スーズダリの見学を終えて、午後はウラジーミルに向かいました。
ウラジーミルはモスクワの北東約170kmに位置し、スーズダリからはバスで40分ほどの距離にあります。
ウラジーミルの歴史は、1108年に、キエフ・ルーシ王朝のウラジーミル・モノマフ公が要塞を築いたのが始まりで、孫の代にウラジーミル・スーズダリ公国の首都になりました。内乱や遊牧民の侵入でキエフの勢力が弱まると、1169年以降ルーシーの首都はウラジーミルに移され、この時期がウラジーミルの全盛期になりました。1238年、モンゴル軍の進攻によって街は破壊され、それ以降は政治の中心地は新興のモスクワに映っていきました。
現在のウラジーミルは、新しい街並みも整備されており、その中に古い建造物が残されている状態です。古い街がそのまま残されているという点では、スーズダリの方が魅力的です。
まずは、黄金の門を見学しました。
黄金の門は、キエフの黄金の門を模して12世紀半ばに造られた城門です。街を囲む城壁のうち、残されているのはこれだけです。門の上には教会が造られていますが、現在では、戦争に関する資料館になっているようです。
バスに戻って、聖堂広場に移動しました。広場には、モニュメントが置かれていました。モニュメントの下には、この町を支えた貴族,学者,兵士,労働者の像が置かれています。
聖堂広場からは、ウスペンスキー大聖堂が見えています。
ウスペンスキー大聖堂は、金色に塗られた五つの円塔が印象的です。
黒服で髭をたくわえた神父様も歩いていました。
ウスペンスキー大聖堂の入り口
ウスペンスキー大聖堂は、1158年に建造が始まり、14世紀初めまではロシアの大聖堂の最高位にあった歴史的な教会です。モスクワ大公の戴冠式はここで行なわれ、その後に皇帝の戴冠式が行なわれることになるモスクワのウスペンスキー大聖堂は、この教会を真似て造られました。建造には、この地方に特徴的な白石(石灰岩)を使っていることから、世界遺産に取り上げられた際の名称も「ウラジーミルとスーズダリの白亜の建造物群」となっています。
ウスペンスキー大聖堂の内部は撮影禁止でしたので、現地で購入したぱガイドブックより。
大聖堂の内部は歴代の公の廟が置かれており、壁一面がフレスコ画に覆われています。これはレイ・ルブリョフが描いた最後の審判です。
また、この教会に関係して触れなければならないのは、このイコン「ウラジーミルの聖母(生神女)」でしょう。
コンスタンチノーブルで描かれたこの絵は、軌跡を起こすイコンとして知られ、ウスペンスキー大聖堂に収められていました。
イコンを運んでいた際、イコンを乗せた馬がウラジーミルで止まり進まなくなりました。このイコンはウラジーミルに留められるべきである事を示していると解釈され、この地にウスペンスキー大聖堂を建てて納められたと伝えられています。
1395年、ティムール朝による脅威がモスクワ大公国に迫るなか、ヴァシーリー1世はウラジーミルからこのイコンをモスクワに借り受けました。ヴァシーリー1世をはじめとしたモスクワの人々がこのイコンに夜通し祈り続けていると、翌日にはティムール朝の軍は引き揚げていったといいます。この奇蹟がきっかけとなりモスクワはこのイコンのウラジーミルへの返還をせず、代わりに模写をウラジーミルへ贈り、イコン「ウラジーミルの生神女」はモスクワ・クレムリンにある生神女就寝大聖堂 (モスクワ)(ウスペンスキー大聖堂)に納められました。
現在は、トレチャコフ美術館付属の教会に収められています。モスクワに異動後、トレチャコフ美術館を訪れたのですが、このイコンは付属の教会に置かれており、拝観時間が限られているようで見学することができなかったのは残念なことでした。
教会の外に出ると、前庭の一段下のテラスには、ウラジーミル公の像が置かれていました。
教会は丘の上にあって見晴らしがききました。長い編成の列車が通り過ぎるのが見えました。
続いて、隣り合うドミトリエフスキー聖堂を訪れました。
12世紀末にフスイエーヴァラト公の宮殿内に建てられた教会です。外壁一面に施された浮彫が有名です。
聖人や歴史上の英雄、動植物が描かれており、「石の詩」、「石のカーペット」などとも呼ばれています。
この場面では、ダビデ王が竪琴を弾いているのを動物が取り囲んでいます。
聖人かな。
聖人の頭の上にネコのような動物が描かれています。
ドミトリエフスキー聖堂を別な角度から。
ウスペンスキー大聖堂をもう一度振り返ってからバスに戻りました。
スーズダリに戻る途中、野原が紫の花に覆われているのを見ました。
スーズダリとウラジーミルの観光を終え、翌日は途中にセルギエフ・ポサードを見学してモスクワに向かうことになりました。
ウラジーミルはモスクワの北東約170kmに位置し、スーズダリからはバスで40分ほどの距離にあります。
ウラジーミルの歴史は、1108年に、キエフ・ルーシ王朝のウラジーミル・モノマフ公が要塞を築いたのが始まりで、孫の代にウラジーミル・スーズダリ公国の首都になりました。内乱や遊牧民の侵入でキエフの勢力が弱まると、1169年以降ルーシーの首都はウラジーミルに移され、この時期がウラジーミルの全盛期になりました。1238年、モンゴル軍の進攻によって街は破壊され、それ以降は政治の中心地は新興のモスクワに映っていきました。
現在のウラジーミルは、新しい街並みも整備されており、その中に古い建造物が残されている状態です。古い街がそのまま残されているという点では、スーズダリの方が魅力的です。
まずは、黄金の門を見学しました。
黄金の門は、キエフの黄金の門を模して12世紀半ばに造られた城門です。街を囲む城壁のうち、残されているのはこれだけです。門の上には教会が造られていますが、現在では、戦争に関する資料館になっているようです。
バスに戻って、聖堂広場に移動しました。広場には、モニュメントが置かれていました。モニュメントの下には、この町を支えた貴族,学者,兵士,労働者の像が置かれています。
聖堂広場からは、ウスペンスキー大聖堂が見えています。
ウスペンスキー大聖堂は、金色に塗られた五つの円塔が印象的です。
黒服で髭をたくわえた神父様も歩いていました。
ウスペンスキー大聖堂の入り口
ウスペンスキー大聖堂は、1158年に建造が始まり、14世紀初めまではロシアの大聖堂の最高位にあった歴史的な教会です。モスクワ大公の戴冠式はここで行なわれ、その後に皇帝の戴冠式が行なわれることになるモスクワのウスペンスキー大聖堂は、この教会を真似て造られました。建造には、この地方に特徴的な白石(石灰岩)を使っていることから、世界遺産に取り上げられた際の名称も「ウラジーミルとスーズダリの白亜の建造物群」となっています。
ウスペンスキー大聖堂の内部は撮影禁止でしたので、現地で購入したぱガイドブックより。
大聖堂の内部は歴代の公の廟が置かれており、壁一面がフレスコ画に覆われています。これはレイ・ルブリョフが描いた最後の審判です。
また、この教会に関係して触れなければならないのは、このイコン「ウラジーミルの聖母(生神女)」でしょう。
コンスタンチノーブルで描かれたこの絵は、軌跡を起こすイコンとして知られ、ウスペンスキー大聖堂に収められていました。
イコンを運んでいた際、イコンを乗せた馬がウラジーミルで止まり進まなくなりました。このイコンはウラジーミルに留められるべきである事を示していると解釈され、この地にウスペンスキー大聖堂を建てて納められたと伝えられています。
1395年、ティムール朝による脅威がモスクワ大公国に迫るなか、ヴァシーリー1世はウラジーミルからこのイコンをモスクワに借り受けました。ヴァシーリー1世をはじめとしたモスクワの人々がこのイコンに夜通し祈り続けていると、翌日にはティムール朝の軍は引き揚げていったといいます。この奇蹟がきっかけとなりモスクワはこのイコンのウラジーミルへの返還をせず、代わりに模写をウラジーミルへ贈り、イコン「ウラジーミルの生神女」はモスクワ・クレムリンにある生神女就寝大聖堂 (モスクワ)(ウスペンスキー大聖堂)に納められました。
現在は、トレチャコフ美術館付属の教会に収められています。モスクワに異動後、トレチャコフ美術館を訪れたのですが、このイコンは付属の教会に置かれており、拝観時間が限られているようで見学することができなかったのは残念なことでした。
教会の外に出ると、前庭の一段下のテラスには、ウラジーミル公の像が置かれていました。
教会は丘の上にあって見晴らしがききました。長い編成の列車が通り過ぎるのが見えました。
続いて、隣り合うドミトリエフスキー聖堂を訪れました。
12世紀末にフスイエーヴァラト公の宮殿内に建てられた教会です。外壁一面に施された浮彫が有名です。
聖人や歴史上の英雄、動植物が描かれており、「石の詩」、「石のカーペット」などとも呼ばれています。
この場面では、ダビデ王が竪琴を弾いているのを動物が取り囲んでいます。
聖人かな。
聖人の頭の上にネコのような動物が描かれています。
ドミトリエフスキー聖堂を別な角度から。
ウスペンスキー大聖堂をもう一度振り返ってからバスに戻りました。
スーズダリに戻る途中、野原が紫の花に覆われているのを見ました。
スーズダリとウラジーミルの観光を終え、翌日は途中にセルギエフ・ポサードを見学してモスクワに向かうことになりました。