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図書館・情報学関連の雑記、読書ノート、音楽ノート、日常生活の愚痴など。

理想化された民主主義思想を反民主主義であるとして批判する

2024-10-20 21:00:29 | 読書ノート
エミリー・B.フィンレイ 『民主至上主義』加藤哲理訳, 柏書房, 2024.

  民意を理想化して現実の民主政治を批判する態度を「民主至上主義(democratism)」と定義し、これを反民主主義思想であるとやり返す内容である。日本だと、自民党が国政選挙に勝っても「民意は示されなかった」などと選挙結果が不正であるかのように解釈する態度のことだ。著者は米国の大学講師。民主主義の研究者でFinleyという苗字だと、講談社学術文庫から翻訳が出ている『民主主義:古代と現代 』の著者モーゼス・フィンリーが思い浮かぶのだが、プロフィールで特に言及がないのでたぶん無関係な人なんだろう。原書はThe Ideology of Democratism (Oxford University Press, 2022.)である。

  民主至上主義の起源はルソーである。政府は公益のために理性的に統治されるべきであり、政治に私的な利害関係を混入させるべきではないとする。こうした発想は、米国のフェデラリストの思想とは相反するものである。フェデラリストらは政治とは私的な利害の調整の場であるという認識を持っていて、権力を制限かつ分権化することで特定の個人やグループの独裁を防ぐ政治体制を考えた。彼らは、選挙において時にはある派閥が勝ち、別の機会には別の派閥が勝って国の支配的な地位に就くことになるが、その永続が制度的に妨げられていることでよしとする。しかし、民主至上主義者にとっては、政治が私的利益追求の場となっているということ自体が悪である。この悪を取り除くために、一般の人々を教育=啓蒙して、公共善すなわち一般意志との一体化へと誘導することを彼らは目論む。著者はこれを「一般意志を理解していると自称するエリートの優越」すなわちエリート主義であり反民主的である、と批判してゆく。

  著者によれば、民主至上主義の系譜はトマス・ジェファーソン、ウッドロー・ウィルソン、ジャック・マリタン(カトリックの思想家とのこと)、ロールズとハーバーマス、新保守主義に受け継がれているという。各章でそれぞれの思想に分け入って共通する特徴を描き出している。特に興味深いのは外交政策への影響についてである。19世紀の米国は外交において不干渉主義をとっていた。しかし20世紀になると、外国の独裁者を倒して民主主義政権を打ち立てるべく軍事力を用いるようになった。この傾向は、ネオコンが政権の要職に就いていたブッシュ息子時代が特に当てはまるという。アフガニスタンやイラクへの軍事力による民主主義の輸出という試みは、独裁以上に悪い無秩序をもたらし、戦火の中生き残った現地民を反米主義者に変え、さらに民主主義を根付かせることに失敗した。これら軍事行動とそれに伴う大きな犠牲は、現実の政体とは異なる「現地住民の民意」なるものをネオコン=民主至上主義者が無根拠に夢想したことによってもたらされたと著者は非難する。

  以上。民主主義に伴う理想主義を一貫した原理主義思想として描くことを試みている。読者としては、理想主義の程度の問題をかなり強引に二元論に変換してしまっているという印象をもった。しかし、二元論に変えることでその含意や帰結が分かりやすくなったところもあり、一長一短である。また、フェデラリスト的政治観と民主至上主義的政治観は優れた対比であるし、読んでおいて損はない。何より、大きな犠牲をともなったとしても何としても建前を維持するという米国人の行動様式を知ることができ、本音重視の日本人との違いに驚かされる。米国人と接する機会のある日本人には有益だろう。 
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歴史には法則があるという説を米国の人口動態をもとに肉づける

2024-10-09 21:38:50 | 読書ノート
ピーター・ターチン『エリート過剰生産が国家を滅ぼす』濱野大道訳, 早川書房, 2024.

  歴史学。著者は1957年ロシア生れで、父親の亡命に従って1970年代に米国に移住している。1980年代まで生物学者として、群の個体数の変化について数理モデルを用いた研究をしていたが、その後歴史学者に転身した。人口動態や社会階層の移動といったいくつかの要因から一国の栄枯盛衰のパターンを予測するモデルの構築を試みており、本書はその成果を一般向けにわかりやすく説明したものである。原書はEnd Times: Elites, Counter-Elites, and the Path of Political Disintegration (Penguin, 2023) である。

  このブログではこれまで著者の唯一の邦訳だった『国家興亡の方程式』をすでに紹介している。そこでは、近代以前の国家に限ると、支配層が人口比に占める割合が高くなると、一般庶民から収奪できる富の分け前が少なくなるため、支配層の間で争いが起きるというパターンを発見していた。この『エリート過剰生産が国家を滅ぼす』は同じパターンを適用して近代国家の栄枯盛衰も説明できると主張する。前近代では一夫多妻制が支配層の人口比を高める要因であった。米国の場合は、金権政治(plutocracy)が支配層の富の一極集中を高める要因となっているという。注意すべきは、本書でいう「金権政治」は、日本でイメージされるような賄賂や利益誘導などの政治家の汚職のことではなく、政治や法が合法的に富裕層を有利にしているという制度の在り方のことである。著者の見立てでは、民主制であろうと独裁国家であろうと、政治体制とは無関係に金権政治になりうる。

  近年の米国では、富裕層がますます富み、他方で社会の下層の相対的な所得や寿命が低下するという傾向がみられる。そうした傾向を助長する政策のひとつが低賃金外国人労働者の受け入れで、労働者の結束を弱めて力を削ぎ、富裕層を有利にした。また、富裕層へと脱出するルートとして四年制大学があり、最近では卒業生を大量排出するようになっている。しかし、社会が容易できるエリート職のポストは限られており、そこからあぶれたエリート志願者は社会に対する怨念を抱えることになる。これらあぶれたエリート志願者層が地位の低下した労働者階級を煽ることで(ただし必ずしも味方というわけではない)、現在の米国社会の不安定化を生み出しているという。

  以上のように議論自体は単純である。この理論を、19世紀南北戦争前の米国──現在と同じように富の集中と庶民の貧困化およびエリート層内部の対立があった──、ニューディール期から1960年代の米国──エリート層が団結して再分配制度導入を支持することで社会内の緊張が緩和された──、19世紀のイギリスとロシア、これらに当てはめてエピソード的な説明を展開している。特に、ソ連崩壊以後のベラルーシとウクライナの比較は興味深いもので、マスメディアでの報道とは異なった知識が得られる。著者の議論に触発されて、明治維新以降の日本のあゆみをこの理論で説明する歴史家が登場することを願う。
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全国図書館大会長崎大会第11分科会出版流通の企画、および登壇者の著書と連載記事

2024-10-06 09:05:05 | 読書ノート
田口幹人『まちの本屋: 知を編み、血を継ぎ、地を耕す』ポプラ文庫, ポプラ社, 2019.
田口幹人編著『もういちど、本屋へようこそ』PHP研究所, 2018.

  書店員の立場からの書店論。著者の田口幹人氏は盛岡市にあるさわや書店で数々のヒット作を生み出した書店員である。現在は独立して「未来読書研究所」の共同代表となっている。日本図書館協会の出版流通委員会(委員長が大場)は、2024年末に催される全国図書館大会長崎大会の第11分科会出版流通の企画で、基調報告を田口氏にお願いした。正確には11月30日~12月28日の間、事前に収録した講演動画が公開されることとなる。田口氏には、昨年から現在にかけて議論されている公的な書店支援、特に図書館との関係について、小売書店関係者の立場から語っていただく。興味のある方は下記サイトにお申込みを。

・全国図書館大会長崎大会HP https://www.110th-library.com/ 

  『まちの本屋』のオリジナルは2015年発行で、今回読んだのは2019年の文庫版となる。著者は、盛岡市にある第一書店に就職するが数年で退職、過疎地にある実家の書店を引き継ぐも、奮闘むなしく廃業させてしまう。その後、さわや書店に再就職して、駅ビルにあるフェザン店に勤務する。さわや書店には優れた書店員が集まっており、アイデアと努力によってそこからさまざまなベストセラーが生み出されてゆくこととなる。『永遠のゼロ』『殺人犯はそこにいる』の全国的なヒットのきっかけを作ったのはさわや書店であるそうだ。本を売るために著者らさわや書店員が何をしたのか、またどういう心構えをもつべきか、そして書店で働くことの楽しさについて、熱い語り口で述べられている。

  『もういちど、本屋へようこそ』は、出版流通の現状や全国各地の書店の面白い取組みについて当事者またはジャーナリストが報告する内容である。書店員が地域についてどう考えているのか、小規模な書店出店を可能にするシステム、レビューサイト、都道府県レベルの本屋大賞、POP、読書の意義などが論じられている。

  田口氏はこのほか、小説丸というサイトで「読書の時間」という連載を、文化通信では「いまいちど、本屋へようこそ」という連載を受け持っている。後者は短めの記事が多いが、前者は詳細な取材と突っ込んだ論評がなされていて出版関係者には有益だろう。

・「読書の時間 :未来読書研究所日記」小説丸HP https://shosetsu-maru.com/yomimono/essay/dokushonojikan/
・「いまいちど、本屋へようこそ」文化通信HP https://www.shinbunka.co.jp/cat/rensai/honyaeyokosolog  
 
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オビは軽薄な印象だが、中身はかなり真剣な科学論

2024-10-05 09:16:37 | 読書ノート
スチュアート・リッチー『Science Fictions あなたが知らない科学の真実 』矢羽野薫訳, ダイヤモンド社, 2024.

  科学における再現性の危機を導入として、科学における不正や誇張を採りあげ、解決策まで提示するという一般向けの書籍である。21世紀版の『背信の科学者たち』というところだろうか。原書はScience Fictions: How Fraud, Bias, Negligence, and Hype Undermine the Search for Truth (Bodley Head, 2020)で、著者はエディンバラ大学の心理学者。

  再現性の危機とは、一つの科学論文において「ある」と判定された効果が、後追いで実験を行ってみるとその効果が往々にして観察されないという現象のことである。近年、医学や心理学といった領域の大きな問題となっている。具体的にはどのように表れているか。一つ目は、不誠実な科学者(著者は「詐欺師」と記す)がデータや分析結果を捏造するというケースである。査読制度は詐欺を前提としておらず、その公表を許してしまうだけでなく、科学のお墨付きまで与えてしまう。二つ目は、科学者や査読制度が抱えるバイアスのせいで歪みがでているというケースである。例えば、「効果がない」ことを報告する論文の雑誌掲載が難しい(結果として「効果がある」とする論文ばかりが発表される)ことや、有意差が出るよう手法や変数を変えて何度も統計分析すること(p値ハッキング)がそうである。

  三つ目は数値の扱いの誤りで、データシートへの入力ミスや計算ミスである。「認知的不協和」概念を広めた論文にはそのようなミスがあるらしい。四つ目は、論文のまとめ部分やプレスリリースに誤解をもたらす表現があるケースである。ある要因の効果はまったくないか、または非常に小さいものにすぎないことが論文中の分析結果として提示されているのにもかかわらず、論文の著者がその要因に注目しているがために、論文のまとめ部分や抄録、プレスリリースにおいてその要因がとても重要であるかのようなニュアンスで書いてしまう。そしてそれを読んだ者が誤解する、と。これら四つの現象は、科学に対する信頼性を失わせて、科学への公費投入に対する有権者の反発をもたらす恐れがある。科学者は今ある査読制度に満足せず、より信頼性を高める仕組みを作って、「退屈で信頼できる科学」を目指すべきだとする。

  以上。オビの煽り文句「スタンフォード監獄実験はイカサマだった!」からは、もう少し軽薄な読み物的内容だと思って購入したのだが、思いのほか真摯な内容だった。実例も大量に出てくるので、もちろんのぞき見的な興味も満たすことはできる。だが、データを扱う研究をする者として、襟を正させる指摘の方が多かった。
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図書館員は人類の記録の管理者であり「場」にとどまれ、という

2024-10-04 09:31:54 | 読書ノート
Michael Gorman Our Enduring Values Revisited: Librarianship in an Ever-Changing World. ALA Editions, 2015

  21世紀(米国の)図書館の向かうべき方向について記した図書館員向けの書籍。情報環境のデジタル化が強く意識されており、それに抗って「場としての図書館」や紙の本の読書の意義が称揚されている。著者はカリフォルニア州立大学の図書館員でかつ目録の専門家である。2005-2006年期にはALA会長を務めたとのこと。今回読んだのは2015年発行の改訂版で、初版は2000年に出版されている。

  著者は、図書館員が持つべきマインドとして'stewardship'を挙げる(5章)。「遺産管理者としての責任」精神とでも訳すのだろうか。図書館員は人類の記録の管理者であり、次世代にこれを引き継ぐのがその使命だという。いまのところ「人類の記録」は、すべてがデジタル化されているわけではなく、またデジタル化されていてもすべてが自由に・無料でアクセスできる状態にあるというわけではない。また、知的自由の章(7章)では図書館におけるインターネット端末のフィルタリングが論じられている。フィルタリングは適正な情報を誤って表示しないこともある。要は、図書館不要論者が期待するネット情報の世界はいまだ不完全だということである。

  共同体のすべてのメンバーがコンピュータスキルを持っていて、またネット情報源に詳しいというわけではない。さらにネットから情報を得るにしても、その適切な理解のためには、事前に識字能力を高める機会や長い文章から情報を摂取する訓練の機会を持つことが必要である。そのために第一に予算が割かれるべきは義務学校となるが、図書館は学校教育において不十分だったところを補っている(あちらの図書館では成人向けの識字力向上訓練プログラムが行われているらしい)。民主主義社会においては、最低限の読解力を持った理性的な有権者が必要であり、その育成に図書館が貢献できるとする。このほか、プライバシー保護のトピックもある。

  以上。図書館は学習の場あるいは紙の本を保管する場であり、学習機会や情報アクセス機会に恵まれない層にそれら機会を提供する。そこに図書館の新たな意義がある、ということのようだ。これは保守的で前時代的な図書館論だろうか。個人的にはやはり21世紀的で新しいと感じた。かつて(実際のところはおいといて)未知の情報あるいは最先端の知識を提供する窓口として図書館を見る見方があった。本書で示されているのは、かつてとは異なる、恵まれない層に対するセーフティネットとしての図書館である。こうした「福祉施設としての図書館」という見方は21世紀になって徐々に主流の言説になりつつあるように見える。
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逃れようとしても政治からは逃れられない、と。

2024-09-26 12:47:03 | 読書ノート
ベン・アンセル『政治はなぜ失敗するのか:5つの罠からの脱出』 砂原庸介監訳, 飛鳥新社, 2024.

  政治学。民主主義、平等、連帯、安全、繁栄、それぞれの目標を追求する際に立ちはだかる構造的な困難について議論している。著者はオックスフォード大学の政治学者で、原書はWhy Politics Fails: The Five Traps of the Modern World & How to Escape Them (Penguin, 2023) である。

  民主主義においては民意を適切に表現することができないこと(文中では「民意などない」と断言されている)が困難としてある。平等においては機会の平等と結果の平等がトレードオフとなること、連帯においては自己負担なしに他人の負担によるセーフティネットにタダ乗りしようとすること、安全においては安全を守るための制約から自分だけ自由であろうとすること、繁栄においては長期的利益ではなく長期的には失敗となる短期的利益を求めてしまうこと、これらが困難としてあるという。

  さらに政治はこれら困難に取り組むのに失敗してきた。近年では、政治そのものを問題視し、政治を回避することによって、困難を解決しようという議論が現れている。市場やテクノロジーによる解決である。しかし、異なる選好を調整する手段として政治を回避することはできない。と著者は断言する。実現不可能な政治の回避を目指すよりも、まずは政治を信頼できるものにして、公平さと未来の透明さを確保することが重要だと説く。そのためには、政治家が約束を守り、社会的合意を蓄積してゆくことが必要であるという。ただし、成功するかどうかは保証されていない。

  以上のように記すと、何やら心構え論のようで退屈な印象を受けるかもしれない。要は政治から簡単に逃れることはできないということである。以上のような大筋の議論のなか、トピックとして、政権交代によって新たに政権を握った対抗勢力に反故にされない政策導入の仕方について論じられており(筆者の専門らしい)、そこが興味深い。例えば貧困層を特定する福祉政策は(他の社会層の無関心や反対たのめ)持続が難しくなることが多いという。このため中流層もカバーする政策としたほうが望ましいとする。こういうディティールを読むべき本だろう。
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図書館で討論会を催す場合のファシリテーターの作法と論拠

2024-09-25 20:22:06 | 読書ノート
John M. Budd The Library As Forum in the Social Media Age Rowman & Littlefield, 2022.

  米国の図書館論。このブログでBudd著を紹介するのはKnowledge and Knowing in Library and Information ScienceDemocracy, Economics, and the Public Goodに続いて三つ目である。読む前は「図書館に(読書や情報入手の場ではなく)議論の場という新たな役割を与える」内容だと予想していたが、そうではなくて「図書館において議論するときに何に気を付けるべきか」について論じる内容だった。

  全三章の構成となっている。第一章では、図書館史を振り返り、さらに検閲、積極的活動主義、批判的図書館学(マイケル・ハリス等)などが解説される。著者は、批判的図書館学の末裔(?)であるJohn Buschmanおよびその参照先となっているハーバーマスを議論のベースに定める。第二章は、認識論および言語を用いたコミュニケーションの考察で、ハーバーマスの『コミュニケーション的行為の理論』を解説しながら、正しい議論のあり方について論じている。それは話す側の意図や真実性が重要になるとのことだ。第三章は、図書館での議論の仕方について論じている。ハーバーマスの論を適用するのに現象学を間にかませる必要があるということで、フッサール~メルロ=ポンティ~レヴィナス~リクールといった思想家の説明に章の前半が費やされている。章の後半では、ポピュリズムや教育といった概念を議論の例としている。簡単にまとめれば、評価を急がずに、保守派とリベラル派それぞれの見解を採りあげて検討してみるということだ。

  以上。現象学の位置付けがわかりにくい。好意的に解釈すれば次のようになる。ハーバーマスの説が有する発言者の理性や真実性重視の傾向は、すぐに対話の一方を支持してしまい、せっかくの対話の機会を頓挫させてしまうさせてしまう恐れがある。このため、ファシリテーターたる図書館員はまずは判断を留保して議論を進めてゆくべきであり、そのための技能が現象学にある、このようなことなのだろう。ただし、著者は価値相対主義立場を取らないと念を押しているので、最終的には議論の決着はつけるべきと考えているみたいだ。とはいえ、納得の行くレベルまで説明されていないという印象は残る。あと、図書館員をファシリテーターにした図書館での討論会、みたいなものが米国ではあるのだろうか。ここもよくわからない。
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性加害をする男性は女性が忌み嫌う弱者男性ではなく強者男性であるとする

2024-09-20 09:19:42 | 読書ノート
デヴィッド・M. バス 『有害な男性のふるまい:進化で読み解くハラスメントの起源』加藤智子訳, 2024.

  進化心理学。セクハラやらレイプやらの男性による性的な加害は、社会的構築物というだけではなく生物学的に埋め込まれた傾向であり、そのメカニズムを進化に照らして理解することによって有効な対策を採ることができる、と主張する。ただし、進化はフェミニズムのいう家父長制と両立しないものではなく、それぞれが影響を与えて現在の男性心理を形成しているという。この種の本にしては珍しい構築主義への譲歩である。原書はWhen Men Behave Badly: The Hidden Roots of Sexual Deception, Harassment, and Assault(Little, Brown Spark, 2021)。

  異性愛カップルの対立は男女で配偶戦略が異なっているところに原因がある。しかし、そうだとしても、大半の男性は攻撃的ではなく、性加害などしない。逮捕されたり社会的に抹殺されたりするリスクがあるのにもかかわらず、わざわざ性加害を実行するのはいったどのようなタイプの男性なのか。それは、ナルシズム、サイコパシー、マキャベリズムの三つからなる「ダーク・トライアド」特性を持つ男性であるという。そのような男性は、女性が積極的に忌避するような弱者男性ではなくて、社会的地位や性的魅力の高い男性であることが多い。彼らは権力を持っていて、その高い地位を理由に性的に奉仕されることを当然視する傾向にある。そのような男性が存在するのは、過去女性たちがそのような心理を持った男性と配偶してきたからだ、とミもフタもない指摘をしつつ、最終章において女性を性加害から守る社会の仕組みを検討している。

  以上。女性にとっては身体の防衛のために、男性にとっては自身の理解のために本書は有益である。ただし、ダーク・トライアド特性を持つ男性を「生まれつきの犯罪者」みたいに扱っており、議論を呼ぶところである。社会は彼らを特定して治療したほうがいいのだろうか。なお、著者のバスには『女と男のだましあい』(草思社, 2000)という酷いタイトルの邦訳があるが、その原書The Evolution of Desire (Basic Books)は第四版まで更新されており、新たな邦訳も期待したい。
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1990年代から2000年代にかけてのテレビ番組と音楽市場の多様性を測る

2024-09-10 09:55:09 | 読書ノート
浅井澄子『コンテンツの多様性:多様な情報に接しているのか』白桃書房, 2013.

  日本語タイトルからは分かりにくい──英語タイトルにはbroadcastとmusicの語が入っている──が、テレビ放送における番組ジャンルの多様性と、CDやダウンロード音源などの形態で市場に流通する音楽ジャンルの多様性、この二つについて量的に検証する専門書籍である。なお数式が出てくる。対象期間は主に1990年代から2000年代までである。

  前半ではテレビ放送の多様性を検証している。米国では1960年年代半ばから1990年頃まで、三大ネットワークの独占力を削ぐための規制があった。しかし、規制者の意図に反して、番組ジャンルの多様性は規制があった期間中に減少していったという。日本では、視聴者の需要よりも広告主や放送局の財政状況が番組編成に影響するとのこと。パブル経済が崩壊して以降、テレビ局の収入が減ってドラマ(高価)を製作することができなくなり、バラエティ番組(安価)に置き換わっているらしい。また、BS放送の導入は、一つのテレビ局内の多チャンネル化をもたらし、番組の多様性をもたらすこととなったとのこと。

  後半では音楽ジャンルの多様性を検証している。日本における、CD販売のピークは1990年代後半である。新譜数と新人数で測られた多様性については年によって増減することがあるものの、それらは経年的に蓄積されてアクセス可能となるので市場全体として多様性は増加しているとする。このほか、CDの売上は発売直後の第一週に集中してその後は下降線をたどること、CDレンタルやダウンロード販売は(CDの購入より安価であるため)実績の少ないアーティストの音源にアクセス機会を提供していること、などについて議論されている。

  以上。コンテンツについて量的に検証することを試みる向きには重要な研究書籍だろう。ただし、統計手法の説明があっさりしていて、わからないところもあった。また、ハーフィンダール・ハーシュマン指標(HHI指標)という多様性を測る指標が開発されていることを初めて知った。詳細は原典に当たる必要があるが、本書の説明を読む限りでは図書館の所蔵にも適用可能な指標であるように見える。
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社会的地位で流行を説明、ネット普及以降の時代の分析が冴える

2024-09-02 07:00:00 | 読書ノート
デーヴィッド・マークス『STATUS AND CULTURE:文化をかたちづくる〈ステイタス〉の力学 ―― 感性・慣習・流行はいかに生まれるか?』黒木章人訳, 筑摩書房, 2024.

  流行の変遷をステイタス概念を用いて整理しようという試み。学術書と一般書籍の中間あたりの難易度であり、本文中に挙げられている芸術家や音楽家の名前、あるいは作品名や商品名にピンとくるかどうかで読みやすさが変わる。計量分析無しで、著者が重視する単一の理論を適用してさまざまな文化現象を解釈してゆくというスタイルで書かれている。著者は、ハーバード大と慶應大で学んだライター(?)で、雑誌『POPEYE』などでも記事を書いており、デビュー作は日本における米国風ファッションを論じた『AMETORA』(DU BOOKS, 2017)となる。本書は二作目で、原書はStatus and Culture : How Our Desire for Social Rank Creates Taste, Identity, Art, Fashion, and Constant Change (Viking, 2022) である。

  どのような文化アイテムが流行するかは恣意的に決定され予測不可能であるけれども、流行には規則性があるという。その規則性の背後にあるのがステイタスである。ステイタスは単純に高から低までの一つのスケールでできているわけではない。上位層は、経済資本の多いニューマネー層と文化資本の多いオールドマネー層の二つに分かれる。前者は派手さを好み、後者は落ち着きや控え目さを好む。これら二つの層の下に、中程度の経済資本と文化資本を併せ持つ知的職業階級があり、上位層が持つ嗜好のヒエラルヒーに対抗するべく、新規性を持つ文化的アイテムを好んで採用する傾向を持つ。知的職業階級の下には、二つの資本どちらも欠いた一般大衆がいる。大衆は流行の終着点である。他の三つの層にとって、大衆と違うことを示すことが特定の文化アイテムを採用する理由となっている。加えて、一般大衆のグループの内部にはさらに趣味嗜好などで別れたサブグループがあり、その内部でもステイタスを争っている。

  しかし、21世紀になると上のような力学がインターネットの普及──特にスマホと高速回線の普及──によって崩壊しつつあるという。これまで。理解に訓練が必要な「高尚な」文化や革新的な文化は、上位層の差別化のために採用されてきた。だがそれらは、1990年代半ばからネットが普及すると誰にでもアクセスしやすいものになった。また、文化相対主義が社会で支配的になるにつれて、文化による差別化自体がエリート主義として批判されることとなった。ある文化アイテムと別のアイテムには価値の違いはなく、好みの違いがあるに過ぎないとされるようにった。熟練された技能を要求する表現も、素人芸も対等なのだ。こうして、「高尚な」文化あるいは高尚な文化を前提とする革新的な文化は21世紀になって凋落した。すなわちそれはオールドマネー層の地位低下であり、経済資本に対抗するような価値軸の喪失である。対抗価値の喪失は、価値が数値(すなわち金額やいいねの数)だけに収斂する、ニューマネー層の好みの優位をもたらした。まとめとなる章では、差異化とステイタスの平等の調整の可能を探っている。

  以上。1970年代に形成された理論で20世紀後半から21世紀初頭の流行の変化を説明する、という点に面白さがある。社会のエリート層を経済資本と文化資本で二つに分けるのはブルデューの『ディスタンクシオン』がオリジナルだろう。「見せびらかしのための消費」というアイデアはヴェブレンにさかのぼることができるが、本書ではボードリヤールの消費社会論を通過した議論となっている。ただし、やや難しいとはいえポストモダン系の書籍にありがちな衒学趣味はなく、エピソード中心とはいえ議論は実証的であろうとしている。この点は評価できる。特に、インターネットの普及がもたらした世界的な文化状況の合理的な解釈を試みた10章はとても素晴らしい。

  だが一方で、本書は流行の説明に部分的には成功していると言えるものの、説明されない大きな謎を残したように思う。文化の普及の方向はステイタスの序列に従った上から下への流れである、というのが本書の理論だ。二つの上位層が差異化のために希少な文化アイテムを採用しそれが徐々に大衆化するという流れ、あるいは知的職業階級がアーリーアダプターとなって新しい文化アイテムを採用しその後は尖った部分が削られて大衆化するという流れ、これらは示された理論通りである。しかし、ビートルズのように、大衆文化が古典に格上げされるという現象はどう説明するのか。あるいは、知的職業階級が採用した革新的文化(モダンジャズなど)は、どのように上位文化層に普及するのか。これら二つのケースのメカニズムは上手く説明されていない。つまり、最上位層が下位ステイタスをなぜ模倣するのかが説明されていない。そこには、ステイタスに還元されない何かがあるのだと予想される。
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