「高知ファンクラブ」 の連載記事集1

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鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 ・・・働き詰めで貯めた1億円

2012-11-09 | 鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」

働き詰めで貯めた1億円

 情報プラットフォーム、No.301、10月号、2012、掲載


お会いする機会がなかったことは大変残念である。奨学金を設けたおばちゃんの話である。奨学金の名称は「公益信託森安記念大学院奨学生基金」。その森安キノヱさんは「一日一日を精いっぱい生きて」(1992、六甲出版) の題名で自伝を書いておられる。

易者に「肉親の縁はちっともありません。」と言われたように、母と姉を亡くし、父も亡くし、継母も、そしてご主人も早くに亡くしている。生まれは徳島だが、すぐに広島に移り、22才の時に酒屋を営む森安家に嫁いだ。夫の森安忠男さんは養子であり、両親をコレラ禍で亡くしていた。家業は振るわず、 神戸に出て叔父の家に間借。戦後に西宮で屋台の一杯飲み屋を始め、やがて近くのバラックの建物を買い、屋号を《ほろよい》とした。

  「お酒一杯に一皿の突出しを付けてね。お酒が二杯目になると突出しもまた違う品を付けて、三杯目はまたまた違う品という具合に工夫して、お客さんに喜んで もらって。」、「小さいときから鞄を下げて『有り難うございました。』といってお得意先回りするのが好きだった。自分がやっているからとか、人に雇われているからとは関係なくね。お客さんにも店の主人にも受けて、どこでも可愛がってもらえるんです。」、「私の人生のいろいろな節目と不動産 に関しては”角地”がついて回っているような気がしている。嫁いだ森安の家が広島の田中町、色町に入る角。神戸で最初に買った福原の店が新開地桜 筋の色町の角。

主人が亡くなった兵庫区の土地も角でしたし、荒田町のアパートも角でした。」  キノヱさんは、ご自分の住んでいた兵庫県と広島県の大学生を対象に『公益信託森安育英基金』(1億円づつ)を、ついで『中国残留孤児子弟育英森安基金』(1億円)を昭和61年以降に順次設立した。これについて「十年、二十年と経つ内にお墓は無縁仏となるだろう。森安の名前のついた育英基金設立に こだわった
一つがそれなんです。私が死んだ後は、そういう形でしか森安の名前を残せないと思ったからです。」とその思いを述べている。

キノヱさんは、大学院に進学しなければならないのに、奨学金が大学で打ち切りになることを知り、それは不条理と考えた。最後の1億円を投じて、平成3年に理工系大学院博士コースの3年間の『公益信託森安記念大学院奨学生基金』を設定したのである。運営委員長は、元・東京大学総長の林健太郎先生であ る。私は北大在籍として委員の末席を汚すことになった。一人あたり年額48万円の支給で、年間に4~5人、したがって年間事業費は600万円程度 になる。基金の運用益が見込めない時代であり、委員会での最初の審議は基金の使い方であった。キノヱさんの思いを後世に伝えられないことは残念で あるが、取り崩しはやむを得ないと判断したのである。単純計算で20年弱、100名の受給者になる。

  申請書には、公表論文や口頭発表のリスト、中心となる研究論文の要旨、今後の研究方針と計画、指導教員の推薦書に加えて、感想文を必須とした。神戸新聞 (平成4年2月5日付け)の「おばちゃんの奨学金、働き詰めでためた1億円、苦学生を助けたい、神戸の森安さん」の見出しが躍る記事を読んでの感 想であり、さらに最適なタイトルを考えるものである。人生観や哲学を垣間見ることが
できると考えたのである。そして森安おばちゃんから人生哲学を どのように学んだかを知ることができる。

この基金への応募者、そして受給者の、神戸新聞の記事を見た読者の、審査に関わった我々の記憶に残しておくこと、が森安さんの思いに報いることであろう。

この文章はそのような思い込めて書かせて頂いた。
 

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鈴木朝夫 s-tomoo@diary.ocn.ne.jp 

高知県香美郡土佐山田町植718   Tel 0887-52-5154

 

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