この神社は現在、附馬牛小学校の校庭の北、山際にある。細越勝氏の「遠野の神々と民話の里」によると、宇迦神社と称するようになったのは明治維新以後のことで、創建は明らかでないという。当初、附馬牛荒屋の高木氏の先祖が氏神として勧請したものとのこと。この社は、昭和51年に現在地に移る前は、現在の小学校の職員室前にあったという。今の建物は、その折に手を加えられたものと推察する。
○正保3年(1646)新田家家臣の大半が平舘より遠野に移る。
○承応3年(1654)小友荒屋番所は高木氏、小笠原氏、村瀬氏に代わり、荒屋氏が任ぜられる。
○延宝4年(1676)遠野南部から八戸頼母が分家する。
新田家縁の人々は、平舘から遠野のどこへ住んだのか?小友の高木氏は附馬牛と繋がりはなかったのか?(小友の荒屋と附馬牛の荒屋という地名が高木氏で一致するのは偶然か?)遠野では、小友、綾織にわりと固まっている及川姓の方々が附馬牛荒屋にも集落をなしているのはなぜか?新田姓が附馬牛に多いのはなぜか?
昨日夜半、これを書いて投稿したが、遠野TVの工事の為、できなかった。やっとの思いで文章にしたのに、がっかり。事前に工事があることは知っていたのだが、夢中になっているうちに忘れていた。とほほ・・・。(昨日の文章のほうが良かった気がするが、その文すら忘れてしまった。思いつきで書くことの愚かさを痛感した一日となった)
○正保3年(1646)新田家家臣の大半が平舘より遠野に移る。
○承応3年(1654)小友荒屋番所は高木氏、小笠原氏、村瀬氏に代わり、荒屋氏が任ぜられる。
○延宝4年(1676)遠野南部から八戸頼母が分家する。
新田家縁の人々は、平舘から遠野のどこへ住んだのか?小友の高木氏は附馬牛と繋がりはなかったのか?(小友の荒屋と附馬牛の荒屋という地名が高木氏で一致するのは偶然か?)遠野では、小友、綾織にわりと固まっている及川姓の方々が附馬牛荒屋にも集落をなしているのはなぜか?新田姓が附馬牛に多いのはなぜか?
昨日夜半、これを書いて投稿したが、遠野TVの工事の為、できなかった。やっとの思いで文章にしたのに、がっかり。事前に工事があることは知っていたのだが、夢中になっているうちに忘れていた。とほほ・・・。(昨日の文章のほうが良かった気がするが、その文すら忘れてしまった。思いつきで書くことの愚かさを痛感した一日となった)
逃した魚は大きいのです(笑)
フリーズしたり、送信エラーだったり、サイトによってもあります。
3時間以上掛けたエントリーをふいにする事も何度かありました。
みんなそれを乗り越えてやってきています。
ご安心を!(←慰めにもなっていないね)
新田氏・・・八戸では「にいだ」、何故に遠野では「にいだ」と発音する新田氏が居ないのか・・・・遠野の新田姓に関しては、おそらく遠野南部家老加判の新田氏に縁ある人々が名乗ったものもあると思いますが、明治の新姓の際に「にいだ」と「にった」を区別したのではないのか、無論、遠野の新田姓が新田小十郎家に関連したものではないとは思いますがね・・・。
ちょっと仮話的であやふやなのですが、土淵の栃内の新田姓は血筋とかではなく、何かしら関連があったという話を聴いたことがございますが、違っていたら当方の記憶違いです。
サラ猫もこれまたいい名前かもしれない、サラリーマン猫、訳してさらねこ・・・・なんてね。
土淵の「新田(しんでん」に住んでいる「新田(にった)」さんは、かつて、郷土史家の方に「新田(にいだ)」に関係あると言われたとのことでした。栃内の中でも、割と新しい人たちのようです。
「源左エ門殿」なる屋号の家があり、先祖は附馬牛村高木館の高木源左エ門である。明治の初年に「菊池」を名乗る。
附馬牛に現在居られる高木氏と源左エ門殿の家との関係はまだ、わからない。