセルドルフ市の音楽監督の後任の打診を受けたシューマンは、かなり迷ったあげくこの申し出を受けて1950年秋に赴任しました。

デュッセルドルフでは管弦楽団と合唱団を統率することになりましたが、次第にシューマンが大人数を指導する資質に欠けると判断されて、1853年には事実上解任されてしまいました。その挫折がシューマンの精神の不安定さに拍車をかけてしまったのか、翌1854年2月に妻クララや家族たちが目を離したほんのわずかの隙にガウンにスリッパという軽装のまま家を飛び出し、ライン川へ投身自殺を図ってしまいます。

たまたまその瞬間を目撃していた漁師によってシューマンは救出されましたが、シューマン夫妻の互いのの神経を刺激しないようにと、当時懐妊中のクララは面会を禁止されてしまいました。夫の病状を、親交のあったヴァイオリニストのヨーゼフ・ヨアヒムや弟子のような存在だったブラームスから又聞きで知らなければならなかったクララの心中は如何ばかりだったことでしょう。

1856年7月23日に危急を知らせる電報を受け取った妻クララは7月27日にシューマンのいる療養所に着き、遂に夫ロベルトと再会しました。しかし翌々日の7月29日、ロベルト・シューマンは46年の生涯を閉じました。

さて、そんなシューマンの祥月命日である今日は、珍しいヴィオラソロのためのオリジナル作品をご紹介したいと思います。それはヴィオラとピアノのための《おとぎの絵本》という曲です。

《おとぎの絵本》は、シューマンが1851年に作曲した唯一のヴィオラのための曲です。日本では《おとぎの絵本》と呼ばれていますが、ドイツ語のタイトルを直訳すると『メルヘン画』となるので、これは恐らく絵本の絵のことか童話の挿絵のことを示しているものと思われています。

この曲は、シューマンの着任と同時にデュッセルドルフの管弦楽団のコンサートマスターに招聘されたヴァイオリニストで、最初のシューマンの伝記を記した人物でもあるヴィルヘルム・ヨゼフ・フォン・ヴァジエレフスキの演奏を念頭に置いて作曲されたことが分かっています。ただ、シューマンがこの《おとぎの絵本》を作曲した意図と、何故ヴァイオリニストでおるヴァジエレフスキに敢えてヴィオラソロの曲を書いたのかは、シューマン自身が『家庭音楽に関心が向いていた』と語った以外のことは分かっていません。

16分音符の旋回の中でつぎつぎと和音の色が変わっていく第1曲、ギャロップの馬の足音を響かせながらすすむ第2曲、動き回るヴィオラに情熱的なピアノがつく第3曲、そしてシューマンならではの美しい歌で始まる第4曲と、次々と個性的で新しい世界が繰りひろげられます。正に晩年のシューマンが辿り着いた、室内楽作品の集大成のひとつと言っても過言ではないでしょう。

そんなわけで、シューマンの祥月命日である今日はヴィオラとピアノのための《おとぎの絵本》をお聴きいただきたいと思います。ユーリ・バシュメットのヴィオラとスヴィヤトスラフ・リヒテルのピアノとによる、ちょっと濃いめのアンサンブルをお楽しみください。


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今日はバッハの祥月命日〜未完の大作《フーガの技法》より『コントラプンクトゥス14番』

2022年07月28日 15時00分20秒 | 音楽
今日も夏の太陽がジリジリと照りつける、暑い一日となりました。今日は汗をかいて大量消費してしまったTシャツを片っ端から洗濯しましたが、あっという間に乾いてしまったのには面食らいました(汗)。

ところで、今日7月28日はバッハの祥月命日です。



これは1843年にメンデルスゾーンによって寄贈され、ライプツィヒの聖トーマス教会前に建てられたバッハの銅像です。

1723年にライプツィヒの聖トーマス教会のトマスカントルに就任し、1736年にはザクセンの宮廷作曲家に任命されたバッハですが、1749年に脳卒中で倒れてしまいました。更に以前より患っていた内障眼が悪化して、視力も殆ど失っていました。

翌1750年にイギリスの高名な眼科医ジョン・テイラーがドイツ旅行の最中ライプツィヒを訪れ、バッハは3月末と4月半ばに2度にわたって手術を受けました。手術後、テイラーは新聞記者を集めて

「手術は成功し、バッハの視力は完全に回復した」

と豪語しましたが、実際には手術は失敗していました。

テイラー帰国後にバッハを診察した医師によると視力の回復どころか炎症などの後遺症を起こしていて、これを抑えるための投薬などが必要になったといいますから何ともお粗末なものです。因みにこのジョン・テイラーは後にヘンデルの眼の手術も手掛けて、同じく失敗しています。

2度の手術に後遺症、薬品投与などの治療は、既に高齢なバッハの体力を奪っていきました。そして7月28日に65歳でこの世を去り、亡骸は



聖トーマス教会内に埋葬されました。

さて、数あるバッハの作品の中から、祥月命日である今日は《フーガの技法》をご紹介したいと思います。

《フーガの技法》はバッハ最晩年となる1740年代後半に作曲と並行して出版も準備され、曲集はバッハの死後に未完成のまま出版されました。作曲の経緯については分かっていませんが、少なくとも最初の12曲が1742年に鍵盤楽器による独奏を想定して作曲されたことが判明していています。


(《フーガの技法》初版表紙)

未完となってしまった曲集はバッハの意思を汲み出版されたものの、当初はわずか30部足らずほどしか売れず、同時代の評判はあって無きが如しという芳しくない状況でしたが、その後一部の愛好家には次第に受け入れられて、1838年にはピアノ教則本で有名なカール・チェルニー校訂によるピアノ譜が出版されました。この曲集が演奏家に本格的にクローズアップされるようになったのは、19世紀後半以降にサン=サーンスなどの優れたピアニストがピアノで演奏することで広まって認知されてからのことです。

現行の《フーガの技法》の多くの版には様々な様式・技法による14曲のフーガと4曲のカノンが収録されています。卓越した対位法の技術を駆使し、単純な主題を入念に組み合わせることによって音楽の究極の構築性を具現化したことによって、《フーガの技法》はバッハ作品のみならず全クラシック音楽の最高傑作の1つに数えられています。

この《フーガの技法》は、作曲の途中でバッハの視力が急激に低下してしまい、



『コントラプンクトゥス14番』の3つ目の主題が導入された後の第239小節、それまでに登場した3つの主題が重なって登場した直後で、突然プッツリ中断されています。そして中断された自筆譜には、バッハの次男であるカール・フィリップ・エマヌエル・バッハによって、

"Über dieser Fuge, wo der Nahme B A C H im Contrasubject angebracht worden, ist der Verfasser gestorben."

「作曲者は、"BACH"の名に基く新たな主題をこのフーガに挿入したところで死に至った」

と記されていますが、自筆譜の音符が疑いなくバッハ自身の手によって書かれているものであることや、この楽譜が視力の悪化のためにバッハの筆跡が乱れるようになる前の1748年から1749年の間に書かれたと思われることから、現代の学者たちはこの記述について強く疑問を抱いています。

『"BACH"の名に基づく新たな主題』というのは、この曲に使われたフーガのテーマのひとつで



『シ♭・ラ・ド・シ♮』という音型です。試しにこの音型をピアノで弾いてみると、ちょっと不思議な響きがします。

この音をドイツ語の音名で書くと

シ♭=B ラ=A ド=C シ♮=H

となります。つまり、バッハは晩年のこの曲の中に自らの『BACH』の名前を『署名』したことになるのです。

この『コントラプンクトゥス14番』については、



盲目のチェンバリスト・オルガニストであるヘルムート・ヴァルヒャ(1907〜1991)をはじめとした何人かの音楽家の手によって補筆完成されたバージョンも存在していて、今でもその楽譜を使って曲を『完成』させる演奏が行われることもあります。一方で、

「バッハの晩年の大作に後進が手を加えるべきではない」

として、未完成のかたちのままでの演奏も行われています。

そんなわけで、バッハの祥月命日である今日は《フーガの技法》から、未完成の『コントラプンクトゥス14番』をお聴きいただきたいと思います。ムジカ・アンティクヮ・ケルンのメンバーによる弦楽四重奏での、まるでバッハの絶筆のように未完成のままで終わる演奏をご堪能ください(『"BACH"の名に基づく新たな主題』は6:36から始まります)。


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ひんやり梅グラニテ@横浜あざみ野《雫ノ香珈琲》

2022年07月27日 19時10分19秒 | カフェ
昨日の荒天から一転、今日は強い陽光が照りつける暑さとなりました。ただでさえ陽射しが暑いところに昨日の湿度の置土産が加わったことで、不快指数は鰻登りです…。

そんな暑さの中、横浜あざみ野の音楽教室に向かいました。そして、いつものように《雫ノ香珈琲》に立ち寄りました。

今日はとにかく蒸し暑さを解消したかったので、



梅グラニテをお願いしました。お店自家製の梅シロップで作ったグラニテには生クリームと梅ジャムが添えられていて、いただくと青梅の爽やかな涼味が駆け抜けます。

今日はエチオピアの水出しコーヒーと共に、美味しく堪能しました。週に一度の美味しいコーヒーに、ホッと一息つくことができました。

明日も暑くなりそうです。ここ最近Tシャツの消費率がどんどん上がっているので、明日はまた洗濯しなければ…。

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今日はフランツ・クサヴァー・モーツァルトの誕生日〜父親激似の《ピアノ協奏曲第2番変ホ長調》

2022年07月26日 18時30分30秒 | 音楽
今日は凄まじいドカ雨で明けました。ちょうど出かけなければならないタイミングだったのですが、遅刻するわけにもいかないので意を決して家を出ました。

ところが、本厚木駅に到着すると何やら拡声器で話している音声が聞こえてきたので

『まさか…』

と思ったら、やっぱり人身事故でした。それでも、私が乗ろうとしていた方面行きは動いているということだったので、とりあえずホームで電車を待つことにしました。

ところが、それからいくらも経たないうちに

「只今、酒匂川に架かる鉄橋の雨量計の値が基準値を超えましたので、全線で運転を見合わせております…。」

という無情のアナウンスが…。ここにきて、まさかのダブルパンチを食らってしまったのです。

もうこうなったら、あとはどうにか運転を再開してくれるのを待つばかりで、為す術もありません。隣で無駄にイラついているヲッサンを横目に見ながら、しばらく電車が来るのを待っていました。

すると、思ったよりも早く電車がすべり込んできました。停車した電車内から凄まじい勢いで人々が出てくるのを見送った後、無事に電車に乗り込んで移動することができました。

はぁ、疲れた…(´-﹏-`;)。

ところで、今日7月26日はフランツ・クサヴァー・モーツァルトの誕生日です。



フランツ・クサーヴァー・ヴォルフガング・モーツァルト(1791〜1844)はオーストリアの作曲家、ピアニストで、名前から分かるように



ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756〜1791)の末子(四男)です。どうでしょう、父親の顔と似ていますでしょうか?

モーツァルトの子どもたちの中で唯一先に成人した兄のカールは音楽家の道に進まなかったことと、母コンスタンツェの強い意向もあって、フランツ・クサヴァーは『ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト2世』として活動しました。しかし、生まれた4ヶ月後に父親が他界してしまっていたため父モーツァルトから直接音楽教育などを受けた事実はありませんが、それでもアントニオ・サリエリとヨハン・ネポムク・フンメルといった当時の一流の音楽家たちに師事しました。

フランツ・クサヴァーの作品には2曲のピアノ協奏曲の他にピアノ・ソナタやポロネーズ、ロンド、変奏曲などがあります。また、1820年代に刊行された《ディアベリの主題による50の変奏曲》には、フランツ・リストなどと共に名を連ねています。

フランツ・クサヴァーの作品は洗練された繊細なものではあるのですが、ヴェーバーやシューベルトといったロマン派の作曲家たちと同世代なのにもかかわらず、作風はまるで父親モーツァルトさながらの前時代的なウィーン古典派の域を出ていません。1820年頃からは作曲を殆どやめてしまって演奏活動に専念していましたが、1844年にカールスバートで胃癌のため亡くなり、同地に埋葬されました(享年53)。

生涯独身で、兄カールと同じく子供をもうけなかったために、残念ながらヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの血筋は途絶えてしまいました。また、フランツ・クサーヴァーの名は父ヴォルフガング・アマデウスの協力者であり、モーツァルトが完成できなかった絶筆の《レクイエム》を補筆完成させたフランツ・クサーヴァー・ジュースマイヤーの名を貰い受けていることから、後に

「彼は本当はジュースマイヤーとコンスタンツェの不義の為した子だったのではないか」

と憶測されたりもしました。

そんな彼の作品から、今日は《ピアノ協奏曲第2番変ホ長調》をご紹介します。

1818年に作曲された《ピアノ協奏曲第2番変ホ長調》は、1808年に発表された《ピアノ協奏曲第1番ハ長調》と共に父親譲りの音楽的才能が随所に見られ、ウィーン古典派の伝統に則って作曲された秀作となっています。特にピアノの軽やかな駆け巡り方や第2楽章を短調にするところ、オーケストラのクラリネットの使い方などは父親譲りの音楽センスを感じさせるものとなっています。

ハイドンからもその才能を称賛されながらも、母コンスタンツェからの過度な期待や『モーツァルト2世』というあまりにも大きな重圧が常に壁として立ちふさがり、その豊かな才能を如何なく発揮することの出来る活躍の場を見つけることなくこの世を去ってしまったフランツ・クサヴァー・モーツァルト。彼がもし違う家に生まれていたなら、後世にここまで名を残すことはなかったにせよ、もう少し伸び伸びと音楽活動に勤しむことができたのでしょうか。

そんなわけで、今日はフランツ・クサヴァー・モーツァルト作曲の《ピアノ協奏曲第2番変ホ長調》をお聴きいただきたいと思います。偉大な父の背中を追い続けた2世音楽家の悲哀も垣間見えるような、古き良きウィーン古典派らしい調べをお楽しみください。



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今日はモーツァルト《交響曲第40番ト短調》が完成した日〜楽譜に垣間見える緻密さ

2022年07月25日 12時35分20秒 | 音楽
今日も猛暑日一歩手前くらいの暑さとなりました。誰に言われなくてもこまめに水分補給していないと、さすがに具合が悪くなりそうです…。

ところで、今日7月25日は



モーツァルト(1756〜1791)の《交響曲第40番ト短調》が完成した日です。



《交響曲第40番ト短調》は、モーツァルトの交響曲作品の中でも有名なもののひとつです。モーツァルトの全交響曲のうち短調のものはこの作品と第25番の2曲しかなく、しかもその両方がト短調という調性であるため、この第40番を「大ト短調」、もう一方の交響曲第25番を「小ト短調」と呼ぶことがあります。

大ト短調は1788年7月25日にウィーンで完成された交響曲で、同じ年に作曲された第39番変ホ長調、第41番ハ長調『ジュピター』とともに「後期3大交響曲」と呼ばれています。ただ、3曲とも作曲の目的や初演の正確な日時は不明で、モーツァルトはこれらの曲の演奏を聴かずに世を去ったのではないかと推測されていました。

ところが、初演に関する記録は残されていないものの、実はこの大ト短調だけはモーツァルトの生前に演奏されていたのでは…と推測されています。というのも、初稿のほかに2本のクラリネットを含んだ木管のパートを追加した改訂版のスコアが残されていて、モーツァルトが実際に演奏する目的なしにわざわざ曲を改訂するとは考えにくいからなのです(現在の演奏では主にこの改訂版が用いられることが多いようです)。

また、第2楽章の一部には差し替え用の楽譜も残されています。この楽譜は1789年2月以前に書かれたものであることが分かっているので、恐らく1788年の演奏会のために作られたのではないかと考えられています。

モーツァルトは翌1789年にはベルリンに、1790年にはフランクフルトに演奏旅行に行っています。その時にモーツァルトは自分の交響曲の楽譜を携えていったことは確実視されていて、その作品がこの大ト短調なのではないか…といわれています。

その他にも

「1791年4月16日と17日、ウィーンの音楽家協会の演奏会でモーツァルト氏の新しい『大交響曲』がアントニオ・サリエリの指揮で演奏された」

という史料が残っています。この『大交響曲』というのが、恐らくこの大ト短調のことを指すものだろう…とも推測されていますが、モーツァルトの因縁のライバルともいわれているサリエリの指揮で演奏されていたとしたら、何とも感慨深いものです。

私はこの曲を何度も演奏したことがありますが、何度演奏しても難しいと感じています。何しろ冒頭のさざ波のような音型や第2楽章のテーマの出だしが共にヴィオラから始まるので、結構な緊張感なのです。

それでも、さすがに『後期3大交響曲』と呼ばれるだけあって、演奏する度にいい曲だな…とも思っています。憂いを帯びた主題が魅力的な第1楽章、のどかな8分音符の重なり合いと時折現れる32分音符のきびきびとした下降音型が印象的な第2楽章、変拍子のような鋭いリズムの主部と柔和な表情の中間部が対称的な第3楽章、疾走感の中で思いもよらない方向へ次から次へとジェットコースターのように目まぐるしく転調していく第4楽章、どこをとっても素晴らしい作品であることに間違いはありません。

そんなわけで、今日はモーツァルトの名作である《交響曲第40番ト短調》をお聴きいただきたいと思います。もしかしたらモーツァルト自身も聴けたのかも知れない晩年の大曲の緻密さを、楽譜動画と共にお楽しみください。


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ギガ足りなくて機種変更!

2022年07月24日 14時38分14秒 | 日記
今日も暑い一日となりました。さすがに慣れてきたとは言え、ちょっと外を歩いただけで汗が滲んでくる暑さにはウンザリさせられることに違いはありません。

そんな暑さの中でしたが、今日スマホの機種変更をしてきました。これまで使っていたスマホが2年以上使い続けていたことと、ギガ不足が顕著になってきたこととで不便を強いられることが多くなってきていたので、ショップに相談して替えることにしました。

データ移行やら何やらで2時間近くかかりましたが、無事に機種変更を済ませることができました。そして



今まで使っていたスマホは、無事に御役御免となりました。

落としたりしたことは殆どありませんでしたが、それでも改めて見るとあちこちに細かなキズがついていました。それにこのスマホは32GBしかなかったのですが、ショップの方に言わせると

「現状は還暦前後の身体に20代の脳味噌が入っているようなもの」

だったのだそうで、世間一般と比べてもあまりアプリを入れていなかった私でも、さすがに知らない間にスマホの負担が増えていたようです。

今回のスマホは128GBなので、しばらくはギガ不足に翻弄されることはなさそうです。これからも新しい相棒と共に下らないことからどうでもいいことまで書き散らかして参りますので、今後とも宜しくお願い申し上げます。

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大暑の土曜の土用の丑の日

2022年07月23日 18時18分18秒 | グルメ
今日は二十四節気の『大暑』です。一年で一番暑い日…ということですが、そんなことを言われなくたってここ数日の酷暑にはウンザリさせられています。

そしてもう一つ、今日は土曜日の『土用の丑の日』です。この、ちょっと冗談みたいな状況を利用した向きは見受けられませんでした(笑)が、それでもスーパーやコンビニや一部の牛丼屋では鰻重や鰻丼が販売されていました。

折角なので、今日は私も土用の丑の日に乗っかってみることにしました。ただ、さすがにスーパーで売られている蒲焼きは多過ぎますし、コンビニの鰻重弁当は法外なくらい高値だったので、今日は牛丼チェーンのすき家で



特うな丼をいただきました。

鰻重や鰻丼も好きなのですが、私はどちらかというとタレの沁み込んだご飯や粉山椒の風味が好きです。勿論、専門店の味と比べたら思うところはありましたが、それでも手軽に風物詩を堪能できたことはよかったと思います。

新型コロナの新規罹患者数の爆発的増加が止まりませんが、ワクチンを過信せずに今まで通りの感染対策を講じていれば防げるはずです。熱中症対策でマスクを外すこともあるかと思いますが、決して巷にコロナウィルスが存在していないわけではありませんから、マスクを外したら迂闊に近づいて喋らないことや飲食中にはしゃがないことを肝に銘じて過ごすようにしていただきたいと思います。
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今日はアラン・メンケンの誕生日〜《リトル・マーメイド》から『Under the sea』

2022年07月22日 19時15分15秒 | 音楽
今日は午前中に激しい雷雨が降り、我が家の近くにも落雷がありました。停電こそしなかったものの我が家が結構揺れたので、ちょっと肝を冷やしました。

夏休みに入ったばかりだというのに、これではまるで台風シーズン末期のようです。連日、各地でゲリラ豪雨が降ったことが報じられていますが、今朝のことを考えると神奈川県でもいつ災害級の大雨が降るか分かりません。

ところで、今日7月22日はアラン・メンケンの誕生日です。



アラン・メンケン(1949〜)は、アメリカ合衆国のミュージカル音楽および映画音楽の作曲家、ピアニストです。特に舞台音楽とディズニー映画の映画音楽とで知られていて、この人の音楽に一度もお世話になったことがないと豪語できる音楽教室関係者は恐らくいないのではないでしょうか。

アラン・メンケンは1949年7月22日、アメリカのニューヨーク州で生まれました。少年時代から音楽に興味を深めてピアノやヴァイオリンを習い、作曲も幼い頃から始めていました。

高校時代、ピアノの練習に飽きてしまっていたメンケンは、バッハやベートーベンの曲を自分流にアレンジして弾いていたといいます。その後ニューヨーク大学に進学したメンケンは、当初、父のように歯科医になるべく医学部進学を目指していて音楽にもそれほど興味はなかったようですが、最終的には音楽学部に進学して大学を卒業しました。

アラン・メンケンの作品は、ディズニー作品では《リトル・マーメイド》(1989年)をはじめとして、《美女と野獣》(1991年)、《アラジン》(1992年)、《ポカホンタス》(1995年)で、それぞれアカデミー賞2部門を受賞しています。ほかに《ノートルダムの鐘》(1996年)、《ヘラクレス》(1997年)、《塔の上のラプンツェル》(2010年)などの作曲もしています。

また ブロードウェイなどのミュージカルでの作曲でも知られていて、《リトル・ショップ・オブ・ホラーズ 》(1982年)や《クリスマス・キャロル 》(1994年)、《シスター・アクト〜天使にラブ・ソングを〜》(2009年)などの舞台作品の作曲も行なっています。

先程も書きましたが、アラン・メンケンとディズニーとの関わりは《リトル・マーメイド》からでした。そこで、今日はその中から『Under the sea』をとりあげてみました。

この歌はカニのセバスチャンが、恋に落ちたエリック王子と結ばれるために人間になりたいというヒロインのアリエルの望みに反対し、人間の生活の苦難と海の中での不自由の無い暮らしの利点を説明するために陽気に歌うものです。バックには



カリブ海の島国トリニダード・トバゴ発祥のスティールドラムも使われ、陽気でトロピカルな雰囲気を醸し出しています。

そんなわけで、アラン・メンケンの誕生日である今日はその『Under the sea』をお聴きいただきたいと思います。アカデミー賞やグラミー賞といった数々の賞を授賞した、心浮き立つようなディズニーメロディをお楽しみください。


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今日はアイザック・スターンの誕生日〜ライブでのフランク《ヴァイオリン・ソナタイ長調》より第4楽章

2022年07月21日 11時30分10秒 | 音楽
昨日ほどではないにせよ、今日も日中は30℃を超える暑さとなりました。今日から小学校が夏休みに入りましたが、このタイミングで昼間に出かけなくて済むのは助かります。

4月から新たな学校での就業でバタバタでしたが、今日からしばらくはゆっくりと休養できそうです。これから40日ちょっと、私はダメ人間になります!(オイ…)

ところで、今日7月21日はアイザック・スターンの誕生日です。



アイザック・スターン(1920〜2001)はユダヤ系のヴァイオリニストで、20世紀から今世紀初頭にかけての時代を代表する名演奏家のひとりです。

アイザック・スターンはポーランド(現ウクライナ)のクレメネツで、ユダヤ人の家庭に生まれました。1928年には8歳にしてサンフランシスコ音楽院に入学し、1931年まで学びました。

1936年2月18日、15歳の時にピエール・モントゥー指揮のサンフランシスコ交響楽団とサンサーンスの《ヴァイオリン協奏曲第3番ロ短調》を演奏してデビューしました。1940年にはロシア出身のピアニストのアレクサンダー・ザーキンと演奏を始め、1977年まで名コンビとして共演していました。

1960年代には『カーネギーホールを救う市民委員会』を組織し、ニューヨークのカーネギーホールを取り壊しから守るために大きな役割を果たしました。カーネギーホールがニューヨーク市に買収された後に『カーネギーホール・コーポレーション』が設立されるとその初代社長に選ばれ、亡くなるまでその職を務めました。

1960年代から70年代にかけてピアニストのユージン・イストミン、チェリストのレナード・ローズと室内楽トリオを結成し、その録音ではグラミー賞を受賞しました。また1980年代から90年代にかけては、ピアニストのエマニュエル・アックス、ヴィオリストのハイメ・ラレド、チェリストのヨーヨー・マらとモーツァルト、ベートーヴェン、シューマン、フォーレなどのピアノ四重奏曲を録音し、1992年にはブラームスのピアノ四重奏曲でグラミー賞を受賞しました。

他にも、1971年に公開された映画《屋根の上のバイオリン弾き》のサウンドトラックにヴァイオリンのソリストとして参加し、作中のヴァイオリン演奏の吹き替えも行っています。また、1999年には映画《ミュージック・オブ・ザ・ハート》に出演し、イツァーク・パールマンやジョシュア・ベルをはじめとする有名なヴァイオリン奏者たちと共に、メリル・ストリープ率いる青少年オーケストラと共演しています。

アイザック・スターンが録音した作品にはバッハ、ベートーヴェン、メンデルスゾーン、ブラームス、シベリウス、チャイコフスキー、ヴィヴァルディなどの協奏曲や、バーバー、バルトーク、ストラヴィンスキー、バーンスタイン、デュティユーなどの現代作品があります。室内楽でもバッハの無伴奏ソナタ・パルティータやモーツァルト、ベートーヴェン、ブラームス、フォーレ等のヴァイオリン・ソナタを精力的に録音しています。

そんな中で、今日はスターンの演奏で個人的に大好きなフランクのヴァイオリン・ソナタをご紹介しようと思います。



セザール・フランク(1822〜1890)の《ヴァイオリン・ソナタイ長調》はフランス系のヴァイオリンソナタの最高傑作といわれ、同郷の後輩であるヴァイオリニストのウジェーヌ・イザイの結婚祝いとして1886年に作曲・献呈された作品です。このソナタの特徴としてはピアノとヴァイオリンとの音楽的内容が対等で、単なるピアノ伴奏付きのヴァイオリン・ソナタというよりもピアノとヴァイオリンのグランデュオとでも呼ぶべき大曲です。

スターンによるフランクの録音といえば、1959年にザーキンと録音したものが名盤とされています。ただ、今日はそれよりも下った1985年のライブ映像をご紹介しようと思います。

この時スターンは65歳、正に円熟の境地にあって尚、瑞々しい音色と豊かな表現には圧倒されます。スターン愛用のグァルネリ・デル・ジェスの響きも見事です。

そんなわけでアイザック・スターンの誕生日である今日は、フランクの《ヴァイオリン・ソナタイ長調》から終楽章の演奏動画を御覧いただきたいと思います。還暦を過ぎてますます冴え渡る、圧巻のライブ演奏をお楽しみください。


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ドタバタ終業式とひんやりコーヒーグラニテ@横浜あざみ野《雫ノ香珈琲》

2022年07月20日 18時10分10秒 | カフェ
今日で小田原市内の小学校は終業し、明日から夏休みとなりました。ついこの前始まったばかりだと思っていたのにもう終業式とは、何だか早いものです。

それについては机の中にあるものや座布団を兼ねている防災頭巾などを持ち帰らせる必要があったのですが、今まで何やかんやと物を持ち帰っていなかった子たちは、溜まりに溜まった荷物を全て背負って財産ありぎり持ち帰るような格好になっていました。それでも、重いだ何だと散々ゴネている彼らに対して私は

「今までだって少しずつ物を持ち帰るチャンスはいっぱいあったよね。それを何だかんだ理由をつけて先延ばしにして持ち帰らなかったのは自分でしょ?今日は雨も降ってないんだから手も空いてるし、頑張って持って帰ってね♪」

と言ってやったら、渋々持ち帰っていました。

午前中授業を終えて大荷物の子どもたちを送り出してから、大人たち総出で教室や廊下や昇降口や体育館の大掃除をしました。1時間ちょっとかかりましたが、終わった頃には全員汗だくクタクタになっていました…。

そんな小学校勤務を終えて、太陽がジリジリと照りつける中を小田原駅まで向かい、そのまま横浜あざみ野の音楽教室に向かいました。そして、いつものように《雫ノ香珈琲》に立ち寄りました。

今日はとにかく暑かったので、



夏の定番商品である『コーヒーグラニテ』をお願いしました。お店のスペシャルティコーヒーで作られたグラニテはザクザクとした食感とコーヒーの香りが絶妙で、大掃除で火照った身体に染み渡ります。

今日も水出しコーヒーと一緒に、美味しく堪能しました。やはり、こちらでいただくコーヒーは格別です。

さて、明日から私も学校は夏休みです。とは言ってもそれなりにやることはありますから、熱中症対策や、昨今また罹患者数が急増しているコロナ対策に引き続き留意しながら過ごそうと思います。

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『小田原』は読み間違い!?

2022年07月19日 18時30分10秒 | 日記
今日も時折雨の降る、蒸し暑い一日となりました。折角例年より早く梅雨明けしたのに、まるで梅雨末期のような不快な天候が続いていると何だか気分が滅入ります。

さて、今日小学校の社会の授業で小田原について調べる時間がありました。ただ、教室が蒸し暑かったことと夏休み前の短縮授業ということもあって、何となく子どもたちもダラけ気味でした。

そんな中で、一人の生徒が

「先生(私)、小田原のことで何か知ってることありますか?」

と質問してきたのです。それで、ちょっと考えたのですが

「『小田原』っていう地名は読み間違いからついたって知ってますか?」

と言ったら

「えっ!?読み間違い?」

と素っ頓狂な大きな声を出したのです。

はじめはその子にだけ話していたのですが、その子があまりにも大きな声で反応したため、周りの子たちも

「何だ何だ!?」

という感じでザワつき始めてしまいました。しかも、質問してきた子が

「『小田原』って読み間違いでついたんだって!」

と大きな声で言い放ったため、教室中が大騒ぎになってしまい、結局私がその場で全員にどういうことかを説明することとなってしまいました(汗)。



『小田原』という地名の由来には諸説ありますが、一番有名で有力なのが『草書体の読み間違いからついた』というものです。これは



PHP文庫から出ている《神奈川県民も知らない地名の謎》という本にも書かれていることで、表紙にもそのことが書かれています。

古来、小田原一帯は『こゆるぎの郷』と呼ばれていました。今でも大磯町から小田原市国府津にかけての相模湾一帯の海岸で「小余綾(こゆるぎ)」という表示名を見かけることがありますし、小田原駅の駅弁にも



『こゆるぎ弁当』という名前の商品があります。

この『こゆるぎ』という言葉には『しょっちゅう揺るぐ所=地震が頻発する所』という意味があります。今でも相模湾近辺は地震の多いところですが、それは昔も同じだったようです。

この『こゆるぎ』という地名は歌にも謳われていて、奈良時代に編纂された万葉集では相模国の『餘綾郡(よろぎのこおり)』の海岸を『餘呂伎能波麻(よろぎの浜)』と詠い、平安時代に編纂された古今和歌集ではそれに接頭語の『小』をつけて、『小輿呂木(こよろぎ)の磯』と詠っています。後に『餘綾郡』が『淘綾郡(ゆるぎのこおり)』と改められた後の和歌集では『こゆるぎの磯』と詠われ、更に平安時代中期から鎌倉時代の和歌の世界では小田原近辺の地名を離れて、広く相模湾沿岸を指す懸詞や枕詞として使われるようになりました。

さて、その『こゆるぎ』がどうやって『小田原』になったのかという謂れですが、《新編相模国風土記稿》によれば『小田原』という地名が『こゆるぎ』を漢字表記した『小由留木』という文字の草書体を誤読したことに由来する…と言う説を紹介しています。

『小由留(る)木』を縦書きの草書体で書くと



となりますが、こう見ると『由』の字が『田』に見えなくもありません。更に、『る木』と『原』を草書ならではの連綿体で書いたものを見比べてみると



右が『る木』、左が『原』ですが、こうして並べてみると確かに似ています。

では、いつ頃から『小田原』と呼ばれるようになったのかでしょうか。

戦国武将のひとりとして有名な北条早雲が小田原城に入城したのが1495年のことてすが、実はそれ以前の1418年には駿東から侵略してきた大森頼春が、現在の小田原城よりもやや北部に小田原砦や小田原館を築いています。これより以前の鎌倉時代、この地域には松田氏・河村氏・曽比氏・栢山氏・曽我氏・成田氏などの武士集団がいて現在でも小田原市とその周辺に地名や駅名として残っていますが『小田原氏』という御家人や豪族はいないため、恐らく鎌倉時代にはこの地域を総称して『小田原』と呼んでいたのではないかと推測されています。

本来ならば、地元の地名を読み間違いされるということは、住民にとっては不名誉なことだろうと思います。それでもその読み間違いが受け入れられたということの背景には、『こゆるぎ=地震頻発地域』という他所から聞いたら何とも危なっかしそうに聞こえてしまう地名を、上手いこと誤魔化してしまうチャンスととらえた人がいたのではないでしょうか(あくまでも個人的憶測です)。

そんなわけで、『小田原』という地名は『小由留木』の読み間違いからついたもの…というのが最も有力な説です。因みに、栃木県大田原市とは何の関係もありません(笑)。

それにしても意図せぬこととは言え、またしても教室をザワつかせてしまいました。後で担任の先生にはよくよくお詫び申し上げましたが、あまり出過ぎたマネをしないように気をつけようと思います…。

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町田・小山田神社の大賀ハス

2022年07月18日 13時50分45秒 | 
今日は海の日です。正確には7月20日が制定当初の海の日ですが、ハッピーマンデー制度によって7月の第3月曜日になりました。

そんなわけで、今日は海…へは行かず、始発のバスに乗って町田市の小山田地区に行きました。小山田といえば小山田神社、そして小山田神社といえば



辺り一面を埋め尽くす大賀ハスの群生です。

町田駅から小山田行きのバスに揺られること20分あまり、桜橋というバス停で下車して歩くと小山田神社の御社と



その周囲を埋め尽くすように植えられた大賀ハス畑が見えてきます。この大賀ハスは近くにある大賀藕絲館(おおがぐうしかん)という施設によって栽培されているもので、この蓮の茎から蓮糸(藕絲)を取って織物にしたり、蓮の実を取ってお菓子を作ったりしています。

先ずは



御社にお参りすることにしました。こちらの御祭神は天照大御神です。

お参りを済ませてから、神社の周りの畦道を歩いて回ってみることにしました。ここ数日の雨をたっぷりと含んでぬかるんだ畦に足を取られそうになりながら進むと、





あちこちに薄紅色の蓮の花が顔を覗かせていました。

今年はいつもより梅雨明けが早かったこともあって例年より開花が早かったようで、





思ったよりも花数が少ないように見えました。それでもよく見てみると、



あちこちに蕾が出ていたので、もうしばらくは花を楽しむことができそうです。

畑に着いた時には厚い雲が空を覆っていて、強烈な日差しと暑さをシャットしてくれていました。その雲が一瞬切れて眩しい光が差し込むと



花弁についた朝露や



葉に溜まった水玉がキラキラと輝いて、美しい光景となっていました。

ところで、今回気になったのは蓮田の荒れっぷりです。昨年も目についてはいましたが、今年も見てみると













蓮田や畦道のそこかしこに夏草が生い茂っていたり、



一部の蓮田に蓮が植わっていなかったりといった、整備の甘い箇所が目立っていたのが気になりました。

それでも



美しい古代蓮の花が風に揺れる様は、いつ見てもいいものです。整備される方々の御苦労もあるかと思いますが、これからも



こうした美しい大賀ハスの花が楽しめることを願って止みません。

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今日はヘンデルの《水上の音楽》初演の日〜華やかな《水上の音楽》第2組曲

2022年07月17日 12時35分00秒 | 音楽
昨日一日中降ったり止んだりした豪雨もようやく落ち着き、今日は曇りがちな天候で明けました。そこからは晴れ間がのぞいたり俄か雨が降ったりを繰り返していましたが、昨日の荒天と比べれば穏やかといえるお天気ではありました。

ところで、今日7月17日は



ヘンデルの《水上の音楽》が初演された日です。

《水上の音楽》は、当時のイギリス王室がテムズ川の川面に船を浮かべて涼を取りながら音楽を聴くという、夏の優雅な舟遊びのために作曲されました。 当時の王室の舟遊びは涼を取るという他にも、王室の威厳や優雅さを象徴する催し物としても開催されていたようです。

この曲の誕生には、ちょっとした伝承があります。

ヘンデルは25歳の時(1710年)にドイツのハノーファー侯の宮廷楽長になっていましたが、間もなく休暇をとってイギリスへ渡りました。そこで大歓迎を受けたヘンデルは2年後に再び渡英し、時のアン女王の寵愛を受けたこともあって、今度はハノーファー侯の再三の帰国命令を無視してロンドンに居座ってしまいました。

そのままシレッとイギリスで音楽活動を続けていたヘンデルですが、そこに思わぬ事態が起こります。1714年にアン女王が急逝すると、あろうことかかつての主君ハノーファー侯がイギリスの新しい国王に就任し、ジョージ1世としてヘンデルのいるイギリスヘやって来てしまったのです。

ヘンデルとしては

「これはマズい…!」

ということになり、なんとか新国王のご機嫌を取るために作った曲がこの《水上の音楽》だ…というのが、この曲が誕生した経緯だといわれています。そして、王がテムズ川で舟遊びをするために船出した時にこっそりとオーケストラを乗せた御座船で追いかけ、頃合いを見計らって壮大な管弦楽曲を演奏して、その結果



ジョージ1世とヘンデルはめでたく和解した…という話なのです。(ただ、実際にこの曲が出来た時には既に彼らは和解していたようです)。

《水上の音楽》は第1・第2・第3の3つの組曲からなり、それぞれに管楽器の編成が異なります。第1組曲はバロック音楽のオーケストラに典型的なオーボエ・ファゴット・ホルンが用いられ、第2組曲はそこにトランペットが加わって一段と華やかなものに、第3組曲ではトランペットが除かれてフルートやピッコロが加えられ、柔らかな響きの作品となっています。

そんなわけで今日は《水上の音楽》から、最も華やかな第2組曲をお聴きいただきたいと思います。本番イギリスのロイヤル・アルバート・ホールで2012年に行われたプロムスでの、古楽アンサンブル『コンセール・スピリチュエル』による壮麗で典雅な演奏をお楽しみください。



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