
とらねこさんからのリクエストにお答えして、平倉・板沢周辺の熊野神社ということで、板沢の駒形神社の南東にある熊野神社をアップ。この神社の側には、元JAとおのの組合長をされた方のお宅があるが、熊野神社の管理者はご多分にもれず、菊池さんである。

例のコピーには、板沢村には熊野は載っていない。修験羽黒派明楽坊の名はあるが、この方がどこを檀那場とした修験者であったかは今のところ不明。また、本日の熊野神社の経緯についても、まだ聞き取りをしていない。
ただ、以前に掲載した平野原熊野・神明神社関連で面白い話を聞いた。例のコピーでは、両社の俗別当は同一人物であることを記したが、平野原神明神社は近くに住んでいる菊池さんが別当を務めているとのことで、このお宅には、昭和50年代前半まで、神様と近所の人達が呼ぶ方が定期的に滞在していたという。この方は、家相を見たり、身体についた「むし」(病)をとったりしたとのこと。また、近所に住んでいる大工さんに遠方の工事を頼んだりしたそうだ。これらのことから修験系か神職系の方であったということは容易に推察できるわけだが、この別当さんのお宅に滞在していたということから、かなり古い時代から、そういう慣わしがあったものと思う。平野原熊野の犬亦さんとこの菊池さんがどういう関係にあるのかは定かでないが、この近所の両姓の方々は親戚関係にあるようだ。もう少し、上郷に時間を割く必要がありそうだ。

最後に、先般、五日市の倭文神社をとり上げたが、この境内に普賢神社が一緒にあり、その社、側面に建築にあたり寄進された方々の芳名が書かれていた。何気なくその画像を撮っていたので、この休みに確認していたところ、私の父親の名前を見つける事ができた。この話を母親にすると、鳥居の脇にある不動尊の社はうちで建てたものだと知っていたが、上の普賢については知らなかったという。何はともあれ、このように歩いていて今は亡き父を思い出すことになろうとは、これも神の思し召しか?
近くの駒形神社で曾爺さんの名前を見つけた時は嬉しかった。
寄付を募って社や石碑を建立する訳だが、先人の方々の中に肉親の名前を見つけるとそれはそれは嬉しくなります。
最近ではなかなかそういった事に出くわさないので自分の名前を刻むことは叶いません(T_T)
ま、余裕もありませんがー。
そうだ、田圃の改良で石碑を・・・確かに自分お名前も・・・あったはず。
おわらた橋脇のため池の石碑に!(^^v
末裔たちに自慢できます(^-^)ノ~~
お互いに父親の事を思い出す機会も減ってきていますが、「俺のことを忘れるなよ」との合図だったのかなと思ったりしています。いずれにせよ、親は偉大ですね。
いずれ、菊池姓遠野流入関連探訪では当方も訪ねなければならないものかと思っております。
親父に反発しようとも、なつかなくても・・・しかし、やはり親父は自分よりは偉大であったこと、今になり私も身にしみて感じております・・・涙
コメント遅くなって申し訳ございません。嫁さんの仕事柄、申告時期には、PCを占領されてしまい、更新できないでいます。(しばらくは、このペースかと)
暮坪の熊さんには行っていないので、ぜひ行きたいと思います。でも、もうヘビーやベアー情報が入ってきていますので、また、雪の季節までおあずけかもしれません。
さて、私の修験系の根本資料ですが、何度か記していますが、図書館の郷土資料室にある「修験霞職の史的研究」と題する本です。南部領の出羽三山系の修験者に関する資料が掲載されており、その中の遠野ぶんを参考にしています。
資料の件ありがとうございます。どうにか時間を作って図書館に行ってみます。
図書館の郷土資料室は、3月末まで入室ができないようです。1ヶ月以上利用できない状態というのは納得できないのですが、PC検索対応を図るためとか。