さすらい人の独り言

山登り、日々の独り言。
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さすらいの風景 カラク城 その1

2014年03月25日 | 海外旅行
ヨルダンに到着してその日の宿泊地のペトラに向かう途中、カラク城を見学しました。

カラク城は、アンマンの南140kmの、ダマスカスからエジプトやメッカに至る交易路の「王の道」沿いの戦略的位置にあります。

ローマ教皇の呼びかけに応えて聖地エルサレムへ向かった第1回十字軍は、殺戮、略奪、強姦などの暴虐を尽くした末、1099年にエルサレムを占領しました。十字軍の指導者になっていたゴドフロワ・ド・ブイヨンは、エルサレムを拠点に残存するイスラム勢力との戦いを続けましたが、1100年にエルサレムで亡くなりました。その弟のエデッサ伯ボードゥアン(ボードゥアン1世)が後を継いで「エルサレム王」を名乗り、十字軍国家「エルサレム王国」が誕生しました。

カラク城は、ヨルダン側に進出した十字軍によって要塞都市の建築が始まり、1161年に完成しました。このカラク城の名前が現在に至るまで知られているのは、城主であったルノー・ド・シャティヨンが休戦中にも関わらずキャラバンを襲って虐殺し、アイユーブ朝のサラディーンに攻撃の口実を与え、1187年のハッティンの戦いにおける十字軍の大敗、その後のエルサレム陥落を招いたことです。カラク城も、サラディンによる一年間の包囲戦の後に落城しました。

街が近づいたところで、バスから降りてカラク城の全景を眺めました。カラク城は深い谷が迫った丘の上に広がっていました。



強固な城壁がめぐらされています。



斜面の途中には、見張り塔も設けられていました。



民家が並ぶ丘を上って、入場口の前でバスを降りました。カラク城の中へは、北堀を渡って入ります。壁には、矢を射るための細い隙間が開けられています。



入り口の脇には、大砲も置かれていました。これは、これは近代になってこの一帯を軍事支配していたイギリス軍のものでしょうか。



北堀は、もとは30mの深さがあったといいます。北壁は十字軍時代に造られたものです。



入場口の橋からは、城を囲む崖を見下ろすことができました。



城内は、壁がめぐらされていました。



北壁の裏側にある十字軍の兵士溜りへの入り口が見えてきましたが、こちらの見学は後回しになりました。



まずは、西側に広がる地下兵舎に向かいました。



入り口には、馬をつなぐための穴を開けた石が見られました。



薄暗い通路が延びていました。



通路の脇には小部屋が設けられていました。



床の穴から、さらに下にある部屋をのぞくことができました。



通路を抜けた先の小広場。



石垣の中を見ていくと、ローマ時代の神殿の円柱が埋め込まれているのを見ることができます。

このような石垣へ他で用いられていた石を使うことは、日本の城の石垣でも見られ「転用石」と呼ばれています。

築城に際しては、急遽多量の石が必要になるために石不足になること、敵の武将の墓石を使用することで己の権力を誇示したり、城を守護するためなどの理由が考えられています。日本では、墓石、石仏、宝篋印塔、燈籠、五輪塔、石臼などが多く使われています。



ナバテア族のレリーフも見ることができました。
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