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地域格差縮小のために個人が犠牲になる

2009-08-13 08:24:36 | 読書ノート
苅谷剛彦『教育と平等:大衆教育社会はいかに生成したか』中公新書, 中央公論, 2009.

 「平等」をコンセプトに日本の戦後教育史を辿った書籍。かなり硬派な内容。

  日本の教育史では、いわゆる「逆コース」論を背景にした「終戦直後の数年間は個々の学校や教師による自由な教育が実施できたが、その後は文部省の統制が強まり教育の中央集権体制が強まった」という議論をよく目にする。普通の教育学の本に出てくるので、特に日教組関係者だけの史観というわけではないようだ。

  この書籍は上のような日本の教育行政に否定的な史観に対する反論となっている。学校や教師の自由に任せると、力量や予算に差があるために、クラスや学校間に学力の差が生まれる。これは昔から問題となっていたようだ。対して、地域間の格差を縮小する目的で、文部省は1950年代後半から、全国一律の指導要領を作成し、裕福でない地域の学校に補助金を与えた。また、地方の行政府と教員も同じ問題意識を共有していたので、文部省の政策を「積極的に」──「渋々」ではなく──受け入れた。結果として、日本の義務教育は地域間の格差の縮小に成功したという。

  著者の議論はそこで終わっていない。問題は、そこでの「平等」が「都道府県や市町村の間にある平均の差の縮小」にすぎないことである。それは、家庭環境や能力に問題のある児童を特定して、彼らの学力を平均まで到達できるよう指導する、という米国で一般的な「平等な教育」観とは異なっている。この点は、クラス編成の思想や予算配分から裏付けられている。日本の教育行政では、地域の平等が志向され、個人間の平等が置き去りにされているのだ、と。これでは、家庭環境や能力に問題のある児童が見過ごされてしまう。

  読んで思うのは、日本における「地域格差を埋めなくてはならない」というパラダイムの強さである。格差を縮小するための予算は、個人ではなく地方政府や学校のような中間共同体に配られるだけだ。このような状況は、義務教育以外の分野でもきっとそうなのだろう。



  
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