明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



3種類の痛み止めのおかげで夜も寝られている。痛みの少ない姿勢で制作するが、ズキンと来る痛みを考えると、食事の用意で台所に立つ気になかなかなれない。 手漉き和紙のプリントを、田村写真の田村さんに依頼する。改めて陰影のない〝石塚式ピクトリアリズム“を眺めると、独学我流者が、何が根拠なんだか、人間も草木同様自然物、肝心な物はあらかじめ備わっている。と他人の作品見て感心していている場合じゃない、と美術館にも行かなくなり、長い旅路の果て。あるいは、幼い頃夢見た、どこかの王様に石の塔に幽閉され〝算数、宿題やらないで良いから、ここで一生好きなことをやっておれ“そんな人物が、発見されて出て来たら、こんな物を持っていた、という感じがしないでもない。

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80年代だったか90年代だかに、女性のセルフヌードが流行ったことがあった。眉間にレンズを当てる念写が理想、と考えていたが、外側にレンズを向ける限り、比喩的表現にしかならないと考えていたので、自分にレンズを向ける女性達には共感を感じていた。それに男性がレンズを外側に向けハンティングするイメージが生理的に少々苦手で、好きな写真家はどうしても女性になる。中でも当時、もっとも好きだったのが、年上のひとシンディ・シャーマンだった。 何年か前にサンディエゴ写真美術館のデボラ・クロチコさんに作品を見てもらったとき、何か質問は?聞きたいことはただ一つ。私のようなアプローチをしている人が他に居ますか?だったが、紙に書いてくれたのがシンディ・シャーマンだった。全然違うじゃないか?と思ったが、その後、陰影のない手法により〝念写“に拍車がかかった今頃になって、デボラさんの慧眼に感服しているのであった。

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写真や西洋絵画になく、浮世絵、
古典的日本画にある自由を写真に取り入れられないか、と考えたが、それで何をしようとしていたのか。具体的な用途を思い描い
ていた記憶はない。中締めといえる個展が終わり、しばらく図書館に通っては、浮世絵、日本画を眺め、その自由さを羨ましく眺めていた記憶がある。何をきっかけにそうしていたか思い出せない。 一つもしや?と思ったのが、長塚京三が北斎を、宮﨑あおいが娘のお栄をやったドラマ『眩(くらら)~北斎の娘~』その中で北斎が西洋画を見て「見たまんま描いていやがる。」といった。見たまんまが大嫌いな私は、そのセリフがよほど気に入ったか、当ブログで何度も引用した覚えがある。ひょっとしてあの北斎のセリフがきっかけじゃあるまいな?調べたら、図書館通いの一年後のドラマだった。 どうでも良いことだが〝何だか判らないけどやりたくなってしまいました“実際そうでもバカみたいである。熟慮、熟考の末、計画通りやりました。という演技プランをつい立ててしまうのであった。

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雷鳴轟く嵐の風景は、頭の中ではおおよそ制作方法は考えた。イメージとしては滝沢馬琴辺りの絵草紙のスペクタクルシーンである。雷は小学生の時描いた、キングギドラが吐く光線やメーサー砲のレーザー光線の要領で描く。 光と影の芸術から肝心の陰影を排除して、鎌倉時代の嵐の東シナ海で、袈裟をまとった天狗状の人物が、帆柱の先端に立って霊力を発揮している場面を写真作品にしようとしている。 陰影が出ないように撮影して切り抜いて貼り付けるだけなので、こんなことなら、と思わなくもないが、ここに至るために、端折って済ませることは一つもなかった。光やレンズの作用の助けが使えない分、被写体の出来が成否を決めることになり、私の原点は人形制作だったことも思い出させてくれている。禅的モチーフに至っていることが、また不思議で、このための手法とさえ思う。

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96年、初めて画廊で写真を発表した時、被写体が目の前にあるのに、人間を撮った実写だと間違った人がいた。わざわざ人形作って現実の模倣などまっぴらである。作り物でないと出来ないものを、と翌年作家シリーズに転向した。当時はアナログで、澁澤龍彦をオウム貝に乗せて空を飛ばしたり。谷崎は巨大なヌードと共演させた。仮にあの時、実写に間違われたことを良しとしたなら。人間変われるうちが華、という風船体質でなかったなら、今頃、まさかこんな時代が来るとは、と断末魔と共にAI技術の波に飲みこまれて行ったかもしれない。石塚式ピクトリアリズムは、まことを写すカメラで撮ったにも関わらず、私のイメージ内のまことしか登場しない。かつての西洋絵画の影響を受けたピクトリアリズム(絵画主義写真)とは趣きは違うけれど、やってる本人が絵に見えるから、ピクトリアリズムには違いないだろう。何より、この手法なくして寒山拾得も半僧坊大権現もなかった。

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日本人が初めて影を描いたのは朝暾曳馬図(ちょうとんえいばず)」で川面に映る影を描いた英一蝶だという。 小学校低学年の頃から、子供の絵じゃない、とことあるごとに言われ、みんな出品するコンクールに、私の絵だけ出すのを忘れた、と担任にいわれたり、ロクなことがなかった話は何度か書いた。その発端が、図工の時間に遠足の絵を描く授業で、池に浮かぶボートに水面に映る影を描いたことだった。廊下に張り出された絵を見た隣のクラスの担任が、なんでここに影を描いた?といい出した。周りがマッチ棒のカカシのような絵を描いている中、子供の絵じゃない。といわれ続けることになる。そんなこともあってか、中高と美術部にも入らず読書に熱中し、制作を始めるのは、工芸学校に入ってからである。 それが今は写真から陰影を排除し、太鼓持ちでもあった英一蝶の『一休和尚酔臥図』をヒントに私なりの酔臥図を制作し、同じく一蝶の、背中の火焔を濡らさなよう傍に置いて滝に打たれる不動明王を作る気でいる。奇縁である。 最後に目出たい話をすると、名前こそ変わったが、その小学校を出た柔道百キロ級のウルフアロンがパリ五輪出場を決めたようである

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〝太陽一灯の一神教の世界と違って、便所にまで神様が居る日本では陰影など出ない“ 10年近く陰影を排除した手法をやっていると、かつての日本人が、何故陰影を描かなかったか、今は理解できる。袖から金の龍が顔を出す人物に、現実であるかのような陰影を与えたなら、今はむしろ、不純な行為に思える。袖から金の龍が顔を出す人物を描きたければ陰影など描くな、という話である。 96年『ジャズ・ブルース人形と写真展』 (SPACE YUI)初めてギャラリーで、人形を被写体として写真を発表した。ある編集者が、被写体が目の前にあるのに、写真は人間を撮った物だと勘違いした。現実を模倣したい訳ではないのだ。 思えばここから、まことを写す、という意味の写真という言葉に抗い続けることとなった。そして長い旅路の果てに〝まことを写さない写真手法“に至った。 私はすでに結論を出したけれど、AIの発達により写真家は、これからまことを写すという意味を問われることにるのではないか。

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2016年、手元にある展示出来る物を出来るだけ展示しようと試みた『深川の人形作家 石塚公昭の世界』(深川江戸資料舘)は中締めと考えていた展覧で、その時点で展示出来る物は全て展示し、スライド上映による朗読ライブも開催出来た。さらに初めて2メートル超のプリントも展示したが、初めて人間大、あるいはそれ以上に拡大された連中と対面した私は、突然楽屋に香川照之が尋ねて来た猿之助の如き状態であった。拡大することによって、無意識下の、へそ下三寸のもう一人の私の〝真意“が露になったのではないか?というのが昨日立てた仮説である。 当時母と同居しており、会期終了後、毎日、図書館に逃避したものだが、何故か浮世絵、かつての日本画ばかり眺めていた。これもヘソ下三寸が勝手にした事で、なんでこんな物ばかり眺めているのか、表層の脳は首をかしげていた。ここから写真から陰影を排除するという〝私の大リーグボール3号“こと石塚式ピクトリアリズムの開発となる。本家『巨人の星』では一番面白いくだりではある。


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今月は臨済義玄、蘭渓道隆、無学祖元、元寇の兵士、一休宗純を一斉に着彩に入る予定である。 写真がなかった時代の肖像画を元に制作している訳だが。それには、長らく続けて来た二次元の、時に不鮮明な写真を立体化して来たことなしには出来なかっただろう。その挙げ句が、陰影のない東洋日本の絵画を立体化、つまり何ヶ月かかけて陰影を与え、なのにわざわざ陰影を排除し写真化する。こう書いてみると、面倒くさがりが服を着ているような私に、何か仏罰でも当たっているかのようだが、独学我流である私の感性と、この工程を経て初めて起こる化学変化とでもいうべき物があると思える。 陰影を排除することによって得られるだろう、と期待した自由は、袖から金色の龍が顔を出してこそ発揮される。この手法あってこそ、このモチーフである。〝鳥が選んだ枝、枝が待っていた鳥” 河井寛次郎

 

 



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午前中から無学祖元の袖口から顔を出す龍を作る。小さいので楊枝の先で作った。視力がメガネで補正できないレベルらしいのだが、頭で補正しているのか、裸眼でなんとか。 昨日のブログの続きだが、作り物なのに実写に見えるAIの時代に、陰影を排除し、逆に作り物にしか見えない手法に至った私。なんだかAIの時代に間に合った、みたいな気になっていたのだが、果たしてそうだろうか、という気がして来た。一人、王様の石の塔に幽閉されているようでいて、時代の空気というものは鉄格子の隙間から漏れ伝わって来て、自覚がないまま、浮世絵、日本画に関心が向いたのではないか? 当時、急遽母と同居したこともあり、気分転換で図書館に避難?したものだが、浮世絵、日本画ばかり眺めていた。いったい何が気になっているのか当初全く自覚がなかったが、そうこうして、写真や西洋画にない、この自由さは、陰影がないからではないか?私が単なる写真家なら知り合いの人形作家の作品で試すところだが、立体という陰影を作り出したのも私である。グズグズと躊躇したが、やってみたら一晩で出来てしまった。



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村に飛来したガメラにびっくりする老人、左卜全にしか見えない一休禅師、ようやく雲水姿に、頭陀袋などの装備に。 陰影のない第一作は三遊亭圓朝だったが、当時、肌は重ね塗りをしていた。見た目にはその方が明らかにリアルに見えるが、陰影を出さずに撮影してみると汚れにしか見えず、慌ててその場でベタ塗りした。一休の雲水姿は汚らしくボロボロで良いのだが、そう考えると、陰影のない浮世絵、かつての日本画は、形状はともかく、着彩で汚し表現はあまり見かけない。 先日リアルなフィギュアの制作工程をYouTubeで見たが、被写体として考えた場合、リアルだ、ということ以上のことは伝わらない気がした。私の作品が質感など、言いたいこと以上のことは作らないのに、拡大するほどリアルに見えるのは理由がここにあるのかもしれない。ドラマの葛飾北斎の西洋画を見てのセリフ「見たまんま描いていやがる。」私はよほどこのセリフが気になっているようである。北斎は以後、見たまんま描こうと余計なことを始めてタイムアップとなった。と思う。



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私の大リーグボール3号である手法は、光と影の芸術たる写真から陰影を排除することにより、写真、西洋画になく、浮世絵やかつての日本画にあった自由を手に入れようという試みである。日本人が陰影を描かずに来た理由に関し、決定的な説をまだ聞いたことがない。他所と違って我が方には八百万の神がいて、便所にまでいるとなれば、陰影の現れようがないということにしておく。 立体を制作するというのは、陰影を作り出すことに他ならない。良かれと思って作った陰影を、自ら消す。その葛藤の上に成り立っている。撮影自体は構図も決まっているし、一応数カット撮って、あとは切り抜き配するだけである。つまりこの手法は、被写体の出来により成否が決まる、という、私の原点が人形制作であることを思い出させてもくれる。ここが上手く出来ている。しかしその挙句が、一カットのために数ヶ月かけて被写体を作ることに。だがしかし被写体制作者と撮影者が同一の二刀流である。被写体制作者が撮影者に「お前はパチパチで終わりではないか?」と揉めることはない。



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昨日書いた、オイルプリントについては、頭で止めようと思っているのに好奇心が勝ってしまった。しかし画が出た時点で本当に止めた。その内自分の作品を被写体とし、写真展をするようになり、それならアレがあったではないか、と引っ張りだしたのが、一日だけの99年、翌年2000年のビクトリアリズム展1であった。しかし早すぎた。この絵みたいな物はなんですか?とその出自を理解しないと、目に明かりが灯らない。毎日技法の説明ばかりしていた。そこで技法公開のためにH Pを作った(閉鎖中) それがデジタルの時代と共に反作用で、まさかの古典技法花盛りとなった。そこで実は以前こんなことしてました、と埃をはたいてやったのが、ハスノハナのグループ展であった。周りは女性ばかり、ブロムオイルや雑巾掛けまでいる有様。時代は変わるものである。 オイルプリントが私にもたらせたものは、頭で理解できなくても、やりたければやれ。つまり〝考えるな感じろ”である。それと私の大リーグボール三号たる、現在の陰影を排除した石塚式ビクトリアリズムの遠因となっている。役割は終えた。改良はしたが、私が考えた技法ではないし。 石塚式ピクトリアリズムの何が痛快か、というと、陰影を出さないで撮影し、切り抜いて配するだけなので首のかしげようがなく、やり方を聞かれることもない。オイルプリント初披露時のトラウマを自ら解消させた。



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『虎渓三笑図』の背景の虎渓の山水の遠景は作ることにした。無い物は撮れないのが写真の欠点である。絵画と違い、マコトを写すという、記録性の代わりに不自由である。可能ならば、無い物は作って仕舞えば良く、それでも物足らず、陰影を排除するに至った。もっとも陰影が無いからこそ中国の山並みを作ろうなんて企めた訳である。出来れば、マコトなどには一切関わらず、一カットも撮らずに終わりたい。 多分に日本人的なことだが、作品の出自、成分を理解しないと目に灯りが灯らないのを、2000年前後、オイルプリント発表時に嫌になるほど味わった。おかげで技法公開目的でH Pを立ち上げることにした。そう考えると、陰影を出さないように撮影し、切り抜いて貼り付けるだけ、それ以外に言いようも説明のしようがない手法なのが慶賀の至りである。また単純な分、成否が被写体の出来にかかっている、というの間、私の原点である人形制作を見つめ直すことにもなった。まあ、良いこと尽くめ、のようであるが、私の大リーグボール3号は、その皺寄せが、艶、反射を使わずにどう水を表現すべきなのか、ということに悩まされている。本家大リーグボール3号は非力な選手に打たれるという欠点があったが。



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一時期、目に着いたあらゆる物をパーツとして撮って置いて、例えば空や海、道路や屋根や壁や何でも撮り溜め、本気で寝たきりの老後に備えていた。その後ハードディスクの度重なる故障などあり、ほとんど失われたが、今思うと愚かなことであった。その後、浮世絵、かつての日本画の、西洋画や写真にない自由さを取り入れるにはどうすれば良いか、毎度お馴染みの〝孤軍奮闘”していて、陰影がそれを阻害しているのではないか、と思い始めた頃、スーパーからの帰り道、頭の中のイメージに陰影が無いことに気付いて、危うくスーパーの袋を落としそうになった。頭の中では光源まで設定されていない。それまで頭の中のイメージを取り出し、確かに在った、と確認するのが私の創作行為だ、といっていながら、外側の世界に在るかのように光を当てていたことに気付き、ここから一挙に陰影のない手法に向かった。この世の世界でないことは一目瞭然であろう。 この間の〝騒動”は、私の子供の頃からのこだわり、独学我流、マコトを写すという意味の写真という言葉への嫌悪、様々が凝縮されていた。そして自ら作り出した陰影つまり被写体の陰影を取り除く、というアンビバレント、葛藤は、被写体制作、撮影の二刀流の私だけの物であり醍醐味である。その先に在ったのが寒山拾得ということになろう。



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