明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



寒山拾得を撮影。『タウン誌深川』用。ここ数号は新作をモチーフにしている。出来立てを被写体とするが陰影は出しっぱなしである。それにしても想像していたのとまるで違った寒山拾得になった、ディアギレフはコクトーに「私を驚かせてみろ」といったが、私は自分で自分を驚かすのを目標としている。予定などとは違うべきであり、これで良いのだ。 良く判らないまま始めた今回のモチーフだが、まさに〝月を指させば指を認む”に尽きるだろう。座禅をやったこともないのに、と思いながら。しかし不立文字、言葉や文字では伝わらない、と発達した禅画に、その気になってしまった私は、まさに考えずに感じた訳で、これで良かったのではないか、とここに至り思っている。人間も草木同様自然物なのだから、あらかじめ肝心な物は備わっている。ということは制作のため、自分と向き合い随分前に気が付いていた。だからこそ、外側にレンズを向けず、眉間にレンズを当てる念写が理想だと思ったのだろう。その念写のためには陰影が邪魔だった。そう思うと良いモチーフに至ったと言えるのかもしれない



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フサ付き紐が届く。これを寒山拾得の腰紐に使う。一度古今亭志ん生の火炎太鼓のフサに使ったことがあるが、お茶で煮込んで古びさせたが、陰影のない手法だと、やり過ぎだけが目立つ。作る立場としては物足りないが、最初の三遊亭圓朝の撮影の時、リアルに着彩したつもりで、目視では実際そうだったのだが、撮ってみると顔がただの汚れに見え、驚いて三脚もそのままに、一色のベタ塗りに塗り直してことなきを得た。その場で確認できるデジカメでつくづく良かった。そう思うと陰影のない日本画でも汚し表現は一部を除きあまり記憶にない。以来、やり過ぎを戒めている。もしかしたら私の辞書に載っていなかった、引き算が覚えられるかもしれない。やはり自分で必要だと自覚するまでは、いくら人に言われようと変えられない。そう思うと師匠や先生がいたら小学生時代同様苦しんだろう。自覚さえすればいくらでも変われ、写真から陰影さえ消せる。



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工芸学校の同級生が地元のYouTubeに出ているというので観た。彼の人柄も感じられ判りやすい。デッサンの試験などあってないような学校であり、だから私も入れた訳だが、にもかかわらず彼は日本伝統工芸展で朝日新聞社賞を受賞、その作品は日本工芸館に入っており、現在は伝統工芸東海支部の審査員を務めている。 思い出もたくさんあるが、卒業直後に、アパートで女の子と別れを惜しんで飲んでいた。すると彼と現在、中尊寺近くで陶芸家をやっている同級生の声がする。居留守を使っていると、一升瓶をぶら下げているらしい二人の「絶対いるって、ラーメンと酒ばっかりで倒れているかもしれない。」なんて聞こえてきて、裏に回ってガタガタ雨戸を外してしまった。二十歳になったばかりの私はバツが悪く「上がれよ」といってしまうし、私より一つ二つ上の彼らも、そこまでは気を使えず上がってきてしまう。 何が言いたいかというと、こんなことで歴史は変わってしまう訳で、彼らが雨戸を開けて入って来なければ寒山拾得など作っていなかったかもしれない。しかし一方、あの時彼らが雨戸を蹴破ってくれさえしていれば、と涙ぐむよりはマシである。



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寒山拾得、もっとハイウエストにした方が法衣らしくなる。と修正。さらに中国風に沓にする。フサ付きの紐が届いて腰紐にすれば完成となる。最終的には真ん中に虎に乗っているか、はべらせている豊干禅師が来て『三聖図』となる。 拾得の顔面をうっかり踏み潰していなかったら、二人の顔、表情は違っていた訳で、肝心の頭を踏み潰しても、ただでは起きず。しかし踏み潰したおかげで寒山拾得に関して停滞していた私の何かをも踏み潰し、一山超えたのは間違いない。こういう天からの賜物は、取りこぼすことは100%ない。 達磨大師が壁に向かって修業した少林寺に作者は不明だが、『慧可断臂図』が収蔵されているのを知った。これを見る限り、雪舟の断臂図はこれを参考にした物だろう。構図もほとんど一緒である。そこに自分のオリジナリティを加味したとしても、達磨と慧可二人して真横を向いている構図が面白かった。そうとは知らなかった私はしなくて良い感心を返してくれ、と多少いいたい。



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一日  


最終的には陰影の無い石塚式念写法での撮影になるが、そのせいもあり、フェイスブックとインスタにアップした寒山は少々遊び過ぎ、まるで乱歩の踊る一寸法師か、という気味悪さである。ブログにはすでに登録済みの画像しかアップが出来ないでいる。 恒例の花見の誘い。たまには出て来い、というが、私のストレスの解消も作ることによってしか成されない。 久しぶりに、ジャズではもっとも聴いたチャーリー・パーカーを聴いていたら、岐阜の製陶工場にいた頃のことが思い出された。陶芸家を目指していたが、技術も経験も何もなく、先行きの長さに呆然とし、酔っ払って田んぼに落ちたりしていた。自分を信じることなどまったく出来ず、感じるどころか考えてばかりで、月を観ずに指ばかり見ていた。嫌な思い出である。戦場に駆り出されないくらいの役立たずになった頃、ようやくイメージした物が目の前に現れるようになる。



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昨日書いたように、また始める前も書いていたに違いないが、寒山拾得は、人形作って写真にするということで充分、新たな寒山拾得像を、などとは考えず、あくまで伝統に準じ、と戒めながら取り掛かったはずであったが、そこから間違っていた、と今は思う。 昨日〝寒山拾得が絵師の個性が一番出るモチーフの一つ”と書いて、なんだ判っていたじゃないか?と思った。寒山拾得を選んでおいて、伝統的な寒山拾得を目指した矛盾に気が付かず、伝統的な寒山拾得の首が出来たのに釈然としないまま、何が気に入らないのかも判らず。結局、臍下三寸のもう一人の私だけは、理由を知っていた。それに頭が追い付くためには拾得の首を一度踏みつぶす必要があった。結論として、長らく実在した作家を作って来て、眠ったままでいた架空の人物を好きなように作るための選択だったのだろう。結果、予定と違う表情に、古代中国に天然パーマはいたのだろうか?などと呟く始末。 結局〝考えるな感じろ、月を指差し、月を観ずに指を見ていてはいけない”に尽きるようである。これで良いのだ。



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始める前の私は、人形を作り写真作品にする、という奇手を用いる分、通常と違うのだから、それだけで充分、末席を汚さぬよう、伝統に乗っ取った寒山拾得を、と思っていたはずだったが。 架空の人物の表情を作るのが面白くて始めた40年前の原点に戻った気がする。今回のモチーフは人間の種々相を描くには最適といえるだろう。蝦蟇仙人なんかに遠慮がいるはずがない。つい手が滑ってカエル染みた顔にしてしまった。酔いが過ぎた。 星の数ほど描かれて来た寒山拾得だが、これほど癖っ毛の二人は知らない。ふと髪は粘土でなく人形用のヘアーを使おう、と思った時点で、多少は思っていたかもしれないが。通常の伸びたおかっぱみたいにした時点で印象が変わり、嫌になってやり直し、もみ上げもうなじにも毛がなく、頭に毛の固まりを乗せたようにしてみた。かといってボリュームを持たせようと思うと、ドラマの菅田将暉並みの癖っ毛になった。古代の中国に天然パーマがいたのかは知らないけれど。 寒山と拾得は絵師の個性がもっとも出るモチーフの一つだろう。出来てみると初志とは違って、眠っていた種類の私の個性炸裂となったかもしれない。



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束ねた髪を拾得に貼り付けて行く。やってるそばからクシャクシャになっていく。手に着いたボンドがまた。子供の頃からのプラモデル失敗のパターンである、なんとか。乾いた後にバサバサとざん切りに散髪。まあ例によっての長髪。しかしどうも引っかかる。顔をもっと露わにしたい。 昔、〝劇聖”九代目市川團十郎を作った時、当時悪性のインフルエンザが流行っていたので、團十郎に睨まれたら風邪ひかない、と江戸時代から言われていたので、正義の味方、荒事の華、暫の團十郎が、改修直前の歌舞伎座の上を覆い尽くすほど巨大化し、東京を睨み倒す、というのを考えたが、苦労して作った顔が、あのに隈取に覆い尽くされてしまうことに耐えられず、助六に変更した。 新たな寒山拾得をとは考えていなかったが、やはりそうは行かず、ヘアスタイルもやり直す。

 



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一日  


最後に残った寒山と拾得の人形用の髪の貼り付けだが、一度目は上手くいかず、そうこうして髪がこんがらがって収拾が付かなくなった。検索したら、最初に糸でくくってまとまっている束を崩さないようにして作業せよ、と。新しく入手。まったくぶきっちょでいけない。 『タウン誌深川』の次号は寒山拾得にしよう、と原稿をスマホで書いた。完成し、文字数を調べようとコピーしたら、うっかり消してしまった。 森鴎外の『寒山拾得』は、何の参考資料も見ずに書いた、と鴎外は自慢気だが、閭丘胤(りょきゅういん)の閭丘を閭と間違えている。なんだか放りっ放しのような話で判りにくい。様々な人が目にするタウン誌ゆえ、もっと分かり易くしよう、と官吏の閭丘は、月を指差し〝月を見ないで指を見る”ようなミーハーな男で、豊干に寒山拾得が実は文殊と普賢だと聞いて、いそいそと会いに行き、結果、「豊干が喋ったな?」と二人はどこかに消えてしまった。ということに。



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タモリが笑っていいともを長く続けられた理由をネットで読んだ。「目標なんて、もっちゃいけません。目標をもつと、達成できないとイヤだし、達成するためにやりたいことを我慢するなんてバカみたいでしょう。人間、行き当たりバッタリがいちばんですよ。夢なんてなくたって生きていける。」私が笑っていられる理由だと最近気付いたこと、一言一句といって良いほど、まるでそのまんまである。渡世も違うし私とは共通点もなさそうだけれど。 私は生まれつきこうであり、ならば鼻が低かったり短足に生まれた人に何一つ責任がないように、私には一切責任がない、といつもいっているが、何かがぼた餅のように降って来て、私はただそれを受信しているだけのような気分が拭えず、そこにも何も責任がないようなところがあるかもしれない。おめでたく生きるために二重三重の安全装置が設定されているかのようである。あとは植木等の笑いながら歌うという技術か。これは難しいのだと本人がいっていた。



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それにしてもロシアとウクライナの戦争、子供のいる方々は子供に対してどう説明しているのだろうか。私は子供の頃、大人がどう見えていたかあまりに覚えいるので、子供と犬と酔っ払いと、自転車に乗ってるおばさんとは、なるべく目を合わさないよう心がけている。犬はたまたま一瞬目が合い、それから2ヶ月旧知の仲のようにピッタリと付きまとわれたし、おばさんは見ている方向に向かって来る傾向があるからである。   小学生の私は少年飛行兵の話を読んでいて、指折り数えて父が志願すれば戦争に行っていた、と知り、椅子を蹴って父の前に立ちはだかり「何で戦争に行かなかったんだよ!」数十年後、覚えていた父に親戚の前でバラされ赤面することとなった。 ある日の教室では廃品回収業の家の子がいじめられて泣いており、先生はおそらく職業に貴賎はないといったのだろう。また人間は平等なのだ、ともいった。?それは初めて聞いたぞ。後日の休み時間に先生に「天◯◯下と乞◯を殺したらどちらが罪が重いですか?と聞いたら、「そりゃ天◯◯下よ。」話が違うじゃんか。ウソばっかりだ。 今後も子供とはなるべく目を合わさないようにして行きたい。

 



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寒山拾得の着物のすそをボロボロにする。陰影の無い手法では着彩での汚しはそれこそただ汚い。意図を越えそうなので、ボロは形だけにする。先日思い付いた積雪の場面は、実際やって見なければ効果の程は不明だが、陰影のない石塚式ビクトリアリズムを始めてから、もっともっとの加算しか知らなかった私に減算を覚えろ、といっているようである。成り行きに任せが一番である。内から起こる変化には常に耳を済ませているから取りこぼしはないだろう。 寒山が持つ巻物は、撮影には適当な手持ちの実物を使うつもりなので、とりあえずは着彩を前に、最後に残るは髪である。河童以来の人形用髪を貼り付けるつもりだが、ぶきっちょゆえ、試しにやってみたらめちゃくちゃになった。今度は上手くいくだろうか。



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当ブログは、ほぼ私の忘備録と化している。読んで頂くのも申し訳ないようだが、今時寒山拾得を作ろうなどという人間に起こること、寒山拾得を作ろうと思わなければ起きないことをなるべく書きたい。 一代目の頭部が殻を破れず断念し、間を置いて二代目の拾得の頭部に取り掛かっている時である。確信は持てないまま形にはなって来た。座布団に座って作っていたが、ひょんな事で拾得を踏んづけてしまった。ちびまる子なら顔に縦線である。   当然亀裂どころかぐちゃぐちゃであったが、表面は乾き気味であったので痕跡は残っている。少しでも元に、と思ったが、それまでの方向性は元には戻せない。 最初に頭部を作るため粘土を掴んだなら、必ず完成まで持って行く、と決めていたが、すでに一度反故にしている。人相が一変したまま続けた。その痕跡は拾得の両目の視線どころか、眼球の位置が上下ずれているところに残っている。寒山もそれに準じてそうした。拾得の頭を踏み潰したことにより結果的に一山越え、そんな事故を拾ってさえの寒山拾得なのだろう。



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中国の顔輝、狩野山雪など、素朴な唐子調の寒山拾得から不気味な寒山拾得像が描かれるようになった経緯はどうだったのか。良く判らない。一年経っての私の印象はというと、聖と俗併せ持った人物が存在したとすると、それはおそらく尋常でない様子に違いないだろう。顔輝、山雪も生きた人間を見て来た挙句、そう考えたのではないか?拾得を手掛けるにあたり、生きた時代も違い、よって出会った事象も違う私が顔輝、山雪に準じたなら、今時、寒山拾得を創作する甲斐がない。それで難航し、その間足踏みしながら仙人など作ってしまった。 二人がボロを身に着け訳の判らないことを言っては笑っている。一人は寒巌に住まい、一人は寺の炊事係である。そして実は文殊と普賢の化身だと言う。鴎外などよりサン・テグジュペリの挿絵付きで読んで見たいような話である。



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昨晩の地震で停電。子供の頃は頻繁にあったが。月が出ていたのか窓越しの空は意外に明るい。子供の頃、夜中に地震で目が覚めると、父はすでに電気も着けずに茶の間に一人座っている。これが不思議でならなかったが、実は地震が苦手であったことを知ったのは随分後で、長年の疑問が解けた。たった今慌てていたはずが、ずっと座っていたような顔していたのを思い出すと可笑しい。 雪舟描く『慧可断臂図』は岩壁に向い座禅する達磨大師に後に第二祖となる慧可が教えを乞うが、相手にされず、己の左腕を切り落とし、覚悟の程を見せる、というモチーフである。これは雪積もる場面である。今年はすでに数回雪が降り、翌日雪の予報の時は雪を撮影に行こうと思ったが、この場面のために本物の雪を撮影に行く気になれなかった。そうこうして、昨日、積雪の光景を描くアイデアが浮かんだ。もちろん陰影が無いからこそ出来ることである。



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