明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



小学校に入学と同時に図書室に入り浸り、始業のチャイムが鳴っているのに出て来ず、しばしば出入り禁止になりながら、読みふけったのが、伝記、偉人伝の類である。また力道山時代から各国の異形の人達を見続け、東京オリンピックでは様々な人種の肉体の躍動に夢中になった。物心ついた頃から、人間にしか興味がない、といって良いだろう。 39年前の個展デビューは架空のブルースマンが初めだったが、そのブルースミュージックにはまったきっかけは、『ブルースのすべて』というミュージックマガジンの別冊でブルースマンの強烈なビジュアルを目にしてからである。 頭で考え企んだことはことごとく外し、何故だか判らないが、やらずにはいられないことに任せた方が結果が良いことに早々に気付いたことは幸いであった。 陶芸家を目指したことで粘土という手段を得て、実在した作家シリーズを経たおかげで、写真を穴の空くほど見つめたことは、デッサンなどまともにしてこなかった独学者として勉強になったろう。試験もろくにない工芸学校に入学し、リンゴを粘土で作る課題で、まずリンゴ大に粘土を丸めた連中の中に私もいたから、“待てば海路の日和りあり”である。 こうして振り返ると、こうなることは物心ついた時に決まっていたのだろう。特に一休宗純と見つめ合っていると、その思いを強くする今日この頃である。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




曽我蛇足が描いた一休の斜め視線、珍しいが、これが実に一休らしい。特にしやれこうべを掲げて”門松や目出度くもあり、目出度くもなし“の、ただ目出度い気分の世間に異を唱える一休には相応しい。全身像にしようと思っていたが、腰から上、竹竿の先のしやれこうべまで、背景はなし。足下まで描く必要はないだろう。 ねだって買ってもらった大人向けの『一休禅師』小学4年にもなると、大きな活字と子供向けの挿絵に拒否反応が生じて来た。大人だろうと子供だろうと見える物は同じだろう。それを子供向けの挿絵にするのが、私には“余計なお世話“であり、未だに童画的な物に拒否反応がある。 子供の私が筋肉を描いているのに大人が何故描かない?!子供のままにしておいた方が大人には都合が良いのだ。そこに気が付いていたので、ずっと息を潜めて小学時代を過ごした。そう思うと一休の“門松や冥土の旅の一里塚目出度くもあり目出度くもなし”にことのほか私が反応したのは、それが本当のことだったからであろう。この期に及んで良く出来た再会である。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




先日、無呼吸の検査キットを装着し、送り返した。最近眠気が酷く、行き付けのクリニックに相談し、検査キットが送られて来た。人形の首をちびちびと作る分には負担もないが、気が付いたら寝てしまっている。寝たい時に寝て起きたい時に起きる。20代からずっとそうしてきた。寝不足であれば、また寝れば良い。ところが最近眠気が取れず、寝たり起きたりしているうちに夜である。 私は元々、“ピストルで撃たれたように”寝るといわれ、20秒前後で寝てしまう。母と一時同居していたとき、話していたと思ったら返事がなくなる。脳溢血でも起こしたか、と名前を呼ばれて起こされたことがあった。そんな有様だから、睡眠は深く充分だと思い込んでいたら、検索すると、それは寝不足の症状だというので驚いた。 ニュースで賽銭泥棒の防犯ビデオを見たら、知り合いの爺さんにそっくりで笑っていたら、私と同い年でがっかり。犯罪者は概ね老けるのが早い。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




禅宗にリアルな肖像画を描く習慣、技術があったことで寒山拾得から土俵をはみ出し、一休宗純、臨済義玄にまで手を拡げることになった。肖像画のリアリティー、完成度は、その翌年、鏑木清方が樋口一葉や三遊亭圓朝像を描いたといわれても違和感を感じない程である。曽我蛇足の臨済義玄像は、今から千年以上前の義玄を後に想像で描いたのだろうが、一休が賛を書いているくらいで、臨済宗公認の義玄像だと解釈して立体像を作っているが、栄西の立体像はあるのに、義玄像は何故か今の所目にしていない。達磨のイメージを受け継いだかのような顔だが、特徴的な形状の額に、何か根拠がなければこうは描かないだろうという珍しい毛髪の禿げ方である。どうせ喝?というならと、より口を開けた。来週中には、曽我蛇足の肖像画を参考にして制作した一休、義玄の首が完成する予定である。 



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




隔月のタウン誌『タウン誌深川』発行。連載も26回となった。今月号は心霊写真と、高校時代の体験談を。心霊写真はブログで何回か載せたが、ついに印刷されてしまった。このネガは”撮ったど!“と捨てずにとってある。この手の話は大好きだが、寝床での体験談など、ほとんど寝ぼけた連中の話だと信用しない。そんな私の僅かな体験だが、実はもう一つある。かまいたちという妖怪である。鎌を持ったイタチが人を切り裂く、という奴である。冬の乾燥した時期に、真空状態が作られ、そのせいで切り裂かれるが出血はしない、などという怪しげな解説を子供の頃妖怪本で読んだ。 小学三年の雪の積もった日、ストーブ当番の私は外階段をコークスの灰を捨てに降りていた。裏庭で5、6人が雪合戦をしている。一人の女の子が転んだのだが、雪の中に倒れ込む直前、右膝の外側に十数センチの赤い直線が走った。騒ぎになったが、当人は不思議そうな顔をするばかりであった。  これを書くにあたり、かまいたちに切られた当人に後々災いが降りかかったりしないのか検索してみた。40年程後に彼女は自宅の風呂で煮立っているところを同居の兄に発見されたからである。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




考えてみると39年前の個展デビューのジャズ、ブルースシリーズ、次の作家シリーズ、そして制作中の作品。それにつれて、話相手は減って来ている。今回のモチーフに至っては周囲も、よりによって感が際まり、当ブログは、一人ごとをいっている有様で、ブログというより、個人的な忘備録、メモの様相を呈している。思い付いたことをダラダラ書いているが、予定していなかった地点にたどり着いてしまい、何故私はここにいるのか、その謎?を後々検証するために必要になる。無計画ゆえであるが、そんな状況とは裏腹に、制作上の充実感は高まっている。ネタはどうやって考えるのか?の問いに“エアコンぶんぶんお姉さん”も「考えている時の人間は、面白いものから遠ざかっている、という判断の元、何も考えずに作ってます。」といっていた。 頭に浮かんだイメージはどこへ消えて行ってしまうのか?と不思議だったのは小学生の低学年の頃だったが、親にねだって大人向け一休禅師を読んだのは4年生だったろうか。あの頃の私に、消さずにとっとくことが可能になったぜ、と言ってやりたい。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




現在制作中のモチーフは、日本人は一休宗純ただ一人の可能性が出てきた。後は中国人で、さらにインド人を一人作ろうとしている。 禅宗には高僧を木像や肖像画にして残す、という習慣があり、おかげで、間違いなく一休はこうだったろう、というリアルな姿を知ることが出来る。中でも曽我蛇足は、一休に画を教え、一休から禅を学ぶという間柄で、その肖像画に一休自らが賛を書いた、つまり本人のお墨付きという訳である。 蛇足の一休像は何作も残されているが、中には冴えない作品が混じるな、と思っていたら、蛇足は時代ごとに何人もいて、一休と親しく交わったのは墨渓という人だったようである。一休と共に臨済義玄像でもお世話になっている。となると、墨渓作を写した他の蛇足は私と条件は一緒である。そういえば曽我蕭白も蛇足を名乗ったことがあるというのを何かで読んだ気がして来た。 二メートル超はあろうかという赤鞘の大太刀を傍らの肖像は残っているが、それらはおそらく本人を目の前に描いているが、私が作ろうとしている、竹竿にしやれこうべの画は残されてはいない。だからこそやりがいはあるものの、実はあれは実話ではない、なんてことが露見しないことを祈るばかりである。事実とするなら一休いくつの時のエピソードか調べる必要がある。下手くそ蛇足も含め、若い頃から禿げて行き、老人とななった肖像があるので、おおよその経年変化は想像ができるからである。唯一の日本人、さらに小学生の時のイメージもある。こだわりたい所。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




68年のメキシコオリンピックの高跳び、フォズベリーの背面飛び。スポーツにおいて、あれ以上驚くことはない、と思って来たが、ここのところ驚きながらユーチューブで全米の称賛の嵐?を浴びてから制作を始めるのが毎朝のルーティンとなっている。昨今はテレビは一家に複数台の時代だが、お茶の間に一台の時代に、こんな全米を揺るがす孝行息子がいたら母は”ご両親はさぞ嬉しかろう“と泣くに違いなく、その横で不出来な息子は嫌な気分になっていただろう。 本日ワクチン接種一回目。順番待っている間に資料を読んでいて『慧可断臂図』は雪中の話だと知る。となるとちょっと変わってくるか?まあまずは達磨大師の頭部を作ってからだろう。接種はとくにどうということもなく、タクシー500円券くれる。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


眠い  


臨済義玄を作っていた辺りから、眠くてしようがない。クリニックに相談したら無呼吸検査キットが送られてきた。本日も気が付いたら寝ていた。 『慧可断臂図』とは、達磨大師に教えを請おうとした慧可が、受け入れられず、自分の左腕を切り落とし、ようやく受け入れられる、という場面である。アウトレイジで自分の小指を噛み切った中野英雄のようだが、中野の場合、この件に関して最後まで”道具“に恵まれなかった。慧可には切れ味の良い剣を与えよう。 達磨と慧可の頭部を作って、とりあえず頭部はここまでとしたい。初めてのことばかりで、ペース配分を改めて考えていかなければならない。後は全身を作る訳だが、出来たところで、単に被写体が完成したに過ぎない。そこまで面倒なことをし、ようやく私の“念写”が可能となる。外側の世界を被写体とし、自分を仮託したり比喩としたりということは私には全く向いていない。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




雪舟の国宝『慧可断臂図』(えかだんぴず)には元になった作品があることが判った。洞窟、達磨、切断した己の腕を差し出す慧可、という同じモチーフだが、構図の違いにより、より主題が強調されている。雪舟は達磨の表情と面壁座禅を表すために真横を向かせ、目の前に壁を配している。 歴史ある様々なモチーフの端を齧ってみて、つくづく感じるのは、自然物である人間が創作した物、それもすなわち自然物であるならば、先達の作品を模写することは、風景を模写することと同義であろう。そこにはパクる、などということとは全く異なる絵師達の姿がある。 歴史の厚みを前にして、”立体を作ってそれを被写体として写真作品にしました“それだけ言えれば良しとしよう。という心持ちになっている。しかし雪舟は達磨などいくらでも描いただろうが、私は初めてである。見る人が達磨と睨めっこ出来るように正面を向かせたい。洞窟の壁に達磨の顔に接するようにガメラを配し、達磨の背後には己の腕を切断しようと刀を構える慧可、その背後に洞窟が口を開け、眼下に広がる風景。 頭に浮かべるのは勝手だが、養老孟司いうところの“人間は頭に浮かんだものを作るように出来ている”という仕組みにこれから苦しむことになるのは私自身である。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




一休に髪の毛を試しに粘土を“ちねって”みた。実にむさ苦しく要散髪だが、小学生で読んだ『一休禅師』のイメージそのものとなった。 私が二十歳で岐阜の製陶工場で食器を作っていたとき、そこは配送センターの一角だったのだが、夫婦で働いていた加藤さんそっくりである。当時も一休そっくりだと、社内旅行のバス車中の写真があったのだが、自分の子供時代の写真アルバムを引っ越しの際に忘れて来たのに、そんな物がある訳がない。その旅行は越前方面で、原発に、もんじゆ、ふげん、と名付けたらしい永平寺にも行った。 一休を作っているのか加藤さんを作っているのか区別が付かないが、山の中の工場で、街に下り、夕方になりようやく帰宅する20代の若者を見る、というような環境で、金歯をむき出しで笑うおばさんである、加藤さんの奥さんが次第に可愛く見えてくる、という怪現象を経験したのを思い出すのであった。。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




今まで制作した噺家は三遊亭圓朝と古今亭志ん生である。相撲界でいえば常陸山と双葉山を作ってしまったようなものであろう。臨済義玄と一休宗純の頭部を作ってしまい、こうなると、禅宗の大本、達磨大師がいないのはむしろ不自然な気がしてくるが、しかしただ座禅する達磨は、どうも食指が動かない。ただ一つそそられるモチーフがある。雪舟が描いた国宝、『慧可断臂図』(えかだんぴず)“達磨が少林寺において面壁座禅中、慧可という僧が彼に参禅を請うたが許されず、自ら左腕を切り落として決意のほどを示したところ、ようやく入門を許された“という場面である。壁に向かい横向く達磨にこれも横向きの慧可が切断した自分の腕を持って情けない顔をして立っている。私が手掛けるならこれしかない。構図など、歴史的ならいにのっとった方がかえって面白い場合もあるが、この場合、手掛けるとしたなら、雪舟とは全く違う構図を考えた方が面白そうである。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




それにしても、金魚を眺め暮らす、というのはナイスアイデアであった。下手な頭さえ使わず空っぽにしていれば、勝手に、あれやれこれを作れと降って来る。ぼーっと眺めていると30分などすぐ過ぎてしまう。 自然物である人間が作る高層ビルと、自然物である蟻が作る蟻塚は本来同じ物であろう。しかし人間は、余計な頭を使い過ぎると原発など作ってしまう。 寒山と拾得は文殊菩薩と普賢菩薩の化身ということになっている。現在廃止措置中だという高速増殖炉の原型炉を「もんじゅ」、新型転換炉の原型炉を「ふげん」という。目眩ましとしては、悪い意味で実に秀逸なネーミングである。宗教界からクレームは出なかったのだろうか?と検索したら。地元の「永平寺が命名に関わった説もあり、西田正法事務局長(56)は『菩薩の知恵を借りて無事故を願ったのなら浅はかな考えだった。仏教者として世間にざんげすることから始めたい』」と語りました。(2011年10月26日 読売新聞)
喝!!!


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




一休が竹竿で掲げるしやれこうべ完成。昔、頭蓋骨のプラモデルを作り、一晩かけて塗装をやり過ぎてしまい。しやれこうべの佃煮になってしまった。当時はそこらにうち捨てられたり、軽く土をかけられただけなんて死体が多かったろうから、新鮮な白骨で良いだろう。やり過ぎは我慢しよう。 アポロ11号の乗組員の食事メニューで何だろう?と思って以来ようやく食べたオートミールは、朝食はだいたいお粥にして食べているが、金魚にやったら喜んで食べる。 それにしても連中は良く動く。何か理由があって、振り向いたり上行ったり、下行ったり方向転換しているのだろうか?もっとオートミールくれ、とこちら見ている金魚が、何でしやれこうべなんか作ってるんた?という顔するので、いや私にだって一応理由があるのだよ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




人間も草木と同様自然物、草木が持っている程度の物はそなわっているはずであり、その声さえ聞いていれば良いのではないか。下手な頭を使って考えたことはことごとく外し、へそ下三寸より湧き出る命令に従った方が、その時何でこんなことをしているのか理解出来なくても、必ず辻褄が合い、結果が良いことに、早々に気付いたことは幸いであった。”考えるな感じろ“である。幼い頃は、何処かの王様に石の塔に幽閉され、ここで一生好きなことをしておれ、なんて夢見たような私は、レンズを外側に向けず、眉間にレンズを当てる念写が理想、なんていっていた時点で、現在のモチーフに至るのは必然だったのではないか。元々無神論者で不信心者であつたから、寒山拾得も、ずっと、単に物語として面白いから惹かれている、と思い込んでいたので、宗教的な部分に至ることは避けるつもりでいたのに、金魚を眺めていれば必ず棚からぼた餅が降って来ると、思ってそうしていたら、あらぬ方向に向かっている。(あくまで撮影のために金魚を飼っている、と思い込んでいる人が存外いる)金魚を眺めるという“手法”は、思った通りの効果を私にもたらせた。金魚を眺めるしか策がなかったのは、つい最近のことである。 10年以上続けたジャズ、ブルースシリーズから突然作家シリーズに転向した時は、嗚呼これは戦前生まれの日本人なのだ、と澁澤龍彦の脚を何度も切断したのを思い出す。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


« 前ページ