Go straight till the end!!

世界一周の旅の思い出を綴っています。
ブログタイトルは、出発前に旅日記の表紙に書いた言葉です。

(84)モスタル(後編)(ボスニア・ヘルツェゴヴィナ)

2010-05-20 22:30:00 | 旧ユーゴの国々
 どのタイミングで彼に伝えたか覚えていないが、客引きの青年 Mr.Dele と再会した時、宿の紹介料(約300円)を払うことに決めた。
 この街の状況が分かった今、小さな感情的こだわりなどなんの意味も成さないような気がしたからだ。

 彼も本心ではこんなことをしてお金を稼ぎたくはないと思っているに違いない。
 だが彼は家や家族を失い、ストリートに寝ていると言う。いわゆるストリート・チルドレンだ。
 そんな彼に他の選択肢は無いのだろう。
 


 彼には他にも街を案内してもらっている。

 街の東側(ムスリム人(ボシュニャク人))地区には共同墓地があった。
 老若男女問わず、墓碑には1993年に亡くなったと書いてある。
 おそらく、その時期が最も戦闘が激しかったのだろう。

 Mostar (モスタル)の象徴とも言える橋、【スターリ・モスト】(街の名前の由来にもなっている)も案内してもらったが、残念ながら破壊されていた。

 オスマン帝国支配下にあった1566年に、トルコの建築家 Mimar Hayruddin (ミマール・ハイルッディン)によって建てられた。ネレドヴァ川の両岸からアーチ状にかかる橋は、当時の最先端の技術をもって造られたらしい。

 この橋は、近辺のムスリム人の勢力圏にあったことから、1993年11月9日、クロアチア人側の砲撃で破壊された。
 Mr.Dele の話では、この橋はムスリム人のシンボルとなっていたので破壊されたということだった。建築家もイスラム教徒だからだ。長さ29m、高さ28mもあった立派な橋だったと彼は言っていた。若者達はこの橋から度胸試し的に飛び込んでいたらしい。



 (下記の写真は、当時購入したポスト・カード。破壊される前の橋の姿がそこにはあった。)



 ちなみに、1200万ユーロの巨費を投じて2004年に橋は再建された。翌2005年にはボスニア初の世界遺産に登録されている。
 また、橋の東側にある塔も再建され、現在スターリ・モスト博物館になっている。



 街の夜は不気味なほど静かな街だったのを覚えている。【UN】と書かれた国連平和維持軍の車が街を巡回していた。



 現在街の様子も変わったと思うが、Mr.Dele は今頃どうしているだろうか。



 翌朝の旅日記にこう書いてある。

 「朝起きると心臓が痛かった。寒いから?」

 実はここ数日(現在の話)、肩が重く、時に心臓まで痛くなることがあり、病気かもしれないと思っていたのだが、旅日記を読み返して同様に心臓が痛いと書いてあることに驚いた(特に心臓に持病があるわけではない)。

 以前おまけ(その1)に投稿した内容にも関連するが、この地にはまだまだ成仏出来ていない魂が多数眠っているような気がしてならない(心臓を撃たれて亡くなった方がいたのかもしれない)。

 一日も早く亡くなられた魂が成仏出来る日が来ますように。

※地図はこちら