明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



K本の常連で新年会。午前10:30集合とのこと。参加は微妙であったが、今年に入って元旦しか休んでいないし、階下のフリーの映画プロデューサーYさんから、手書きの詳細なタイムスケジュール、地図がポストに入れられている始末で、小学生のお誕生会か、と思いながらも、それをエンピツで書いているYさんを想像すると、参加しないわけにいかなくなった。午後より遅れて参加。会場は、大手建設会社部長、Mさんのマンションのゲストルームで、予約抽選の上1時間1000円で借りられるという。ガラス張りのトレーニングルームがあるような高層マンションで、江東区が一望という感じの、だだっ広いゲストルーム。メンバーはMさんご夫婦、造船会社勤務のFさん、篤姫で山内容堂の舞台俳優Kさん。何関係か知らないサラリーンKさん。女性ただ一人の常連で、ジャニス・ジョップリンそっくりな笑い声が豪快なHさん。それにYさんに私。Gさんと、たまにモヒカン刈りのMさんは風邪をこじらせ欠席。Fさん指揮のもと量産した餃子の鍋を中心に、各自持ち寄りの各種酒類やご馳走を堪能する。しょっちゅう顔を会わせる、シャレが通じる気心の知れた人達なので、楽しい時間がすぎる。 K本は20代の終わり頃から通っているが、開店の4時に出かけ、隣の人と話すこともなく、1時間ほどさっと飲んで帰っていたので、他の常連と顔を合わすことはなかった。朝まで制作するにも丁度良い時間だったのである。そのうちYさんが同じマンションに越してきて、エレベーターに乗り合わせ、誘われるようになったが、しょっちゅう赤い顔の住人と飲む気になれず誤魔化していた。それがいつのまにか常連に飲み込まれ、長っ尻になっていったのである。もっとも一番の古株は私で、みなさん通い始めた頃は、すでにK本で撮影した私の永井荷風が飾ってあったという。 予定時間が過ぎ、次の団体が来たので片付け、奥さんに2次会禁止をいいわたされていた、恐妻家ともっぱらのFさん以外K本になだれ込み、しばらく飲んでお開きとなった。
18からの付き合いの金工家のHから『今、五木寛之の人間の覚悟を読み終わったところで改めて石塚は 正しい生き方をしてると実感した。』とメールが着ていた。私は五木寛之というと、三島が自決したころ新聞連載していた『ゴキブリの歌』くらいしか読んだことがないので、何のことやら判らないが、詳しいことは聞かずにおいた。日ごろ読み違い聞き違いの多いHのこと、しょうもない結末になりそうだからである。

01/07~06/10の雑記
HOME

コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )




小津はなかなかのコント作家であり、計算されたギャグには笑わせられるが、下町生まれの小津にとって、ギャグを考えるのは楽しかったに違いない。私はというと、ギャグということもないが、なにがしかのギミックを加えたくなる。とくにアダージョの表紙は、作家として個展で発表するのとは異なるし、人物を1カットで表現しなければならない。都営地下鉄線を利用する、特集人物に興味がない人にも手にとってもらいたいし、深刻ぶった人物を、深刻ぶったまま通勤客に見せるわけにはいかない。なぜなら私だったらうっとおしいからである。 昨日、一晩かかって画面に押し込んだ○○○だが、小津映画に詳しくない人には、なんのことやら判らないだろうし、画的には無いほうがまとまりは良かったが、私には“普通”で我慢できず、けっきょく力技で構図を見直し、入れてしまった。
私の世代というと、昭和30年代の子供の頃、クレイジー・キャッツ、青島幸夫、さらには赤塚不二夫等の洗礼を受けた世代である。そう思うと○○○は、彼等の頭めがけて、よく落ちてきたものである。

(追記:金ダライではない。真っ赤な金ダライなど見たことも聞いたこともありません)

01/07~06/10の雑記
HOME

コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )




小津安二郎像を屋上で撮影する。ここではロバート・ジョンソン、ブラインド・レモン・ジェファーソン、稲垣足穂などを撮ってきた。周囲に高い建物が少ないので、様々な光線を選ぶことができるのが良いのである。 フィルムを現像している間、構図を考えておこうとデジカメで撮影したのだが、色々やっているうち、デジカメで撮った、そのカットが良くなってしまい使うことにする。次に山内静夫さんが、撮影に使うことなどいっていないのに絶対赤、といった○○○を撮影する。周囲の住人が見たらどう思うだろうか、というほど屋上で撮るものではないが、同じ光線で撮れば合成が楽である。 パソコンに取り込んで確認し、古石場文化センターに展示してある、独立プロからの寄贈品、35ミリ映画用カメラ、アリフレックスを玄関先まで運んで撮影する。 気合を入れるため、K本にてキンミヤ焼酎を放り込んだ後、合成作業に入る。映画でいえば編集作業ということになるだろう。○○○は、このためにわざわざ購入したものだが、本来小津が台本片手に持っていたらおかしいものである。おかしいから持たせようと思ったわけだが、おかしいだけに、さりげなく扱うべきである。ところが、選んだ小津のカットを使うとなると、真っ赤なそれが前面に来てしまうことになる。はずしてみると、その方がバランスが良い。そもそも、小津ファンでなければ意味不明な物である。止めることも考えたが、一晩がかりで構図を考え、無事配置されたのであった。

01/07~06/10の雑記
HOME

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




小津の着彩も終わり、ピケ帽の仕上げ。薄くぴったり作るのは案外面倒である。以前一つ目を作って気に入らず、これは2つ目である。随分無駄な時間をかけてしまった、と思いながら、途中で止めた一つ目を何気なく被せてみたら、なんとこっちの方が似合うではないか。この期に及んで余計なことに気がついてしまった。結局潰さないで良かったわけだが、また仕事が増えた。原因は、初めのころと顔が変ったせいであろう。 明日はようやく小津本体の撮影である。そのさい小津が晩年、主にロケに使用したカメラと同形の、アリフレックスも撮影する予定である。それと小津にもたせる、小津組プロデューサー山内静夫さんが○○○は絶対赤。といった物も。

01/07~06/10の雑記
HOME

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


撮影  


午前中より自転車に三脚を積み、元旦にロケハンにいった場所にでかける。昔一度撮影している場所である。たしか関西TVの『痛快エブリディ!』で撮影の様子を再現することになり、桂雀々さんと歩いた場所でもある。今でこそ、よほどの効果がないかぎり、片手にカメラ、片手に人形を持って撮影することはなくなったが、このときマイクが音を拾っていないところで、人形を国定忠治が刀をささげ持つようにするので“名月赤城山撮法”といってます。などと雀々さんに、いい加減なことをいった覚えがある。初めていったのだが、離れたところから、この妙な撮影法をTVカメラで撮られていると思うと、馬鹿々しいことでもいってなければ間が持たない。 もう一箇所の候補地を軽く撮影し、現像に出し帰宅。大相撲千秋楽を観る。朝青龍、決定戦で白鵬に勝ち、一皮向けた気がした。
現像も無事に上がる。デジカメはロケハンと、部品の撮影くらいにしか使わない。ネガをフィルムスキャナーでスキャンしている。 被写体である人物を作って背景を撮影し、この段階でまだ半分である、今回は人形と他に2つ撮影し、合成して1カットを作る。小津は構図にこだわり、こっちだあっちだなどと、湯呑み一つで粘ったらしいが、私も最後に時間一杯、粘ることになる。自分で考え、好きでやっているからいいようなものの、という話である。

01/07~06/10の雑記
HOME

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


曇天  


銀座に絵の具を買いに行く前に昼食にT屋に行く。昨日、Hさんがサバの干物の下処理をしていたのを思い出した。ビールに塩サバ定食。天気が悪くてあまり干せなかったらしい。先日私が置いていったCSN&Yのレコードを、ガロみたいだと奥さんがいたく気に入っていたというので、バッファロー・スプリングフィールドでも持ってくることにする。中学時代、スティーヴン・スティルスといえば、ストライプのシャツばかり着ていて、私も真似してストライプのシャツを着ていたような覚えがある。
寝たいときに寝て、起きたい時に起きていると、自分が何時間寝ているのか良く判らないが、睡眠不足は間違いない。茅場町駅ホームのベンチで、我慢できずに寝てしまう。山野楽器でギターの弦を買い、伊東屋で絵の具を買う。帰りの電車で、技術的なことでアイディアが浮かぶ。ボンヤリしているほうが名案が浮かぶようである。そのかわり森下賢一さんの『居酒屋礼賛』にはさんでおいたギターの弦を落としてきた。4時過ぎ、『団地妻 昼下がりの情事』を貸してくれたYさんから電話。K本からである。一区切り付けて、着彩を残すだけの小津を抱えていくと、隣に小栗康平監督作品などのプロデューサー藤倉博さん。松竹などの映画関係者は、みんなYさんが連れてきて常連になっていくのだが、藤倉さんは28日まで展示している、古石場文化センターの荷風像も見てくれたそうである。丁度いいと、小津像を披露する。誰も知らなそうな人物を別にすれば、K本で披露するのが習慣になっている。ここでウケないようでは話にならないが、どうやら無事、お話になりそうである。


01/07~06/10の雑記
HOME

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


一日  


Tさんから送ってもらった小さな台本を、演出中の小津に持たせる。最後に完全に乾燥させて着彩に入りたい。
乾燥機に小津を突っ込みK本に顔を出すと、常連席に誰もいない。珍しく今日は誰も来ていないそうである。しばらく飲んでいると森下賢一さんがみえる。昨年暮れに出たばかりの『居酒屋礼賛』(ちくま文庫)をサイン入りでいただく。帯には“あの名著が、最新情報を載せて文庫化!”。K本は237P。『なぜか居酒屋マニアの間では入りにくい酒場の最たるものらしく』とある。『コの字カウンターの一角に毎日たむろし、柄の悪い言葉で、知らない人が見たら喧嘩腰みたいに毎日きつい冗談を言い合っている常連がいるので、ビビる客もいるのかも知れない』。正確にいうとそんな常連は、私と同じマンションの一階下に住み、私に『団地妻 昼下がりの情事』を貸してくれたYさん一人だけである。いくと隣に座ることが多いが、Yさんが(昨日のように)飲みすぎた場合、私はあらぬ虚空を見つめ、隣の人とは初めて会った他人のような顔をすることにしている。実際は悪いのは口だけなのだが。そもそもほんとに悪いと、すぐ出入り禁止になる店であり、出入り禁止にした客の顔は、絶対忘れない女将さんである。とぼけて入ってきても無駄。 本日は閉店の8時まで、数少ない女性の常連Hさんと、森下さんと私の3人だけの常連席であった。その後コンビニに届いたスーザン・テデスキのCDを受け取り、T屋の前をサッと通り過ぎると、案の定、さっきまで一緒だったHさんが飲んでいる。10メートル先に自転車を止め、暗闇の中でしばし逡巡す。『今日は乾燥を続けるだけだよな』引き返し店に入ると、目ざといHさんが通り過ぎた私の愛車ピクニカに気付き、店主のHさん、すでに私の家に電話をしていた。席に着きCDをカウンターの上に置き、「帰ってこれ聴きたいから2杯だけね」。しかし話が盛り上がり、『家に帰って乾燥中の小津を、ただ見つめてたってしょうがねェよな』フト思ったのがいけなかった。

01/07~06/10の雑記
HOME

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


激突  


小津作品ばかり観ていると、同じようなシチュエーション、配役、セットで区別がつかなくなるので、1970年づいているところで、日活ロマンポルノ第一作『団地妻 昼下がりの情事』(1971)を観る。公開当時はさすがに観ていないが、主演の白川和子は、私からするとオバサンに見えたものである。後に観たのは蒲田あたりの映画館だったろう。それにしても、今見るとなんということもない。団地にすむ女房が、同じ団地の女に騙され、そそのかされて売春を始め、旦那が女好きの外人から仕事を取ろうと、売春婦を差し向けたら、それが自分の女房だった、という話だが、売春斡旋業者の役で出ていたのが、5年後ににっかつ衣装部の特攻服を着て、セスナ機で児玉誉士夫邸に突っ込んで死んだ“最後のカミカゼ”こと前野霜一郎であった。三島ファンだったらしいが、画面を見る限りまったく感じさせない。 それにしても男女が車に乗ったまま激突死の最後は、あまりにもお粗末な結末。他の作品にも似たようなシーンがあったと思うが、そんな時代だったのだろう。

01/07~06/10の雑記
HOME

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




昨年から作り始め、今年に入り、2日から休みなく作っていた小津も、ようやく乾燥に入った。 生前の姿を記憶している方々は大分少なくなったであろう。小津がどんな色の服を着ていようと、どうでも良いようなものである。そもそも私は、日ごろ本当のことはどうでも良い、といっているわけである。しかし、こだわりの人小津安二郎は、こんな色は絶対着ないというのがありそうである。そう思うと、関係者が、こいつ頓珍漢なことしていやがる。といっているのが想像され、気になってくるのである。初個展のとき、私の作ったピアノの鍵盤を数えている女の子がいたが、私にとってどうでも良いことでも、おそらくピアノを弾く彼女にとって、それがピアノかどうかの重要事だったのではなかろうか。 案の定、小津は濃淡の差こそあれ、グレーの物ばかり身に着ける人で、例外的に濃い紺色のセーターが“あったかもしれない”というほどの人物であった。関係者に会って確かめるだけの価値はあっただろう。
先日、T屋のHさんが、レコードプレーヤーを出してくるから、聞きながら飲まないかと誘われていた。本日は小津を乾燥機に入れて一日中放っておくつもりだったので、3時過ぎにでかける。Hさんがかつてのフォークを聴きたいというので、何十年も聴いていない『青春の詩』吉田拓郎 『第4回フォーク キャンプ コンサート』(1969年円山公園野外音楽堂)『71全日本フォーク・ジャンボリー ライブ第一集』(中津川椛ノ湖 人間開放72時間)『教訓』加川良などを持っていった。今聴くと、回転速度を間違えたと錯覚するほど皆若々しく、高田渡の喋りが元気溌剌で笑ってしまう。すべて中学時代に聴いたもので、青春といわれても、これから訪れるものだと思っていた頃である。その他、昨年暮れ深夜TVで観て、あまりのくだらなさに呆れた『いちご白書』(1970)に使われていたCSN&Y『Deja Vu』など。途中から奥さんが合流し、どぶろくを飲んでいた。ソウル、ブルースなども持っていったが会話弾まず。『銭ゲバ』が始まる9時に帰宅。少年サンデーに連載されていたのは1970年であった。

01/07~06/10の雑記
HOME

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




3、4年に一度くらいの割合で、作品制作上の目が、突然1ランク上がったような状態になることがある。それは前触れもなく不意にくるのだが、過去の作品が、急にみすぼらしく見えるのである。こんなものを当時は良いと思っていたのかとガッカリするのだが、ということは、逆にいえば、どこが駄目だかハッキリ見えるということである。先日、以前作ったディアギレフを見て、呆れかえって首を外した。実在した人物は、多くは平面のモノクロ写真の陰影で、立体を感じて作るわけだが、資料としていた写真まで違って見える。手を入れてみたら、たった数時間で見違えるできになった。なにしろ、何をすべきかハッキリ解るのだから面白い。そこで以前イメージした、ソファーに身をしずめ、美しいバレエダンサーを、ドンヨリとした眼で眺めているディアギレフを作ることにした。ダンサーは男であることはいうまでもないが、伝え聞く、ヘアートニックをプンプンさせた雰囲気を出してみたい。
想えばこんなことをずっとくり返してきたわけだが、見違えるでき、などといって、いつまでもつのだろうか。私の場合、作りたての自惚れている間に発表しないと、何もできずに終りかねない。家に遊びに来た友人だけに「どうだい、この新作。面白ェだろ?」なんていって暮らしていけたら、どんなにいいかと夢想したのは20代の頃である。ついでに押入れを開けると、4斗樽が鎮座していて、栓をひねるといつでも酒が出てくれば、さらによかったはずである。

01/07~06/10の雑記
HOME

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




小津も、あと一息で乾燥に持っていけるところまできた。 小津というと、白いYシャツとピケ帽姿で演出する姿である。しかし季節のことや、マフラーを首に巻いてみたかったこともあり、カーディガン姿にした。展示のことを考えて立たせたが、次回は、片膝を立てか、胡坐、または寝転がりと、小津といえばローアングル、の姿を作ってみたい。そのときこそYシャツ姿にしよう。 服装で躊躇したおかげで開始が遅れたので、つい朝まで作ってしまった。全身に取り掛かったら一気にいく。T屋で朝食でも、と思うが、朝の6時頃から、タクシーの運転手が酒盛りをやっている。それはいいのだが、もうもうたる煙草の煙がきつい。よって、寝ることにした。したのだが、墓所のセールス、その他の電話のおかげで眼が覚めて寝られず。そのまま材料を買いに行くことにした。大手町駅構内をボーッと歩いていて、声を掛けられたのがアダージョの堀間編集長。こんなこともあるのだ。御茶ノ水で粘土、その他材料、スーザン・テデスキーのCDを2枚買って帰宅。そのまま制作を続け、乾燥するところまで持っていった。と書いたところで、ひとっ風呂。これからT屋で飲って、今日こそ寝ることにしよう。

01/07~06/10の雑記
HOME

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


一日  


撮影用に注文していた物が届く。撮影のためだけなら小さい物でよいのだが、実用的な大きめのサイズにした。用が済んだ後、また、おかしなことをやってしまった、という気分を忘れるためには、せいぜい自分で使って、買っておいて良かった。という方向に持っていくしかない。私は普段、必要をまったく感じない物なのだが・・・。しかし、小津にこれを持たせることにより“感心されるくらいなら呆れられたほうがマシ”という私のヘキは満足させることができるであろう。
日本史サスペンス劇場で『東大落城 安田講堂36時間の攻防戦・・・40年の真実』を観る。もう40年前のことらしい。昔は、さまざまな人間が、さまざまな場所に立てこもったものである。学生運動というと、ハンドスピーカーによるアジ演説がつきものだったが、そのため、三島の自衛隊バルコニーの、スピーカー無しの演説が、当時妙に感じた。始めから聞こえなくても構わなかったか、思ったより自衛隊員に野次られてしまったか。おそらく、その両方であろう。拙著『乱歩 夜のゆめこそまこと』で明智小五郎に扮していただいた市山貴章さんが、加藤総長代行の横にいた。


01/07~06/10の雑記
HOME

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




昨日注文した物は、撮影に使うかどうか迷っていたものである。これがあると面白いが、知らない人には意味が判らない。しかし中井貴一も登場しないとなれば、普通にリアルになってしまう。私は耐え切れずに注文したのであった。
本日は古石場文化センターのシネマフェスティバル最終日。小津に持たせるシナリオの参考にするため、展示中のシナリオを、ケースから出して撮影させてもらう。今日は小津ハマさんと、さらに元、小津組のプロデューサーで、現、鎌倉文学館館長 山内静夫さんもみえているという。一度帰宅し、制作中の小津の頭をひっこ抜き、再び文化センターへ。注文したブツのおかげで、服装の色についての予定が変ったので、最終の『小早川家の秋』上映後、控え室のお二人に、小津の頭を見ていただきながら、服の色について質問させていただく。そこへ本日、小津について講演していた片桐はいりと、『かもめ食堂』の監督が、お二人に挨拶に来た。そうとうな小津ファンらしい。その間、私は立ち位置上、関係者のようになってしまい、バツが悪くて、小津の頭をポケットに押し込んだのであった。ところで山内さんは、服の色に対して質問した私に、最後になぜか、○○○は絶対に赤。といった。それは服のことではなく、私が撮影用に注文したブツのことである。そんなものを使うことなど、いっていないので不思議であった。

01/07~06/10の雑記
HOME

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




実在した人をわざわざ作るのであるから、ただリアルなだけなら、残された写真があれば良い。本人はやるはずがない、やったとしても、そんな写真は残っていない、というものにならないと意味が無いのである。小津安二郎の場合、私の頭に最初に浮かんだのは、小津が息子のように可愛がり、自宅に小津設計の、小津自身の部屋までつくった佐田啓二。その遺児である中井貴一に、演技指導する小津安二郎である。 佐田啓二は小津の亡くなった翌昭和39年、後を追うように自動車事故で亡くなったが、父親の甘さには及ばないものの、中井貴一は最近実に良く似てきている。小津の亡くなる直前、入院中の小津と並んだ幼い写真も残っている。 我ながら面白いアイディアだと思ったが、実際依頼する場合の、実務上の諸々の問題を考慮する以前、中井貴一は、はたしてシャレが通じる人物だろうか?そんなことしか頭にない私である。着想の時点で、イメージ通りの小津像が完成するのか、ということもあり、この案はとりあえず鞘に収めている次第だが、さてそうなると次の一手である。 私は特に乱歩の撮影で、撮り終わった後、どうにもしようがない品々が手元に残ったが、今回も撮影に使える確証がないまま、只今注文したところである。

01/07~06/10の雑記
HOME

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




小津の全身は未だ作り始めていない。どんな服装にするか決めかねているからである。2種類作る予定だが、白いシャツはともかく、問題はカーディガンを着た場合である。私はお洒落など無縁な人間で、まったく興味がない。しかし小津安二郎などという男を作ることになって、しかもよりによってカーディガンを着せようと考えた場合、実にやっかいなことだということは解るのである。小津の写真はほとんどモノクロであり、残された資料に小津の服は残っていない。小津の実弟、信三が兄の服を受け継ぎ、大事に着用したあげく、着潰したようである。本日、古石場文化センターのシネマフェスティバルの初日。信三の奥さん、著作権継承者である小津ハマさんとお会いした。まるで小津映画の登場人物のような御婦人であり、小津の首を持って現れた私の質問に、その首を大事に包むように手にしながら、気さくに答えていただいた。そして小津愛用のマフラーの色を確認したが、カーディガンの色は読みがはずれていた。 『東京物語』上映の前の香川京子の講演を聴いて帰る。高校生の時、最初に観た東京物語は途中で耐えられずに帰ったが、今回は観すぎたので帰った。

01/07~06/10の雑記
HOME

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


« 前ページ