明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



これは昔から書いて来たことだが、日曜や連休、世間が休みの時こそ、清々しく制作出来る。学生の時も、暮れ正月も実家に帰らず何か作っていた。それは拭い難い、罪悪感のような物があり、世間が休みだと、それを感じないで済んだ。何を今更という話なのだが。 今でこそ応援してくれている母だが、好きなことになると、始業のチャイムが鳴っているのに図書室から出て来ず大騒ぎさせたり、という例の快感物質に溺れる我が息子を、何とかしようと、あらゆる手段を使い、治らないならせめてバレないようにせよ、と。父が脱サラし、共働きとなり、目が届かなくなった分、うるさく、当時私はチック症になった。 しかし寒山拾得を手掛けるようになり、何故か当時を振り返ることが多くなり、向き合ったせいで、気が付いたら。まったくとはいわないが、罪悪感は薄れている。そして母が会うたび「今何作っているの?」と聞くと、あの頃苦労させられた分、今になってヌルい物作っているんじゃないだろうね?」と聞こえるようになった。



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『日曜美術館』甲斐荘楠音。以前観たのが26年前だと知った。当時〝穢い絵”と土田麦僊に酷評されたことが強調されていたような記憶がある。 久しぶりの制作。私が創作行為によって快感物質を溢れさせるには〝素晴らしい作品”を目指しても溢れない。甲斐荘も〝穢い絵”でないと溢れなかっただろう。 という訳で、宗時代の中国、一人坐禅している無学祖元。そこへ蒙古兵が現れ喉元に剣を突き付けるが、無学祖元微動だにせず『珍重大元三尺剣、電光影裏斬春風』(ありがたく大元三尺の剣を受けよう。私は春風。斬れるものなら斬ってみよ)と漢詩を詠むと蒙古兵は退散する。縦長の画面に、上部に筆書きされた件の漢詩を配したい。 ロクロ台の上の蒙古兵。ペト、ペト、ペトと粘土を盛り付けながら〝私はいったい何でこんな物を作っているのだろう?” すると筑波山の、四六の蝦蟇の油の如き物質がタラ〜リタラリと溢れ出すのであった。



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大谷の活躍を観て、私もダラダラしていないで、余命を想定して頑張ろう、という話とは趣きが少々違い、幼い頃から馴染みのある、溢れる快感物質のせいで、良くも悪くも特徴的な人生になってしまった。寒山拾得に至り、ブログでも振り返ることが多かった。そこに来て、ユニコーンの登場で、残りの時間、せいぜいさらに〝アレ”を溢れさせていこうぜ!という話である。何をいってるんだか?しかしホームの母は、会えば〝今何作ってんの?”と聞く。子供時代、あの物質のせいで散々苦労かけておいて、今になってヌルい物作ってんじゃないだろうね?の意味だと思った。 明日よりようやく、無学祖元師に刀を向ける元寇(蒙古兵)の制作に着手のこと。



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昔から凡人が、あれをしたりこれもしたり、限られた一生、せっかくの自由を無駄使いするべきではない、と思って来た。凡人で、なおかつ独学我流者の私は、なおさら余計なことをせず、一つのことだけを、と心掛けて来た。そこに現れたのが大谷〝ユニコーン“翔平である。 世間は才能だ努力だと分析するが、私には、野球をすることにより溢れ出る快感物質に、幼い頃から取り憑かれた男に見える。 昔、スランプに陥り一年禁酒した。その時一番こたえたのは、金原亭馬生が噺の中で酔って行く芸であった。大谷の姿も別な意味でこたえる。そこで昨日、凡人の浅知恵ではあるけれど、まだ先がある、とダラダラ生きてはならない、と残る寿命をあと◯年と想定し、ギアを上げて行くことに決めた。 本日の大谷翔平、ダブルヘッダー第一試合、9回111球を投げて1安打8奪三振、完投、完封勝利。45分後の第二試合、連続2HR。このユニコーン、悪魔と取引しているとしたら、まったく別の話になってくるが。



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82年の初個展は架空の黒人ミュージシャンだった。人形のことなど知らなかったが、あまり大きくない、人物像をイメージしてもらえるだろう、と人形展とした。万事がその調子で、美術だ工芸だ人形作家だ、という意識はあまりない。自分の中に浮かんだ物がターゲットなら、他人の頭に浮かんだことに感心しても、と美術館や個展巡りも30代を境にあまり行かなくなってしまった。人と自分を比較することも、人がするから私もするという感覚が元々ない。治らないならせめて、と母の教え?が余計なことは顔に出さず身を守れ、とどさくさに紛れて40年経って、挙句が寒山拾得を作っている。しかしあの横尾忠則さんが寒山拾得を手掛けていることを思うと、満更悪い結果でもなさそうである。何より、何で寒山拾得なんか、なんて人間がいなくなった。 昨日、寿命をあと◯年と想定して生きることに決めた。



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中学生になる時、講談社の江戸川乱歩全集の配本が始まった。中学時代を通じ、夢中になり、授業中も読み続けたのは乱歩と谷崎潤一郎である。乱歩のいう〝現世は夢 夜の夢こそまこと”タイプであった私は受けるべき時期に影響を受けた。以前嵐山光三郎さんに「乱歩は谷崎になりたかった人」と伺ったが、乱歩が亡くなった2日後に谷崎は亡くなっている。その全集の挿絵を描かれていたのが横尾忠則さんで、初めて見た時は、切断された首は舌出してるし、何だか変わった絵だな、と思ったが、読み終わると、見事に乱歩世界を表現していることに驚き感銘を受けた。個展の際に、ボロボロになったその本のイラストにサインを頂いた。 昔は、スピリチュアルなことや禅についてついて発言をされていたが、9月に『寒山百得展』が開かれる。今もっとも話を伺いたい方だが、数十年ぶりに上野の美術館に行かねばならない。

 



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AI  


ハリウッドはAIストをやっている。このままでは俳優が要らなくなりかねない、ということらしい。中学生の頃、メロトロンという、楽器の音を録音して、鍵盤を弾くと、テープで再生される楽器があり、海外の演奏家組合だかが、同じくストをやったというのをロック雑誌で読んだ記憶がある。 昨日も書いたが、頭に浮かんだイメージを手に伝えるのに月日を要する。それがAIにより、端折れる、ということなのだろう。余計な苦労をしない眼高手低だからこそ浮かぶ発想もあるだろう。私は他人の頭に浮かんだイメージには興味がなくなっており、何年も小説を読んでいない。そもそも作家シリーズのほとんどが、小学校から高校までに読んだ小説がネタ元であり、以降は役目が終わったという感じで読まなくなっていたので、いずれにしてもネタ切れであった。もっとも、高校の時に読んだ森鴎外の『寒山拾得』が頭のどこかに引っ掛かっていたのだろうが、それを今頃、何故地中に埋もれていた筍のように、急に掘り返したのか。何処かに居るシナリオライターに聞いてみたい。

 



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先日、技術的にはもうこれ以上必要ない、と軽口を叩いたが、独学我流者としては、本来軽く済ますような話ではない。しかし、博物館に行くと、師匠や先生から伝え学んだからといって、だんだん良くなっているか、というと、そうでもない。構うことない、と思わせてくれる。 これ以上は技術は必要ない、というのも本当で、持てば必要ないのに使ってしまうだろう。 一つのこと以外、ほとんど捨てて来たといって良いが、大谷翔平を観ていると、私如きには当然の話である。凡人があれもこれも欲しがるには、一生は短かすぎる。 さらに昨年、先のことを考えず、手の届くことだけしていれば、私が長年恐れ続けた、死の床で、あれもこれも作れば良かった、と後悔に悶え苦しむ確率は低くなる。以来心がけ、本日の段階ではせいぜい5作品である。来たるアクシデントに備え、せいぜい2作品にしておきたい。そうすれば、たいして苦しむことはないだろう。



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昨日今日、北条時頼によって建長寺の開山に迎えられた、中国(宋)の禅僧「蘭渓道隆(大覚禅師)」命日法要が2日間にわたって行われたそうである。蘭渓道隆は1246(寛元4)年に来日し、1278(弘安元)年に66歳で亡くなった。日本で最初に禅師号を得た人物である。没年と同い年も何かの縁か。 寒山と拾得、二代目の頭部が形に。計四つの頭部を場面により組み合わせて使い分けたい。岩肌に満面の笑みで寒山詩を書く寒山、拾得は、それを箒を抱え笑顔で見詰める。あるいは岩を硯に墨を擦る。岩窟の寒山と拾得。二作は加えたい。他のモチーフが増えるに応じて寒山拾得を増やして行く、なんていうのはどうか。

 

 

 



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南房総で滝を撮影したが、行く前にからこうなるんじゃないかと思っていたが、不動明王の火焔は筆描きするし、陰影がないのに水の輝きがあるというのは矛盾となる。外側にレンズを向けず、眉間に当てる念写が理想と言って来たのだから、ここに至れば背景も全て作ることになりそうである。また不動明王より、そもそものきっかけである寒山拾得を増やしたい。全て無背景であったが、寒山の住う岩窟などあとは背景有きの予定。 一方実在した蘭渓道隆は、建長寺のお手植えのビャクシンの木を背景に、七百六十年ぶりに、巨樹となったビャクシンの前で撮るつもりだが、今の時代にやるからこそ、本人の植えた木だというところに意味がある。前に立たせるのが、写真機があれば撮影可能な、建長寺収蔵の蘭渓道隆像ではなく、国宝の肖像画を立体化した像という〝及ばざるくらいなら過ぎたる方がマシ”がモットーな私ならではの蘭渓道隆になるだろう。これにより得られる快感は、房総の地酒、地魚を持ってしても及ばないだろう。

 

 



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一日  


午前中『タウン誌深川』の原稿を書く。制作中の坊様の話ばかりでも、と岐阜の製陶工場に就職した二十歳の頃のことを書いた。目指す陶芸家への道があまりにも遠く、酒を飲んで田んぼに落ちたりしていた。目標だ、道だ、なんて遠い先を考えてるから田んぼに落ちるのだ、とあの時の私に言ってやりたいが、私のことは私が一番判ってる、と思っていた私に何をいっても無駄であろう。 それにしても翌日、なんで工場の人達は私が田んぼに落ちたことを皆んな知っていたのか?恐るべし田舎のネットワーク。田んぼに落ちたのあんたが始めてだよ、と屋台のオヤジにいわれたが、これでは酔っ払ってフラフラなど出来ない。あの閉鎖性は、金歯剥き出して笑う、工場の配送係のオバチャンがだんだん可愛らしく見えて来るという恐ろしさであった。 『俺たちの旅』の再放送。とても今は見れないが、ゲストが大宮伝助なので見た。就職が決まらない中村雅俊。悩み落ち込み実家へ。戻って来いと迎えに来る田中健。「俺は行き当たりばったりなんだよ!」と中村。これを観ていた当時、還暦過ぎて、この就職が決まらない学生と同じことをいっているとは夢にも思わなかった。しかも奴と違って前を向いていっている。



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制作  


蘭渓道隆や無学祖元は南宋時代の中国から、蘭渓道隆は日本に禅が根付いていないことを知り来日、無学祖元は北条時宗に招かれ来日した。そして元寇の襲来ということになるが、元寇の中には相当数の南宋の人々が兵隊にされていたというから、複雑な思いもあっただろう。敵味方双方の犠牲者を祀るために円覚寺は建立され、無学祖元は開山となる。それにしても最近やっていた『鎌倉殿』も一回も観なかった私が鎌倉五山の開山を作るとは夢にも思っていなかった。今後、私のダウジングロッドはどちらを指すのだろうか?それにただ従うだけである。目標など、途中挫折の可能性が増えるだけである。 技術は現状で充分間に合っている。余計な技術は身に付けるべきではない、とずっと意識して来た。一度身に付くと出て行かないし、持てば使いたくなる。言いたいこと以外を感心されても良いことはない。ジャズ、ブルースシリーズの頃、楽器をいくら関心されても、といつも思っていた。工芸家ではないし、風俗標本を作りたい訳でもない。



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連休中の房総行きは、当初高校時代の同級生と行こうと思っていた。最近奥さんを亡くし、息子は結婚し家を出た。気分転換になるのでは、と思ったのだが、布団の上げ下ろしや食事など、全てやってくれる旅行じゃないと嫌だ、とぬかす。同い年のオヤジ同士、旅館で浴衣で差し向かい、なんて今一つである。布団の上げ下ろしといったって、布団を敷いても畳や板の間に倒れ込んでいる人もいた始末である。酔っ払った男同士、話す内容が当ブログでさえ書けないようなことばかりであったが、そこが良い。しばらく七百六十年前の坊様のことばかり考えていた私には、オールスター戦も終わり、これで後半戦に突入、という心持ちになれた。 房総ではどこでも売っている『寿萬亀』。明治神宮に卸しているそうだが、こういう場合はただの本醸造が一番で、甘めなのに数秒で口中より消え、ベタつくことはない。地の酒に地の魚。こればかりは出かけて行くしかない。



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朝っぱらからピーウィー・クレイトンの『After Howers』のギター練習。あれはバブルの頃ではあったのだろうか。ジャズ、ブルース人形を作っている頃、人形が細かくなるにつれ、楽器もそれに合わせなければならない。人形は作りたいが楽器を作るのが苦痛であった。それこそ『After Howers』という個展タイトルで、演奏後の設定で楽器ではなく、楽器ケースを持たせたりした。そこを救ったのが、人形を被写体とした写真を展示し、人形を展示するだけでは表現出来ない、私にはこの人物はこう見えている。というのが表現可能となった。となれば日本人制作に移行するのは必然だったろう。翌年日本の作家6人による『夜の夢こそまこと展』を開催したが、これは昭和3年生まれの日本人だと言い聞かせながら澁澤龍彦の脚を3回は切断しただろう。



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和田浦で残念だったのは、今日、明日辺りから鯨漁が始まり、解体場での解体を見学し、その場で生の鯨肉を入手出来ることであった。小学校の給食の硬くて筋だらけの鯨を子供に食わせ、美味い所は誰が食っていたのであろうか。そのうち冷凍ブロックを注文したい。 昨日はその日に帰るか、もう一泊するか決めていなかったので、確認するとみんな帰るという。飲み疲れが明らかである。私も実はもう帰って制作に入りたくなっていた。この流れからすると、予定していた一休宗純ではなく蒙古兵だな、と。 日本の甲冑と違い、実に様々である。基本は革で軽かったという。馬も連れて来たろうが、馬の運搬は熱を出したりするので難しいらしい。地続きの国を攻めるのと違い、戦力の低下は避けられなかったろう。 それにしても行き当たりばったり、昨年まで爪の先ほど考えたこともなかった元寇を作っている。澱まざること外房の海の如し。自分を驚かせたり、呆れさせたりするのは、自分しかいない。



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