高砂の塩・塩物
江戸時代の高砂は、加古川河口の商品の集散地として栄えました。
もともとは、蔵米(年貢米)の積み出し地として建設された港町であったため、取扱品の中心は年貢米でした。
これら年貢米は、高砂の大蔵元を通じて売りさばかれました。
ところで、米に次ぐ高砂港の主要作物は、何だったと想像されますか。
ある時期まで、なんと塩と塩物でした。
『高砂雑』によると、「・・・赤穂の人・赤穂屋徳兵衛は塩業に精通しており、領主・池田輝政の命によって高砂に来て塩の問屋をいとなみ、江戸時代初期の頃、荒井・小松原の一帯はほとんど塩田になり、販路を京阪の地に求めて、荒井塩の名は名声を高めた・・・」と記しています。
やがて、高砂における塩業は加古川の舟運と共に加古川の奥地にまで広がっていきました。
元文年間(1761~73)に高砂に塩座が置かれてからは、ますます塩業は盛んになりました。
『赤穂塩業史』によると、輝政は慶長5年から同9年までの間に播州・荒井塩を開発した・・・」と書いています。
荒井の塩業技術、赤穂塩の改良に
その後、「六右衛門という人物が荒井で塩業を開き、その後赤穂・撫養(徳島県)に塩業を伝えた」と『印南郡史』は、記しています。
これを裏書きするように、『赤穂塩業史』にも、荒井の技術が赤穂に伝えられた・・・」と書いています。
荒井では、塩田の技術が進んでいたようです。
*写真:塩田の風景
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