明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



私が戒めていることの一つに、発表の予定のないものは作らない、ということがある。今回出品する架空のボクサーは、結局ただ作っただけで、写真作品にはしたが展示は初めてではないだろうか。少々大きく作ったので個展では浮いてしまう。当時ボクサーは、たまに作りたくなるモチーフで、5体は作ったろう。必ず顔を腫らしていて、テーマはすべて“負けと思わなければ負けではない”である。ただ諦めの悪い奴といってはいけない。 それとこれも戒めなければならない悪い癖なのだが、今こんな物を作っているのは、地球上で私だけだろう、と自己満足に酔うことである。一人嬉々としているのはいいが、はたから見れば、人が作らないのは必要がないからだ。ということに気付いていない愚か者に見えるであろう。今回出品するトミー・ジョンソンなどその代表例である。これも以前作った同じジョンソンでも、ロバート・ジョンソンは、ブルースのみならず、ロックにまで影響を及ぼしている巨人だが、こちらの方は、恐ろしくマイナーである。残される写真も不鮮明な物が一点である。代表曲『クールドリンク・オブ・ウォーターブルース』。ギブミー、ガソリン〜♪の後のファルセットが味わい深い。酒の飲みすぎで死んだのではなかったか?私も学生時代、近所の車からガソリンが盗まれると、私が夜中に飲んだんだろう、と冗談をいわれたクチであるので、気持ちは少々だが判らないではない。

人形展会期: 5月11日[金]−5月17日[木] 7日間 ※最終日18:30閉場
プランタン銀座 本館6階アートギャラリー

 去の雑記
HOME



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




11日〜17日の銀座プランタンの人形展には3体ほど出品する予定である。今回はすべて旧作の黒人のシリーズで、架空の人物を作っていた頃の、かなり旧い作品もある。 この作品の頃は、楽器はともかく、資料写真や実際の人物の観察など避けていた。人体模型を作るわけではないし、本当の事を一度知ったら頭から追い出すことはできないだろう。実際と違っていても、私がそう思ったことには理由があるはずだ、と、いかにも独流の考えに基づいていた。デッサンもろくすっぽやったことがなく、かたくなだった私も、写真撮影をきっかけに実在した人物を手掛けるようになり、人間の部分の詳細を知ってしまう。昔想像したたことの一部は当っていて、知ってしまったらもう出て行かない。よって初期のような作品はもう作れないわけである。 そうこうして実在した人物を作ってもう16年が経ってしまった。今思うと次の段階に行くには、どうしたって本当のことを知る必要があったのであろう。実際はただやってきたらこうなっただけの話である。。そして再び架空の像を作りたくなり、出版社に提案したのが制作中の作品である。どうせなら架空の生き物で行こうと考えた。また変化の予感がしているが、私のことだから、後でこういう理屈があり、なんて顔をするのだろうが、実際は何も考えていないのであった。

去の雑記
HOME



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




国技館内でMさんに、新作の人に非ずの頭部を披露したところ、普段自宅で見ているのと環境が違うせいであろうか、些細なことに気がついた。それは当初描いていた表情と、ちょっと違うな、ということである。不満があるわけではないし、イメージ通りに完成したと思っていたので、ほんのちょっとしたニュアンスである。そしてその理由が判った。(たぶん)  先日ツイッターで、昔の強豪レスラーが出演した映画の話題になった。昔から特異な容貌や体格を生かし、レスラーは映画に出演してきた。日本でも、例えば黒澤映画の『用心棒』に出てきた大男『羅生門綱五郎』は台湾出身で日本プロレスに所属したレスラーである。私は昔から巨人が好きなので始めて観た時はスクリーンに釘付けであった。東大の標本室に見学に行ったのも、出羽ヶ嶽文治郎の骨格標本を見たいがためであった。こちらは相撲レスラーだが。 それはともかく。話題に上がった映画は『Night and the City』  (50’)である。しかし、ここまでレスラーがどうの、といってきたが、実は関係がなく、『リチャード・ウィドマーク』である。独特の笑い声の、悪役を数多く演じてきた俳優である。日本語の吹き替えでは、なんといっても、ねずみ男(ゲゲゲの鬼太郎)ゴロマキ権藤(明日のジョー)の大塚周夫である。 私はTVでモノクロのハリウッド映画を観られた頃のファンであったが、この映像で久しぶりに観た。そしてどうもウィドマークのニュアンスが知らないうちに入り込んでいたようである。もっとも、他人が見たところで、そうかな、という程度のことであろう。この程度のちょっとしたニュアンスについてああだこうだ、やっているわけである。

去の雑記
HOME



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




昨日からT千穂の常連と伊豆に行ってるkさんより『今大盛り上がりです。川に落ちるかも?』というメールが着た。『落ちてもいけど、浮かび上がってこないでね』と返事。 今回出版予定の出版社は、大ヒット中の書籍のおかげでまだ打ち合わせができない。なんとかGW開けには、ということであったが、それもかないそうにない。今月末には編集者も編集作業にようやく戻れる、とのことだがどうであろう。そこまでブームになっているのなら、私の出版のさいには“○○の大ヒットでご存知”と帯に書いてよ、と提案したいくらいである。  主役の生き物は短時間でできたからといって、出来が満足ならそれで良いわけである。今日も頭部のディテールアップに努めていて、かなり気持ち悪い感じになった。これは当初からそうするつもりであったが、そこに10パーセント程の愛敬を盛り込むことが肝腎である。堀辰雄はこの短編小説を“氣味惡くなつて來てしかたがなかつた”と評しているが、基本的にはユーモア小説である。ただ気持ち悪いだけでは不十分であろう。
死んだら魂はどこへ行ってしまうのか?と同じ調子で、頭の中でイメージした物はどこへ行ってしまうの?幼い私はよく一人悩んだ。特に一人で居る時に空想したイメージは、知っているのは私だけである。絶対頭の中にあるのに。と思っていたが、それを頭から取り出して、「やっぱりここにあった。」と確認するのが私の創作行為といえるだろう。今あの頃の、洟をたらして口を半開きでボンヤリ考えている私に会ったら、今にそんなことばかりすることになるぞ、といってやりたい気がする。 ボンヤリと天井のスミを見つめる子供はお化けが見えているのかもしれないが、口を開けっ放しで遠くの空でも見つめていたら、直ちに頭を叩いて我に帰らせるべきであろう。なにしろ、取り出した物が良い物か悪い物かは、また別の話である。つまり取り出すほどの意味がある物かどうか。これは創作を続ける間ずっと付きまとう恐ろしい問題である。おかげで私の場合、多少満足のいく物ができたとしても、はしゃいでいられるのはせいぜい一週間である。

去の雑記
HOME



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




永井荷風の養子であった永井永光さんが先月、荷風と同じ享年、同じ部屋で亡くなったという。永井さんには何度かお目にかかった。99年に神奈川近代文学館の荷風展に荷風像を展示し、その直後だったろうか、銀座で長年やっておられたバー『遍喜舘』にうかがい、荷風のエピソードを聞かせていただいた。04年の市川市文化会館の『永井荷風』―荷風が生きた市川―では現在の市川市を背景に、荷風像を撮って歩いた。これは後に『江戸東京たてもの園』や『世田谷文学館』における現在の風景を背景に作家像を撮影・展示につながっていったが、お宅に伺い、荷風が亡くなった部屋で荷風像を撮影させていただいたのは、大きな想い出となっている。最後にお会いしたのは08年世田谷文学館の『永井荷風のシングル・シンプルライフ』の搬入の際だったろう。まだまだお元気なご様子であったが。この時の展示では、現在の風景を背景に撮るどころか、ついにこの展覧会自体を荷風が訪れ眺めている状態を撮影した。これは学芸員の方のアイディアであったが、実に楽しい撮影であった。 永光さんもおっしゃっていたが、荷風は戦後性格が一変してしまったという。その吝嗇ぶりは有名で、全財産を青緑色のバッグに容れて持ち歩いた。市川市文化会館の展示には、荷風と交わった人々もご存命で、数々のエピソードが寄せられていた。市川に引っ越してきた時、世話をした地元の不動産屋は有名な作家ということで、息子を連れて掃除に掛け付けたが、『縁の下の塵も自分の物だ。余計なことはするな』。と追い返している。永光さんには、子供の頃、離れに住んでいた荷風に電話だと伝えに行くと、食べてる最中のカステラを、あわてて股の間に隠した。そういったものを分け与えられたことは一度もなかった、と伺った。しかし最近は、こういった荷風の性格は、戦争による恐怖症によるものではないか、と川本三郎さんの発言により、名誉回復?が成されつつあるようである。  永光さんのおかげで貴重な財産が守られ、我々も眼にすることができた。謹んでご冥福を祈りたい。

去の雑記
HOME



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




昨日主人公の頭部が数時間で完成したと書いた。細かな仕上げを含めてまる一晩、というところであろう。しかしいくらなんでも、と思い、何種か作って決めようと思っていたのだが、細かいディテールを作ってみると、これで良いのではないか、と思えてきた。短時間でできたとはいえ、これには何日にもわたり、作りたいのを我慢し、空腹状態が頂点に達するのを待って制作した結果である。この焦らし作戦?は、ここぞ、というときに時折行うのだが、集中力は高まるし、空腹のところへかぶりつくように作るわけだから、躊躇することなく、一直線に完成に向うことになる。不満といえば、物心付いて以来、この快感を味わうために作ってきたようなものだから、それを考えると、少々呆気ないところが不満とはいえる。  この頭部には、やはり人毛を植えようと考えているが、それはまた後日。この頭部を基本に撮影用の、異なった表情を何個か作ることになるだろう。後は以前触れたが、水中モーター取り付け用のバージョンも必用だが、こちらは夏までにあればよい。

去の雑記
HOME



コメント ( 3 ) | Trackback ( 0 )




ここ数日、ブログを留守していた。キーボードに水をこぼし、近所のヨーカドーに買いにいったが、今は置いていない。面倒な方法で、ツイッターには書き込んだが、あいかわらずKさんは、ここでそのまま書けないようなことばかりだし、まあいいや、と誘われて友人の家でダラダラすごし、本日キーボードを買って帰宅した。 作る作るといって作り惜しみをしていた主役である、人に非ずな物を制作開始したのだが、数時間で頭部が完成してしまった。いくら架空の物で、資料も使わずイメージだけで作れるとはいえ、これでは楽しみにしていたのに拍子抜けである。これはこれとして何体か作ってみることにした。 資料を見ながら実在の人物の制作は、苦手なわりに随分作ってきた。これはそういうことが必用な時期だった、ということであろう。人形制作を開始した頃のように、架空の物を作ると私は実にのびのびとしている。 
この間K本の常連で、今度の作品にも登場いただく予定のMさんから、平日の7日、相撲見物にお誘いいただいた。奥さんと行かれるそうで、有り難いことに母も一緒にどうぞ、といっていただいたが、母の都合が悪い。そこで作中、Mさんの女房役に、と考えているデザイナーのYさんを誘うことにした。スケジュールさえ合えば夫婦同時に撮影したいので、事前に顔を合わせていたほうが良いし、それにMさんの奥さんには、Yさん用の着物をお借りする可能性があるので、奥さんにも会っておいてもらったほうが都合が良い。  それにしても、相撲見物は久しぶり、などという程度の話ではない。昭和30年代、大鵬が優勝した千秋楽以来である。幼稚園児の私も沿道で手を振った。以来もっぱらTV桟敷で観戦である。 ということで、作中鼻の下が長い、と描写される役のMさんだが、鼻の下の長さも少々手心を加えることになるであろう。それはそうである。私だって人間だもの。他の出演者の方も、お付き合いの仕方によってはシミをとったりその他諸々御相談に応じることが可能であります。こういった点において、私はかなり人間味が強い方である。

去の雑記
HOME



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




出版のため取り掛かっている作品は、人の形をしている、いないを含め異界の物が数種登場する。そのうち主役、準主役その補佐役で3人。準主役のお姫様は頭部が完成した。連休中に、いよいよ主役の頭部の制作に入ろうと考えている。これが見た目からして人に非ずというわけである。 今まで常に著者を作中に登場させてきたが、今回は未定である。そのかわり当初から考えていたのが著者とは別の、某作家を登場させることである。これは誰かは完成まで内緒にしておくつもりだが、見てもらえれば、著者を登場させていないのに(ヒッチコックのように、通行人ぐらいで登場させる可能性はある)その作家を私が登場させる理由がわかっていただけるであろう。そしてその頭部はすでに出来ている。その他の異界の物は、粘土で制作するか、あるいは写真の合成で制作するか、それはもう少し進行した時点で、どちらが効果的かにより決めることにする。 そして異界の物共に対し、人間である他の登場人物は、友人知人にやってもらうのだが、主だった配役は決まったが、通行人などの端役もいずれ考えなくてはならない。 そうこうして、私は登場させるつもりはまったくないのに、自分が登場する、と近所の某店で、女の子達に言触らしている人物がいることが発覚した。「マアすごい」とかなんとかいわれてやに下がっていたらしい。作中に額にへの字の傷がある人物が出てきたら、何か意味があるように見えるではないか。へを消すのもうっとおしい。まったく、62歳になる夜に何をやっている、という話である。

去の雑記
HOME



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




昨日のブログに、かつてのプロレスラーを列挙したが、幼稚園児の頃からTVの前で、目を皿にしてあらゆる人種の裸体を見つめてきた。毎週展開される日常ではあまり目にすることのない姿態。これによって骨格から筋肉の構造が凡そ頭に入った。 私の場合、勉強しようと表層の脳を駆使して企んだことはだいたい徒労に終り、プロレスを観て、筋肉を研究しよう、などと、ただの一度も考えたことのないものに限り頭に入ってくる。 私の方向音痴や、数字に弱い部分は、この無意識の間に収集するデータを収納するために、ハードディスクのスペースを空けているのだと解釈している。そうとでも思わないと納得ができない。 子供の頃から馴染んだレスラー名鑑に匹敵する物に出合ったのが、高校時代のブルースブームの時、黒人ブルースミュージシャン名鑑である。明らかにジャズマンと違う佇まい。中には人前に晒して良いのか?という御面相も混じり、“ハウンド・ドッグ”や“ライトニン”など、レスラーのリングネームのような芸名。“ペッグレッグ”なんていうのまでいる。そして数年後、初個展が『ブルースする人形展』(82’)ということになった。 人間の諸々相ほど興味深いものはない。

去の雑記
HOME



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




先日、仕上げを残し完成していたお姫様の頭部だが、主役との対応を考えると、まだ甘いと判断した。俗物の主役に対し、あくまで見下ろした立場の姫が、あまりにも庶民的に過ぎると思えたのである。改良を続けていた。しかし顔が6センチ程度の頭部である。ほんのちょっとの、ヘラの動きや気分で奈落へ落ちたり、ピンチを脱したりするわけで、その大きさの物を数日間、或いは一月以上制作する間は、気が気ではなく、頭部さえ出来れば楽しいことが待っているのだ、とひたすら耐えるわけである。  ところでこちらのブログで、プロレスラー100人を選出する、という企画がなされていて、あと12人は?ということで私も考えてみた。 『ビッグダディ・リプスコンプ、カウボーイ・ビル・ワット、ホイッパー・ビリー・ワトソン、パット・オコーナー、キラー・バディ・オースチン、スカル・マーフィー、ゴリラ・モンスーン、キラー・カール・コックス、ドン・イーグル、キラー・カン』。 キラーと名乗るレスラーを3人も選んでしまったが、一人は実際リング上で2人殺している。 亡くなった父が最後まで大のプロレスファンで、唯一の共通の話題なので、入院中スポーツ新聞を持って見舞いにいったことは何度か書いた。子供の頃の映画で、病気の子供の所へジャイアンツの選手が見舞いにきて、約束どおりホームランを打つ、というような映画があったが、ここにアントニオ猪木が見舞いに来たら父はどうなるだろう、と想像したくらいで、当時の雑記にそう書いた覚えがある。 保守的な父は保守的なジャイアント馬場を嫌っていた。一方私はというと、父とは逆に、手前勝手な猪木が嫌いであったが、父はそれを知らずに亡くなった。  話は戻る。キラーだゴリラだスカルだカウボーイだ、と懐かしいレスラーを想い出しながら選んでみたが、これがなんとも愉快で楽しかった。そして選び終えて40分程であろうか、お姫様の頭部が完成していたのである。 ことほど左様に、ちょっとした気分でも制作に影響する、ということなのである。

去の雑記
HOME



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




私が子供の頃、『慌てる乞食はもらいが少ない』といった。子供でもこれなら意味が判った。というわけで主人公の制作に未だ入らず。『乱歩 夜の夢こそまこと』(絶版)の時は一作につき数ページであり引用文も短く、オムニバスの絵本という感じであった。それぞれ作品ごとに個別に考えて制作したが、今回は短編とはいえ、まるごと一作である。よって全体を考えて制作しなくてはならない。人に非ずの主人公と、準主役というべき姫(こちらも形こそ人だが、人間ではない)との聖と俗の対比が話の展開上重要であろう。

Kさんがファンの、T屋のかみさんの誕生日が近づいている。一昨年○○命と書いたケーキをプレゼントし、その部分を旦那と中学生の娘に食べられた。昨年の丁度今頃、三島由紀夫へのオマージュ展のために、F-104戦闘機を撮影に行った浜松に、暇なKさんも同行。前日に飲んでいて、KのRさんにハグされ有頂天になってしまった。翌朝の出発から一日中酔っ払ったままRさんの話を延々と聞かされ続けた。「結婚はしないよ」。飲み屋で冗談で一回ハグされ、なんでそうなる? 宿泊先の舘山寺温泉では、布団に入ってから、今年はケーキに何と書くか悩んでいるので『結婚してください』がいいよ。と提案した。私としては、旦那と娘にその部分を食われて何が面白いかである。ケーキ屋の店頭で勇気を出して私の案を注文したが、字数が多すぎ断わられた。 そして今年もすでに悩み始めている。字画、文字数の制限はどうなのであろう。食われるには『一緒に逃げて』など面白いが、ケーキ屋の店頭で恥ずかしいなら、Kさんが切々と歌う曲にちなんで『矢切の渡し』。これでは面白くない。娘の○ちゃんが、Kサン馬鹿じゃないの?と笑顔で齧るイメージ。

去の雑記
HOME

 



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




ここ十数年、実在の人物を作ってきた。最低限似ていないとならないので資料を集めるが、実は子供の時から、何かを見て創作することが大の苦手であった。想像で描いたり作ることばかりが好きで、写生が大嫌い。石膏デッサンにいたっては、専門学校の授業で少々齧った程度である。芸術学部がある大学系列の高校に通った私は、美術部にも属しておらず、放っておいてもそこへ行くつもりが、デッサンの試験があるのを知ったのは三年の進路相談の時であった。複製された学習用の石膏像ほど、長時間眺めるのに適さない物はない。クラスのもう一人志望していた男は一年の時から習っていたという。「何で俺に教えないんだよ」。「まさか知らないとは思わなかったし」。それはそうである。彼はいつか、テレビチャンピオンだったか、粘土細工を競う番組で、美術系の予備校の講師として、審査員で一度顔を観た。 そんなわけで初個展から黒人の人形を制作したが、その間は架空の人物ばかりであり、実在の人物は数える程度であった。ジャズシリーズ最後の個展に、写真も展示することにしたので、初めて実在の人物を中心に制作し、ファンのような気持ちで撮影することにした。そして翌年から作家シリーズに転向したわけだが、私はどういうわけか、苦手だったり嫌っていることに限ってやることになる。  好きな作家は凡そ作った。ここまできたら、満足するまで作り足していこうと思っているが、そろそろ実在の人物にこだわらない制作にシフトしていこうと考えている。その手始めといえるのが、今度出版される予定の作品である。主役、準主役とも架空のキャラクターで、脇役に実在した有名人は使うが、著者にいたっては登場しない可能性すらある。 早く作りたいのに自分を焦らしてまだ開始していない主役は人間ですらないが、これは一切の資料を参考にすることなく完成に至るであろう。架空のキャラクターの場合は、私が頭に描いたイメージにさえ忠実であれば良いわけで、資料から開放された制作は、私にどれだけ創作の快楽をもたらすのであろうか。そしてそれが判っていながら、まだ制作に取り掛からないマゾヒスティックな私である。

去の雑記
HOME



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




こんどの作品はK本の常連客など友人知人に出演してもらうのだが、著作権が切れている作品なので、ネット上の青空文庫でも読める。密かに各自予習をしていただいているようである。しかし古い作品ゆえ、この場面がどういう状況なのか、頭に描けないこともあるだろう。そのあたりは、おいおい説明していくつもりだが、何しろ顔の造作だけで選んだ一般人である。演技力にははなから期待していない。関節の可動するマネキン人形に徹してもらい、ポーズを一つ一つ作り撮影しようと考えている。カメラを向けたとたん、表情に緊張が走り、瞬きをがまんして、といったとたん瞬きを始めるのが一般人である。今回はロケ場所の都合上、現場に集ってもらっての撮影は不可能なので、事前に撮影した背景に合成することになる。場合によっては、各人別々に撮影する可能性もあるだろう。そのことを考えても、かえって画として、素人のわざとらしさを生かそうと考えている。  私の場合、できることなら眉間にレンズを当てる念写が理想なのだが、それができないので、仕方なく自分の外側にレンズを向けている。『どんな鳥でも、想像力より高く飛ぶことはできないだろう by寺山修司』仰るとおりである。翼を下さい?誰がそんなものいるか、という話である。
本日は結局半日図書館。作品が発表されたのは戦中だが、雰囲気から大正時代に設定した。当時の風俗、習慣を調べているが、現在古い建物が残っていても、確実にないのは電柱である。これは必ず作ろう。 というわけで、今日もまた主役の制作に入らなかった。明日辺りは作りたくて、かなりイライラしてくるはずである。このイライラ感は何かに似ている気がするか、せっかくKさんが登場しないのに品がなくなるのでいわないでおく。

去の雑記
HOME



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




お姫様の頭部を仕上げを残し次の制作に入る。いよいよ待望の“人に非ず”な物にとりかかる。私は子供の工作じゃないのだから、作りたいからといって、発表の予定のない物は作らないよう、強く戒めている。かつて思いついては悪戯描きのように、習作ともいえないような物を作って喜んでいた時期が長かった反省からである。(そんな時期もあって良かった、と思いたくはあるが)。 よってそういった物は、個展をするくらいのテーマにまで高めるか、制作依頼でもなければ我慢するほかはない。『中央公論Adagio』の表紙を担当していたときは、これに乗じて、ついでに作れないか、と2、3提案してみたが、惜しいところでかなわなかった。ところが某出版社より何か企画を出せ、というので主人公が人間でないものを提案してみたら通ってしまった。 当初、先方が提案してきたのが海外物で、一冊まるごと仕上げるには、それこそ海外に行って背景ぐらいは撮影しないとならない。そんな予算がでるというならともかく。そこで私から提案してみたのだが、通った時は呆気なかったので、それはそれで“そちらがあんなこというから、それだったらこれで、といってみたけれど”、と若干慌てたが、待望の人に非ずな物を制作するチャンスがようやく訪れた訳である。 ただその出版社は、某書籍が大ヒット中で、その対処に追われていて、本日もようやくメールが着たと思ったら『着々と作業が進んでいますね』。などと他人事のような有様で、これからどんなスケジュールで進めていくのか、細かい打ち合わせができていないので、何をどうしようとしているのか、まだいえないのである。制作について書けなければ、近所の酔っ払いのオジサンの登場が増えるだけである。そんなことではいけない。かまわず制作に取りかかる。  しかし例によって作りたくてしょうがないのに、わざわざ間を空けて、腹を減らしてからかぶり付こうというわけで、明日あたりは図書館で読書かもしれない。物心ついて以来の私の凶暴なる制作欲との付き合いも長いので、悪役レスラーのマネージャーのように、扱い方は心得ているのである。

去の雑記
HOME



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


制作  


まだ詳しいことは書けないのだが、制作中のお姫様は、一時迷走はしたが、頭の中にはっきりとしたイメージがあったので、予定通りの出来となった。これにいずれ人毛を植えるというか貼り付けるつもりだが、問題は衣装である。何種類かのポーズをさせたいので、粘土より布で作った方が良さそうだが、私は小学校の家庭科では5段階の2という有様で、これがまったく苦手なのである。私が手先が器用だと思ったら大間違いである。これは誰かにお願いするしかないだろう。  それにしてもこの著者、着物はこんな柄で帯はこう、などといちいち描写してくれるので実に厄介である。もちろんすべてがこの調子である。また私が普段、あらゆることがいい加減なわりに、こういったディテールがいちいち気になり、こんなことまでやる馬鹿は他にいないだろう、と一人ニタニタする、というヘキがある。魚がいないところに釣り糸を垂れ、ニタニタしているのに似ているんじゃないか、と薄々気がついてはいるのだが、ヘキというものはそうしたものであろう。 作中、ある物が出てくる。その描写からしてこういったものだろう、と推理し、とりあえず検索するが、類似の物は見つけたが、違う。絶滅している可能性が高い。今後図書館でできるだけ探すつもりではいるが、一方では自分の想像で作ってみたくもあり、見つからないで欲しい、という気もするのである。

去の雑記
HOME



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


« 前ページ