明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



快楽殺人、快楽殺人者というものがあるなら、快楽人形写真制作、快楽人形写真制作者がいても何の不思議はない。 最近良く思うが、もっととんでもないことになると憂いていたであろう母は、それがたかだか人形作って写真を撮って喜んでいることが判明、安堵し、以来応援してくれるようになった。本日、そんな快楽人形写真制作者の目の前にあるのは後は撮るだけの、鯉に乗って水中より現れる琴高仙人と、しゃれこうべを枕に酔い潰れる一休和尚である。あまりといえばあまりな大ご馳走である。そして自分を焦らしてより快感を高めようと面白くもないテレビを眺めている始末で有る。昔からの悪い癖だが、これにより集中力がより高まるのも事実である、 寒山拾得を手掛けたおかげで、それもこれも母のお陰が大きいと気付いたが、そんななか、八月一日の誕生日目前に母は発熱して入院してしまった。たいしたことはないだろうけれど。



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次の撮影に備え仕上げ。蝦蟇仙人が出来たところで、鉄拐、琴高仙人あたりを行きたい。残念ながら琴高仙人の乗る鯉は、旬をとっくに過ぎてしまったが、食うのが主目的ではないので致し方ない。冬の間に撮れなくもなかったが、ラインナップが揃っていないのに、鯉を締めたり血抜きしたりという気になれなかった。それにしても鱗もそのまま調理すべき程、急いだ方が良いという。もちろん鯉のポーズも決めておいて、数カット撮ったらすぐに調理したい。 円谷英二で、大蛸に勝鬨橋を襲わせたが、昨日まで瀬戸内海で生きていたタコも、だんだんうんざりしてきて、参った。あれだけは避けたい。最も脚ハ本に演技をつけることもないのですぐに済むだろう。琴高仙人は、ローンレンジャーの如く、鯉に乗ってハイヨーシルバー!のイメージである。



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臨済義玄像は、鎌倉室町時代盛んに描かれ、大徳寺の一休門下の画家達は得意としたらしい。曽我蛇足の義玄像は、初代蛇足作との確定はないようだが、一休和尚像同様図上の賛は一休本人でもあるし蛇足の可能性は高い。それにしても盛んに描かれたにしては目にする事はない。誰だったか所有の図録にあったが、同じ絵を手本にしながら雰囲気は違っていた。息子の二代目蛇足は凶悪な人相に描いているが、こういう違えたところに個性が出る。   私の場合、一度作ればどこからでも撮れるメリットがある。そこでどうせ一喝の図ならば面と向かっての方が効果的?ではなかろうか、と正面からも撮った。三脚立て絞って撮るだけだから念のため3カットも撮れば終わってしまう。一カット増えてしまったが、私としては蛇足と同じ構図で撮った最初のカットよりこちらの方が良い。手本を立体化し、撮影するという私ならではの個性が出ているからである。 宮沢賢治を作った時、律儀なボクサーのように顎を引いた写真しか無い賢治を、あえて高い所に立たせ下から撮った。

二代目蛇足作



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臨済義玄は背景は無地だけが決まっている。放って置いた時間が随分あったが、なんとか完成。三遊亭圓朝の時は、構図だけ鏑木清方作と同じにしてみたが、オマージュもオリジナルが知られていてこそである。今回も曽我蛇足の作と同じ方が面白いと思ったが。 以前は残された有名な写真とは違う角度を狙った物である。絵画と違って立体は作ってしまえばどこからでも撮れるメリットがあるからだが、義玄はせっかく360 度作ってあるので、ついでに真正面を撮ってみた。臨済宗義玄の正面の顔だぜ、といって喜んでいるのは私だけだが。後に高僧の迫真的な肖像を残すことになる臨済宗だが、開祖の頃はそんな習慣もなく、蛇足の義玄像も想像で描かれた物だろうが、全国にいくらでもある臨済宗の寺には、開祖の像はないのだろうと思うと不思議である。座禅一つしたことないクセに何をブツブツいってる、と言う話であるけれど。   まあ蛇足のおかげで一休宗純を作ることが出来たし、禅宗でも大事な一喝する開祖の肖像も作ることが出来た訳である。そう思ったら正面向いた開祖の、面と向かった一喝。蛇足に影響を受けながら蛇足の描いていないカット。これこそ私の撮るべき物だったかもしれない。ついでに、などと余計なことをいうんじゃない。



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最近、モニターが壊れ、Wi-Fi機器の電源入らず(熱のせいで冷ませば大丈夫とのこと)様々な理由で懸念していた臨済義玄が順調に完成し、なのでまったく腹立たず。 当初いつもの陰影なしで撮影して肝心の〝喝!”の激しさが引き出せず。かつて『ゲンセンカンの女』の半裸の女に行燈の灯りによる陰影を出す出さないで悩んだ経験により、躊躇せず適度に陰影を与えることにより、かつての『大魔神』(大映)の憤怒の表情はここから来ているのでは、と本気で思った表情が出せた。緊張感をより出すため、僅かに額の血管を加えたが、これも微妙に効果が出た。作った所は出来れば効果として反映させたい。この塩梅こそ、被写体制作と撮影の二刀流ならではである。何しろどうなれば被写体制作者が満足するかは、撮影者である私は知っている。さらに歯応えあるご馳走が私を待っている。



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蝦蟇仙人は相方の鉄拐仙人が鉄の杖をもっていたり口から分身を吐いたりするので、ちょっと地味かな?と、と言っても巨大な白い三本足の蝦蟇蛙を肩に乗せてはいるけれど。数珠を首にかけ。手には桃の実。色味が丁度良い。どうせカエル顔なら。と目玉もカエル調にしてみた。 臨済義玄は。陰影なしで撮ってみたが、喝!の迫力が出ない。夜一灯で撮ることにした。 なんでも鑑定団を観ていたら、白隠の書画が出ていた。絵が全く違う。それは良いとして、絵としては苦手というか嫌いだが。臨済宗中興の祖として紹介されていた。まあ偉い禅僧な訳だが、夕飯を食べたら私が撮影しようとしているのは中興の祖どころか開祖である。白隠和尚は気にするな、と言っている。作りたければ気にするタマじゃなかろう?そういう時は申し訳なさそうな顔をするのだ、と言ったであろう母親も今は老人ホームだ。と白隠は私をそそのかすのである。

 



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富を掻き集めるといわれる三足の蛙を肩に乗せる蝦蟇仙人。こういうモチーフは何かとラッキーアイテムが登場する。丁度売っていた桃も持たせた。 何故かカエル顔にしてしまった蝦蟇仙人、夜中にモニターに向かっていると、今地球上でこんなことをしているのは私だけだろう、と、えもいわれぬ暖かい気持ちに満たされる。おそらく社会人が家族に囲まれた団欒の気分のような感じではないか?逆に私がそんな状況に陥ったとしたら辛くて耐えられない。社会人が夜中に蝦蟇仙人を作るぐらいの苦痛となろう。   モニターを撮影してアップしてみたが、描いたように見えるが、実際のモニターでは、明らかに立体だと判る。下手をすると千年以上前の神仙世界を描こうとするなら、現代の術といえるデジタル術なければ描きようがないだろう。2000年にオイルプリントを発表した時に、人は見た事がないものに出会うと黙ってしまうものだと実感した。成分、出自を知りたがり、それによりようやく目に灯り始める。あの体験はトラウマ一歩手前の体験であった。なので何が良いといって、大雑把にいえば、今の手法はデジタルと言いながら、撮って切って貼るだけなので、技術的なことはほとんど聞かれない。旅路の旗がそんな手法だ、というのが何よりである。



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『慧可断臂図』は岩窟入り口及び内部の背景を残し完成。慧可にはパラパラと雪を降りかかるておいたし、状況説明はそれで良しとして、シンプルに黒バックで、とやり過ぎ気味の私は思ってみた。後で考えることに。『臨済義玄』陰影無しで撮影したが、ポイントは喝!の表情であることは言うまでもない。陰影のない手法はインパクトを求めるには向いていない。ここは思いっきり陰影有りでやってみたくなる。これは初代曽我蛇足の義玄像に対し、息子の二代目がより立体的な表現を加えた気持ちが判る気がした。両者甲乙付け難い。数百年後の私は身内でもなし、人形であり写真である。 陰影を削除すると決めたなら全てそうすべきだという私だったが、川瀬巴水の作品をじっと眺めて自分の都合により使い分け等、といわれた。迷ったらより快感の大きい方を。蝦蟇仙人』の撮影。これは鉄拐仙人との『蝦蟇鉄拐図』にするか、各1カットづつにするかは未定。自分で作っておきなが妙に鬱陶しいツラをしている。早めに済ませておきたい。   何で蝦蟇仙人だからといってカエル顔にしたのか?魔が差したとしかいえないが、こんな顔は魔でも差さないと作れない。



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本日は朝から『慧可断臂図』の白紙の上に配した慧可と達磨大師の調整。大谷の中継を聴きながら。今日は一年で一番暑い日だそうだったそうだが、確かに暖かいと遅い昼食を食べようとしたら、部屋を閉め切り、エアコンを着けずに作業していた。以前良くやったのは冬にTシャツ1枚でモニターに向かい、なんか寒いな、身体が冷えて来たな。と思いながら止めずに、ちゃんと風邪をひいていた。『虎渓三笑図』が完成したなら作業デスクの前に戒めに掲げなければならない。一休宗純用骸骨、塗装。昔、プラモデルの骸骨に色を塗って夜が開けたら骸骨の佃煮のようになってしまったので気を付けた。 以前出した『貝の穴に河童の居る事』を差し上げた知人に、私の孤独をしみじみと感じた。と言われてびっくりした。そうでないと味わえない快楽がある事を見抜かれた気がしたのを骸骨に色を塗りながら思い出した。鍵っ子だったあの頃、私はすでにこうなっていた。 子供が口を開けたまま西の空でも眺めていたら、コーナーでグロッキーのボクサーにするようにアンモニアを嗅がせたりビンタすべきであろう。ホームにいる母に言わせれば、それはもう諦めるしかない、と笑うだろう。



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どういう訳がブログに登録済みの画像しかアップできないのでフェイスブックとインスタに一休の寝顔をアップしたが、これは目を開いている一休の目に粘土を乗せて『一休和尚酔臥図』の一カットのために加工したのだが、この方法なら既存の首を使って『往生図』が作れる訳だな、と。まあそんな姿は三島由紀夫を汚屋屋の姿で死んでもらったりまでしたのて、もう充分だろう。 例によって過剰になりがちで、胸元に留まるカラスは余計か?とも思ったが。初鴉は正月の季語であり、一休はカラスの一声で悟りを開いたともいう。連作の一作、竹竿のしゃれこうべにカラスがまとわりついていたらどうか?と、正月の頃のカラスはどういう状態か調べたら初鴉は正月の季語と知り、悟りの話も知った。何より〝門松や〜”の門松を配するのはなんともダサいな、と思っていたので、渡りに舟というやつである。こういう偶然は何故か起きる。なんで竹竿に掲げる骸骨にカラスを思いついたのだろうか?新鮮な、カラスに狙われる価値がある骸骨ならともかく。風狂の僧一休でも、さすがに正月に血生臭い骸骨を持ち歩かないだろう。『一休和尚酔臥図』は田村写真の田村氏がプリント時に声を挙げて笑ったなら、私の代表作になる可能性もある。



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一休禅師は屹立小学4年で大人向け『一休禅師』で読んだエピソード、しゃれこうべを竹棹に掲げ、正月の京の街を「門松は冥土の旅の一里塚めでたくもあり目出度くもなし」と各戸を回ったという。子供の私はホントだ、めでたいけどめでたくないや、といたく感心し、それを思い出し作ることにした。その一作で終わるはずだったが、ある日、英一蝶の『一休和尚酔臥図』を観た。道端に酔い潰れた一休。それを心配そうに覗き込む町人。その男が異様に小さい。偉大な人を大きく描くのは良くあるが。それを観て私もこれをやってみよう、と即座に思った。髑髏を掲げて歩き回ったその晩、その髑髏を枕に寝ている風狂僧の姿を思い付いたからである。京の正月ということで首周りに布ムシロをかけた。傍にはカラになった酒器のひょうたん。後は、さっきまで竹竿の骸骨にまとわりついていたカラスを一羽、一休の胸元にすっくと屹立せたい。副題は〝世の中は食うてかせいで寝て起きてさてその後は死ぬるばかりぞ”(一休)としたい。



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慧可、達磨太子はすでに撮っていたがちょっと色を塗り替えたので、臨済義玄ととも撮り直すことにした。本日はワクチン4回目。5時15分というから、暑さも多少マシになっているかもしれない。中国の、ある僧が注文して描せた、まなじりを決した喝!の表情の原画があるはずだが、どうしても見つからない。臨済宗の宗祖臨済義玄の肖像が無さすぎて腑に落ちない。インスタにしても臨済義玄は百件未満である。中国の検索エンジンでも曽我蛇足二代の作品が出て来る始末である。まして立体となるとへんな石像しかない。確かに先達の肖像画を残す、という禅宗でも臨済宗の習慣が生まれたのはずっと後世ではあるのだが。 接種会場は歩いて15分ぐらいか。腰も痛いし早めに出るか、と思ったのが4時半。しかし次に気付いたのは5時15分であった。間に合わなかった。 修行中山を降りないと決めていたのに友人を送って行ったら話に夢中になり気がついたら土俵を割っていることに気付いて笑う3人の男達『虎渓三笑図』の教訓役に立たず。   始業のチャイムが鳴っているのに図書室から出てこないので出禁になった小学生時代、耳が遠いのではないか、という担任の忠告で耳鼻科に行かさられ、母と手をつないで買い物の道中、小さな声で私の名を呼び、よく試していた。本を読むか、何か作らなければ、こんなことは起きないのだが。起きているのに必要なめざまし時計。



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雪舟の『慧可断臂図』は洞窟の奥の設定のせいか、雪積もる日だとは気が付かなかった。そこで慧可は、大師が坐禅する洞窟内部に踏み込まず、洞窟の外に立たせたい。一つには己の腕を切り落とすのに使った剣を傍の雪に突き立て、雪には僅かな血痕、これが最初から浮かんでいたからだが、慧可の頭や肩に、粉を降って撮り直した。国宝にああだこうだ、と異をを唱えているようだが、なんといっても雪舟が参考にした中国のオリジナルより、雪舟作にはただならぬ緊張感が漂い、そこに惹かれたのだが、その緊張感は筆描きによる水墨画ならではのものであり、人形写真で狙うべきものではない。 インスタに上げようと、横着して寝転がったまま下から撮り、やはり写真を手段にしているのだから、あくまで写真的に撮ろう、といっていたのにかかわらず、やはり例によって最初に描いた悪戯描きを超えることができず、上斜め45度から見下ろす構図になった。



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本日は達磨大師と第ニ祖慧可を撮影。慧可断臂のエピソードは、インド人の達磨大師が、慧可の弟子入りを許し、その後慧可が中国に禅を拡めることになるという、座禅一つしたことがない人間が手掛けるには、恐れ多い場面であるが、メインテーマは覚悟である。『慧可断臂図』の達磨大師は、国宝の雪舟作では己の腕を差し出す慧可を、その想いがまだ伝わっていないのか、壁を向いたまま無視しているかのようだが、私は慧可の決意の念を感じ、振り返ったところとした。いつもなら座禅する達磨大師の居る洞穴を先に撮影して二人の配置を考えるところだが、今回洞穴も作るので、達磨大師と慧可を白紙の上に配し、それに合わせて洞穴内部の壁を作り後から下地に敷くという初めての試みをする。 雪舟はもっとも国宝の点数が多い人物だった気がするが、日本ではどうしても山水図などの評価が高く、今のところ最後に選ばれたのが『慧可断臂図』である。画面に自分の腕を切り落として悲しげな顔をした人物では仕方ないだろう。 明日は布袋尊辺りの撮影を考えている。



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2016年は臨済義玄没後1115年だったそうで中国、日本各地で大々的に記念法要などが行われたようである。その頃私は臨済宗や茶の種をもたらせた茶祖といわれる栄西は知っていたが、臨済義玄は全く知らなかった。義玄の立体像は中国の石像が出てくるくらいで見当たらない。 曽我蛇足の義玄像の頭の形は前頭部が盛り上がり、有り得ない形をしている。中国で最初に描かれ曽我蛇足が参考にした原画はいくら探しても出てこない。中国も色々あったから失われてしまったのかもしれない。しかしその禿げ具合が変わっており、蛇足の創作ではなく、由来があるとしか思えない。蛇足作を出来るだけそのままにしたいので、蛇足に異論を唱える理由は何もない。特定の経典を持たない禅宗では、その教えは言葉や文字によらず。蛇足の義玄像の喝!の表情、頭の形に魅かれてその気になってしまった私にも何かが伝わったということであろう。そういえば栄西も、これがまたトレードマークのように、何を見てもまるで臼のような頭の形に描かれている。人の形に興味が向いてしまうのも、幼い頃から相変わらずである。



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