今回は前回からの続きで、東京都台東区にあります東京国立博物館を出て向かった先は、同じく都内の文京区にあり、国の史跡に指定されています湯島聖堂です。
実は、当初の予定では、東京国立博物館を出た後、文京区にあります別の場所に向かう予定だったんですが、その場所の見学時間が決まっていまして、まだ拝観時間になっていなかったため、その場所からそう遠くなく、私の興味もそそる湯島聖堂に足を延ばした次第です。
湯島聖堂というと私のような日本史好きには‘昌平坂学問所’という名前の方がしっくりくる感じなんですが、元々、江戸幕府の儒家であった林家の私塾がこの地にあり、その後、江戸幕府の老中であった松平定信(詳しくはインターネット等でお調べ下さい)の寛政の改革の一環で行われた‘寛政異学の禁’という政策により、寛政9年(1797年)に、林家の手を離れて幕府直轄の学校‘昌平黌’とも呼ばれる昌平坂学問所となりました。
その後、明治維新を経て、明治政府の管轄となり、一時期には、文部省、前回、前々回のブログで紹介した東京国立博物館の前身である博物館、現在の筑波大学やお茶の水女子大学の前身である東京師範学校や東京女子師範学校が、構内にあったそうです。
大正11年(1922年)には、国の史跡に指定されましたが、翌年に関東大震災が発生、ほとんどの建造物が焼失し、現在の大成殿は、2015年8/22付けのブログで紹介した東京都中央区にあります築地本願寺を設計した伊東忠太(この方も詳しくはインターネット等でお調べ下さい)が設計し、昭和10年(1935年)に再建されました。
私は、特に儒学を学んだ事はありませんが、こういった日本史上でも重要な位置づけにある場所を訪れるのは、非常に感慨深いものがありまして、史跡というと、それこそ跡地となって石碑等だけが建立してあるような場所も多い中、再建された建造物とは言え、このように昔と同じ場所に、その時代を彷彿とさせるような建造物があるのはありがたい事ですね。
さて、湯島聖堂を出て向かった先は、上記で書いたように、同じく文京区内にあります別の場所に向かったんですが、どこに向かったかは明日以降のブログにて紹介したいと思います。
実は、当初の予定では、東京国立博物館を出た後、文京区にあります別の場所に向かう予定だったんですが、その場所の見学時間が決まっていまして、まだ拝観時間になっていなかったため、その場所からそう遠くなく、私の興味もそそる湯島聖堂に足を延ばした次第です。
湯島聖堂というと私のような日本史好きには‘昌平坂学問所’という名前の方がしっくりくる感じなんですが、元々、江戸幕府の儒家であった林家の私塾がこの地にあり、その後、江戸幕府の老中であった松平定信(詳しくはインターネット等でお調べ下さい)の寛政の改革の一環で行われた‘寛政異学の禁’という政策により、寛政9年(1797年)に、林家の手を離れて幕府直轄の学校‘昌平黌’とも呼ばれる昌平坂学問所となりました。
その後、明治維新を経て、明治政府の管轄となり、一時期には、文部省、前回、前々回のブログで紹介した東京国立博物館の前身である博物館、現在の筑波大学やお茶の水女子大学の前身である東京師範学校や東京女子師範学校が、構内にあったそうです。
大正11年(1922年)には、国の史跡に指定されましたが、翌年に関東大震災が発生、ほとんどの建造物が焼失し、現在の大成殿は、2015年8/22付けのブログで紹介した東京都中央区にあります築地本願寺を設計した伊東忠太(この方も詳しくはインターネット等でお調べ下さい)が設計し、昭和10年(1935年)に再建されました。
私は、特に儒学を学んだ事はありませんが、こういった日本史上でも重要な位置づけにある場所を訪れるのは、非常に感慨深いものがありまして、史跡というと、それこそ跡地となって石碑等だけが建立してあるような場所も多い中、再建された建造物とは言え、このように昔と同じ場所に、その時代を彷彿とさせるような建造物があるのはありがたい事ですね。
さて、湯島聖堂を出て向かった先は、上記で書いたように、同じく文京区内にあります別の場所に向かったんですが、どこに向かったかは明日以降のブログにて紹介したいと思います。